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資料室: 日本史関連一般

「米国特派員が撮った日露戦争」『コリアース゛』編集、小谷まさ代訳、波多野勝解説、草思社、2005年4月発行、¥2,940(税込み)


米国のニュース週刊誌『コリアース゛』が総力を挙げて取材・撮影した従軍記録写真集から厳選して編集。日露戦争開戦前夜から日本海海戦までをカバーし、当時のリアルな戦争の実態を伝えていて、資料的価値が非常に高い写真集である。数多くの写真は私たちを往時へとタイムスリッブさせてくれ、歴史を抽象的な観念上の出来事としてではなく、生きた人間の営みだと分からせてくれる。日本海海戦の解説を世界的な海軍戦術の研究家として有名なA・T・マハン(アメリカの軍人で歴史家)が執筆している。
原書となった二冊の本を出版した(1904、1905年)『コリアーズ』(Colliers Weekly: An Illustrated Journal)は、1884年4月にアメリカでピーター・コリアーによって創刊された報道写真誌の先駆。1957年1月まで続いた。翻訳者の小谷まさ代は富山大学文理学部卒業の翻訳家。解説者は常磐大学教授。
「日露戦争は領土をめぐる戦いである。戦端を開くきっかけとなったのは、朝鮮と満州の領有をめぐる外交交渉の決裂だった。しかし対立の根本的な原因は、太平洋に向って氷河のようにじりじりと極東へ勢力を伸ばすロシアの南下政策と、それに危機感をつのらせた日本の防衛政策がぶつかりあったことである」(第1章)。第1章には戦争直前の日露交渉に関する電報が掲載されている。
「開戦当初のロシア軍を不利な立場に追い込んだ最大の理由は、本国の基地から前線までの途方もない距離であった」(第2章)。このことは、大東亜戦争を東亜だけで戦わずに太平洋戦争にしてしまった日本海軍の作戦上の誤ちを示唆している。
「日本軍は開戦から数日のあいだに二つの戦いでロシア艦艇に打撃を与え、さらには陸軍の仁川上陸まで無事に成功させ、実質的に制海権を掌握したのである」(第3章)。
「日本艦隊の攻撃によって旅順艦隊に打撃を受けたロシアは、海戦に力点をおくことができなくなり、満州での陸戦にそなえて兵力と物資の増強に総力を挙げた。・・・日本軍の行動は迅速だった。・・・日本軍が義州の四八キロ以内に迫ると、鴨緑江の南岸に進出していたロシア軍は塹壕を捨てて鴨緑江北岸に退却してしまったのである」(第4章)。
「冬のあいだ、日本の陸軍大部隊が強行軍で通過した道筋には、焼きはらわれた村もなければ、略奪で荒らされた家もなく、逃げまどう農民の姿などまったく見られなかった。軍隊内でも勝手な振舞いや騒動はいっさいなく、部隊が通過した村々に規律を乱した兵士の話は残されていない。長老たちが口をそろえて語るのは、規律厳正に粛々と行軍する兵士の姿である。行軍の途中で調達される補給物資の代金はすべて現地の市場価格できちんと支払われる。・・・いま我々が通過している韓国という国は、この二ヶ月のあいだに実に巧妙に日本化されていった。思いやりのある態度、公正な扱い、世論も個人も巧みに操る手際よさ、そういったもので日本はこの国を征服したのである」(第5章)。
「一九〇四年二月の開戦から数ヶ月間、ロシア軍を最も苦しめたのは、本国の基地から前線までの気の遠くなるような距離であった。ロシアと満州を結ぶ輸送路は単線のシベリア鉄道のみである。しかも当時はバイカル湖の凍結で鉄道は分断された状態だった」(第6章)。
「二日間にわたった鴨緑江畔での戦闘は、開戦以来最初の大規模な陸戦であり、兵力だけでなく機略・戦略においても敵を凌駕した日本軍が圧倒的な勝利を収めた。・・・自信過剰に陥って事態を楽観していたロシア軍は、まるで無為無策に兵を配置していた」、「鴨緑江の戦闘が終わると、日本軍は負傷兵の看護に力を尽くした。・・・日本軍はロシア人負傷兵を自国の兵と同じように看護したばかりか、ロシア軍が敗走するさいに遺棄していった戦死者を埋葬したのである。士官に対してはその階級に即して、日本陸軍士官と同等の扱いで丁重に葬った」(第7章)。
「廣瀬中佐は・・ロシア軍の放った一弾を身に受けて・・一片の肉塊をとどめただけだった。・・・本国到着後は、特別に選抜された将校たちによって東京まで護送され、葬儀の日には無数の熱狂した市民が墓所への沿道を埋め尽くしたという」(第8章)。
「日本軍にとって遼陽の会戦は、鴨緑江の渡河から四ヶ月にわたって進めてきた満州における軍事作戦のゴールともいえる戦闘であった。日露戦争において初めて両軍の主力が対決することとなったこの会戦には、近代戦史上最多の兵力が投入され、すさまじい死闘のすえに日本軍の勝利に終った。参加した将兵の数は日露両軍あわせて四〇万から五〇万、五日間におよぶ大会戦における両軍の死傷者は合計およそ三万人にものぼると推定されている」(第九章)。
「奉天へ退いたロシア軍は・・反撃に出ることを決意し・・沙河の会戦では・・およそ二週間後、日本軍の奮戦によって・・ついにロシア軍は沙河の北への退却を余儀なくされた」(第10章)。
「一九〇五(明治三八)年一月一日、旅順攻囲戦はようやく終焉を迎えた。半年におよぶ激烈な死闘のすえ、旅順はついに日本軍の手に落ちた・・・日本軍にとって二〇三高地の最大の価値は、旅順港に在泊するロシア艦船が一望できることである」(第11章)。
「投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数、いずれをとっても奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。・・・総兵力は七五万から八〇万人にのぼり、そのうちロシア軍は三六万一〇〇〇、日本軍は少なくとも四〇万であった。・・・奉天の周囲には防御線が何重にも構築され・・難攻不落と評される強大重厚な要塞だった。対する日本軍は東から西へ五つの軍を配置していた・・迂回包囲作戦である。この作戦は大成功を収めることになる」(第12章)。
「日本海海戦は日本海の制海権を争う日露の激突である。・・・大陸(満州)での陸戦を維持するためには海上輸送路の安全確保が必須であった。・・・連合艦隊は高速で運動して常に敵の全面を圧迫し、先頭部へ集中砲火を浴びせつづけた。・・・海戦初日の五月ニ七日、海上は南西からの強風が吹き荒れ、風浪が高かった。この気象は日本側に味方した。・・・やがて戦場は日没を迎えた。・・連合艦隊は主力による発砲を停止し、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。・・このとき偶然にも、それまで吹き荒れていた強風が弱まった。・・暗夜での水雷攻撃が容易になったのである。まさに天が日本側に味方したというべきである。・・・日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り、地上戦を支える生命線である海上補給路の安全を確保したのである」(第13章)。

「日露戦争、資金調達の戦い: 高橋是清と欧米バンカーたち」板谷敏彦著、新潮社、2012年2月発行、¥1,785(税込み)


著者は1955年西宮市生まれ。関西学院大学経済学部卒業。製造業界を経て証券業界へ。現在、投資顧問会社社長。
本書は、「証券価格を通じて当時の外債募集談を再現し、金融市場の側面から日露戦争全体を見直そうと試みるものである」(序文)。当時の日本銀行副総裁高橋是清(1854~1936)と同秘書役の深井英五(1871~1945)の一九〇四年からの三年間にわたる資金調達の旅は、「明治維新を経た日本人が初めて本格的に国際金融市場に足を踏み入れた物語」(序文)であった。
「日本では、松方正義の奔走により、明治三〇年(一八九七年)に貨幣法を施行し(註:日清戦争の賠償金を元手に)金本位制を採用した。また同じ年にロシアも金本位制を採用している。・・・高橋是清が海外で外債募集に苦労している間、政府や日銀は外貨決済のためと金本位制度を維持するために、日本に残った金準備である正貨の残存量と戦っていたのである。・・・金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった。金本位制度の採用は、国際金融市場における戦時公債発行のための最低条件のひとつとも言えたのである。当時日本にとってロシアと戦争をするためには金本位制は欠かせない条件だったのだ。このことはロシアにとっても同じことであり・・・」、「高橋是清が公債発行のために欧米に赴いた一九〇四年頃のロンドンでは、マーチャント・バンクが圧倒的な力を持って国際金融市場における要の地位を占めていた。・・・当時のロンドン市場の主力金融機関は、ほとんどすべてがユダヤ資本である。・・国際資本市場であるロンドン市場にアクセスするということは、ユダヤ資本にアクセスするのと同じことなのである。」、「(クーン・ローブ商会のヤコブ・)シフが財務面でサポートし、(鉄道王エドワード・ヘンリー・)ハリマンがハンド・インで鉄道を経営した。・・・(アメリカで)二大グループは・・モルガンとヒル連合対シフとハリマン連合である。・・モルガンは大西洋に目を向け・・ハリマンとシフは、太平洋航路に目を向けた。」、「日露戦争のこの時代は、シティのマーチヤント・バンクがその絶頂を迎え、ウォール街のインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていたのである」(第二章)。
明治以降の日本の半島・大陸への進出を単純に侵略と見るアメリカ人が今でも多いのは、後背地を持たない島国である小国、日本にとって、中華思想や大国ロシアの南下政策がいかに恐ろしいものであるかを、大陸国家であるアメリカ人は皮膚感覚として理解できないからである(それでも1960年代初め、アメリカはソ連によるキューバへの核ミサイルの持込に狂乱した)。日本人にとっては古代に白村江の戦いがあり、中世には元寇があり、明治時代にはロシアが朝鮮半島に軍港(不凍港)を建設しようとした。現在でももし日米安全保障条約(や米韓相互防衛条約)が存在しなかったら、ロシアは容易に北海道へ侵攻し、中国は沖縄から九州地方を侵略してくるだろうと思う。朝鮮半島だってどうなるかは分からない。ロシアや中国の国家としての文化的・精神的レベルは、現在でもその程度だとしか判断のしようがない。
とにかく、日清戦争後の三国干渉で旅順港・大連港(不凍港)などをおさえたロシアは、シベリア鉄道を満洲へ延長し、ウラジオストック港と連携して太平洋艦隊を保持し、日本海の制海権を脅かしていた。これは世界が軍事的にあからさまな弱肉強食の時代にあって、日本にとって大きな国防上の脅威と映った。しかしながら、日露決戦を決断した日本は、「開戦直前の一九〇四年一月中旬において初めて、日本政府は資金調達の目処がつかないことを認識したのだった。」、「海外から物資を買うには金か、あるいは金の裏付けのしっかりした英国ポンドが要求されたのである。・・・日本には最初から、戦争をするだけの充分な正貨はなかったのだ」(第三章)。
国内産業もまだ絹産業程度しか持たない農業国であった日本が、莫大な戦費を調達するには外債を発行する以外に方法はなかったのだが、大国ロシアが相手であったことから日本の勝利を予想する者はほとんどなく、高橋是清がロンドンへ渡った当時、成功の目処はまったく立たなかった。当時のロシア帝国は、GDPも国家予算も人口も、陸軍の規模においてもほぼ日本の三倍であった(ただし、極東に回せた陸軍の兵力は、全体の40%程度だったとされている)。日清戦争に勝利し、近代化に成功しつつあった日本でさえ当時の国際金融市場での評価はその程度であったから、現代の韓国・朝鮮人が何を夢想しようとも、日清戦争で清国の属国から開放されたとはいえ、李氏朝鮮が外国と戦争をして自力で独立を維持しようとしても、資金的にまったく不可能であったことは議論の余地がない。もし日本が進出していなかったら、間違いなく朝鮮半島はロシア(後、ソ連)の一部になっていた(その場合は、日本自体もどうなっていたか分からない)。
窮地にいた高橋是清に救いの手を差し伸べてくれたのが、クーン・ローブ商会のヤコブ・シフとロンドンの銀行団であった。もちろん、シフらにもそれなりの思惑があったことは間違いないが、金がなければ戦争はできない。日露戦争が米英の資金によって戦えたことは歴史上の事実である。戦争の経過に伴う公債発行条件や価格の変化、日露戦争後の日本国の財務状況などについては本書を読んでいただくとして、最終的にかかった戦費はいくらになったか。「要した戦費15億円(註:日清戦争後の軍備拡張費を加えると約二十億円=二億ポンド)のうち、外国債が約7億円弱、当時の年間予算一般会計約2.5億円・・、全国銀行預金残高約7億6千万円」(第三章)、「ロシアは・・日本の戦費の二倍にもなるだろう。米国の南北戦争が四億ポンド(註:ほぼロシアの戦費と同額)」(第五章)である。「日本はこの戦争を通じて、国際金融市場における国家としての地位を大きく飛躍させたのである。・・・開戦直後のジャンク債からロシア並みの一・五流国程度には地位が上がった」(第五章)。
高橋是清はシフの恩義に報いるため、シフの盟友であるハリマンの極東行きを支援し、「桂・ハリマン協定」の成立を支持したようだ。「「桂・ハリマン協定」は・・米国政府を代表する公使と、日本政府アドバイザーと日本興業銀行総裁の三名によって作成されたものだった」(第六章)。元老達が賛同し、首相が同意したこの協定が実現しなかったのは、「日露戦争の実行部隊であり、計画者である大殊勲者でもある児玉源太郎(陸軍大将)は占領後の満州経営のあり方を(日本式の)植民地として考えていた」(第六章)からだった(ちなみに、後の“満州国”は満洲人の国家であり、必ずしも日本の植民地とは言えない)。「日本はゆっくりと、ハリマンやイギリスとアメリカの世論を騙していくのである」、「満州が門戸開放されたと考えていたイギリスやアメリカからは、クレームが付き始めた。・・・日露戦争に際し諸外国が日本に同情を寄せ軍費を供給したるは、日本が門戸開放主義を代表し、此主義のために戦うを明知したるが為なり。・・・日露戦争はイギリス・アメリカのファイナンス抜きでは日本は戦えなかった。・・・イギリスやアメリカにすれば、満州におけるロシアが日本に替わっただけでしかなかった」(第六章)。日本は誰の金で日露戦争を戦うことができたのかと米英が憤るのも無理はない。この事件は、本来が国家の道具であるべき視野の限られた軍人が政府首脳を動かしていった軍人優位と、以後、大東亜戦争の敗戦にいたるまでの日本の政治の傾向と欠陥とを象徴している。
「井上や伊藤達元老がこの案(註:「桂・ハリマン協定」のこと)に賛同した理由は、何も日本の資金不足のために南満州鉄道経営が重荷であると考えただけではなかった。新たに日本が経営する南満州鉄道は北から常にロシアの圧迫を受けることになるだろう。・・・アメリカの資本が入っていれば、日露二国間の問題では済まされずロシアも簡単には侵攻できないと考えたのである」(第六章)。著者は本書で、当時の日本が南満州鉄道経営においてもう少し柔軟であったなら、以後の世界の状況も日本の運命も変わっていたのではないかと述べて本書を締めくくっている。
本書は日露戦争時の資金調達の戦いを詳細に追ったものだが、凡百の歴史書や政治書を読むよりもはるかに良く日本の近現代史を理解する役に立つ。

「慰安婦と医療の係わりについて」天児都、麻生徹男共著、梓書院、2010年2月発行、¥1,700(税込み)


著者、天児都は1935年生まれ。九州大学医学部卒業(産婦人科専攻)、共著者、麻生徹男の二女。麻生徹男は1910年生まれ(~1989年)。九州帝国大学医学部卒業(産婦人科専攻)、日中戦争・大東亜戦争に応召。
本書は天児都による第1章「慰安婦と医療の係わりについて」と麻生徹男の残した第2章「花柳病ノ積極的豫防法」、および天児都が巻き込まれた「慰安婦問題」について書かれた第3章とから成っている。
「日支事変勃発後、(一般人に対する性的)暴行防止と(兵士の)性病感染対策のため日本より送られた女性達が慰安婦と呼ばれた最初の人たちである。・・・1937年以降の外征軍相手の娼婦は国内の公娼が海外で営業した者と私娼がヨーロッパの娼婦と同様に自由意志でこの仕事に入ってきた者の両方だった。・・・欧米のアジア植民地には本国人娼婦は極めて少数である。日本は朝鮮、台湾、樺太、関東州においても内地人の方が多く朝鮮人は少ない。日本人は慰安婦に同国人を求め、いずれの土地でも植民地住民は少なかったと言う。・・・その半数以上は日本人であった。」(第1章より)。金完燮(キム・ワンソプ)氏は「親日派のための弁明(2)」(星野知美訳、扶桑社文庫、各2006年9月発売、¥840(税込み))で、日本人慰安婦の数を朝鮮人女性の二倍以上と書いている。これが慰安婦と言われた娼婦の実態である(アメリカの公文書 UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator APO 689 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49 には、「慰安婦は売春婦に過ぎない」とはっきり書かれている-”A ‘comfort girl’ is nothing more than a prostitute or ‘professional camp follower’ attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.”)。
日本軍は諸外国のような兵士による一般人への性的暴行を防止し、兵士の性病感染を防ぐため、慰安婦の性病対策に多大の努力を払った。麻生徹男は上海での勤務中、軍の要請で娼婦の性病検査に携わり、提言をまとめた。その内容が第2章である。一言で言えば、兵士に対して体育などのエネルギーのはけ口となる施策を講ずるとともに、「此ノ意味ニ於テモ軍用慰安所ノ娼婦ハ常ニ監督指導スルヲ必要トス。」(第2章より)ということである。日本軍の従軍慰安婦に関して、意図的に現代の価値観を持ち込んで慰安婦の存在自体が罪悪であるかのごとき論をなす悪質な反日主義者が見受けられるが、決してフェアな議論ではない。比較はあくまでも同時代においてなされるべきであり、売春が合法であった当時、慰安婦を利用して一般人への性的暴行を防止した軍隊と、慰安婦など利用せず、むしろ一般人への性的暴行を奨励・黙認した諸外国の軍隊のどちらがより人道的であったか、改めて論ずるまでもあるまい。当時(その後も)の日本軍以外の戦勝国の軍隊が、いかに無慈悲に敗戦国の婦女子に性的暴行を加えたか、それが世界の常識であったといって過言ではない。日本軍の慰安婦利用を罪悪と考える人たちは、一般人への性的暴行の方が優れていると考えているのである。
本書には第1章と第2章の英訳が付いており、第2章の内容は「史実を世界に発信する会」の英文のホームページに掲載されている。
いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」問題については、一部の日本人が問題をデッチあげ、韓国人がそれに便乗してウソ話を強弁しているというのが事実である。それらの日本人は売名行為を目的とした偽善者であったり、左翼であったり、国益など顧みない無知な文筆家や政治家たちである。千田夏光(作家)、青柳敦子、高木健一(弁護士)、吉田清治、朝日新聞社(記者)、戸塚悦郎(弁護士)、村山富市(元首相)、河野洋平(元官房長官)らの名前が研究者によって挙げられている。当時の政府・官憲はむしろ、悪徳朝鮮人による婦女子誘拐などを取り締まっていたのが事実である(“朝日新聞が報道した「日韓併合の真実」”水間政憲著、徳間書店など参照)。しかも、当時の朝鮮の警察官の多くは朝鮮人だったし、日本軍にも多くの朝鮮人兵士がいた。この問題に関しては、すでに多くの研究結果が本会ホームページの「掲載文献」欄などに掲載されている。
アメリカを始めとする西欧諸国が、事実確認をすることなく簡単にこうしたウソ話(プロパガンダ)に乗っかるのは、近代に至るまで強制連行・人身売買の奴隷制度を維持し、大量虐殺を得意技として世界中を侵略し、残虐な植民地支配で有色人種国家群を搾取・略奪し続けた悪業を自覚している白人の潜在意識が、自分たちよりも悪辣な行為をなした有色人種国家、日本が存在したということにして、無意識のうちに自らの罪悪感から逃れようとする深層心理的な作用が働いているからではないか。
「従軍慰安婦の強制連行」なるものが悪質な捏造であることを簡単にまとめた記事をネットで発見したので、参考までに以下にその大半を引用しておきます(一部改変)。
( 以下は by ノリマサ — 2012年4月28日 8:23 PM )
① 指令書や計画書、当時の日記・記録・証言録など、いまだに証拠(資料)がひとつも見つかっていない。
② 東京裁判や1965年の日韓基本条約でも慰安婦強制連行など存在しなかったし、韓国初代大統領李承晩も散々日本を非難していたが慰安婦については一度も抗議をしなかった(1980年代まで慰安婦問題などまったく存在しなかった)。
③ 慰安婦問題は1983年に吉田清治という一人の老人が「済州島で慰安婦狩りを行った」と発表したフィクション本『私の戦争犯罪』が全ての始まりである。
④ ところが済州島の当時を知る老人たちは、「私たちの村でそんな事が一人でもあれば私の耳に入っているはずだ」「そんな事は絶対になかった」と1989年に現地の『済州新聞』で証言し、地元の郷土史家も「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物だと思われる」と吉田本を完全否定した(後に吉田もフィクションだったと認めた)。
⑤ 日本の反日左翼が韓国で賠償金がとれるなどと慰安婦募集をして、戦後46年も経った1991年に初めて強制連行されたという被害者が名乗り出た(現在韓国政府が元慰安婦だと登録した人は二百数十人いるが、40数年間1人も被害を訴えなかったなんてことはありえるか?)。
⑥ その慰安婦たちの証言も二転三転していたり(中には証言が十数回も変わっている者もいる)、具体性に欠けたり、裏付けがなされていないなど、信用できるものではない。
⑦ 強制連行があったとしたら、両親や兄弟・親戚・友人・知人・目撃者などが何らかの行動を起こしていたはずだが、そんなものは一切なかった(当時は日本人が朝鮮人をからかっただけで抗議運動がおこっていたらしいし、気性の激しい朝鮮人が同胞女性を連れ去られていくのを黙って見ていたというのも考えられない)。
⑧ 連れ去られる女性が抵抗したという事例や、強制連行される途中や連行先から逃げ出して助けを求めたという事例も皆無。
⑨ 連れ去られる女性を朝鮮人が救出したり、阻止しようとした事例や、連れ去ろうとした者と戦ったり抗議したという事例も皆無。
⑩ 日本軍が強制連行したと韓国側は言うが、当時は多くの朝鮮人が日本軍に所属しており(朝鮮人の将校もいた)、同胞女性が強制的に性奴隷になどされていたのなら何らかの問題が起こるはずである(彼ら朝鮮人日本兵の存在は強制連行がなかった事の証明になると考える)。
⑪ 強制的に集めたという証拠はないが、自発的に集まったと思われる証拠なら存在する(1944年の「慰安婦募集」の新聞広告や1944年のアメリカ軍の記録など)。
⑫ 韓国はベトナム戦争で5000人とも3万人ともいわれる混血児を残してきたが、日韓混血児は一人も確認されていない(ちなみに日本軍は日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争など多くの戦争に関わっているが、一度も混血児問題を起こしていない軍隊である)。
⑬ 1944年、ビルマを占領したアメリカ軍が朝鮮人経営者や朝鮮人慰安婦を尋問するなどしてまとめた「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本人捕虜尋問報告 第49号」には、慰安婦たちが厚遇されている様子が記されている。
⑭ もちろん、性奴隷になどしてなくただの売春婦だったので、きちんと給料が支払われている(しかも莫大な金額が)。
⑮女性を拉致したり暴行したという加害者(氏名・年齢・所属など)も不明。
You Tube には「慰安婦」問題の真実を英語で解説している動画や解説がいくつか掲載されています(以下)。二番目は、資料を使用した解説のWebサイトです。


http://sakura.a.la9.jp/japan/?page_id=2015
http://www.youtube.com/watch?v=ijYLNvUPU_A

「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優著、小学館、2006年7月発行、¥1,600+税


著者は1960年生まれ。外交官を経て、現在、文筆家。在ロシア連邦日本国大使館に勤務後、外務本省国際情報局分析官としてインテリジェンス業務に従事した経歴を持つ。大川周明は1886年生まれ(~1957年)。満鉄勤務、拓殖大学教授などを経て、五・一五事件などに関与。戦後、東京裁判のA級戦犯容疑者となるが、結局は免訴。日本初の「コーラン」の完全邦訳を刊行した。本書は佐藤優が大川周明の「米英東亜侵略史」を解説した書であるが、本書には同書の全文が掲載されている。
大川周明の「米英東亜侵略史」は、日米戦争開戦後、間もなく、NHKラジオで12日間にわたって放送された内容を翌年1月に書籍として発売したものである。「その内容はきわめて冷静な事実認識・分析で占められている」(第二章より)。特に前半の「米国東亜侵略史」は、ペリー来航以来、日米戦争に至るまでの日米関係を理解する上で有益である。一言で言えば、シナ大陸への進出を目指し、日本を補給基地にしようとしていたアメリカが、日露戦争後の「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を日本側が一方的に断ったのを契機として、日本がアメリカの東亜進出の障碍であると考え始めたのがその後の反日政策として現れてきたということである。当時の日本は日英軍事同盟を結びロシアと戦ったにも関わらず、幕末以来の経緯もあり、アジア対西欧という見方から抜け出せず、西欧列強間の相違をうまく利用することが出来なかったのではないか。日本の最大の脅威はロシアの南下政策であったはずであり、それに対抗するためには日英同盟だけでなく、具体的にアメリカの力を利用するという視点に欠けていたように思われる。江戸時代を終らせ、明治の開国を迎えたということは、平和な時代から現在にまで続く世界規模の戦国時代に逆戻りしたということなのだが、日本の指導層にその認識がどの程度徹底していたのだろうか。「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)の問題に関しては、大川周明も佐藤優も日本側が一方的に断ったのを当然のこととしているが、筆者は同意できない。やはり明治政府は武の政府で、商の視点を軽視していたように思われる。国際社会には万国公法(国際法)があり、正しい(武の)主張は通るという正義の視点であり、利(商)の視点の蔑視があったのではないか。国際政府の存在しない国際法などというものは弱者を縛るための道具であり、戦国時代にあっては正義ではなく強者が勝つのだということは歴史が証明している。
本書の著者、佐藤優による解説はつまるところ、大川が考えていたと思われる“棲み分け”の思想(共生の思想)を生かして日本の国家体制を強化することが、現代の日本国家と日本人にとって重要であるということに尽きるのだが、解説部分には各所に衒学的な記述が目立ち、大川の「米英東亜侵略史」の部分と比べると、あまり読み易いものではない。

「大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義-」三田村武夫著、自由社、1987年1月復刊、古書有り


初版は1950年春「戦争と共産主義」のタイトルで出版されたが、すぐ占領軍最高司令部(GHQ)民政局の共産主義者により発禁処分にされた書。しかし、そのことが内容の真実性を傍証している。
著者は1899年、岐阜県生まれ。1928年から1935年まで、内務省警保局と拓務省管理局に勤務。1936年から衆議員議員。1943年には言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反容疑で警視庁に逮捕されている。
第二次世界大戦に至るまでの期間にシナやアメリカ政府が共産主義者の浸透を受け、ソ連政府の支配下にあったコミンテルンの世界革命戦略に沿って動かされてきた事実は現在では良く知られるようになってきたが、当時の日本でも同様の事態が進展しており、日本が日支事変から大東亜戦争へと引きずり込まれていった事実を、政府機関勤務や国会議員の経験があるとはいえ、一個人が収集できただけの資料に基づき、戦争終結後わずか5年の1950年に出版できた見識には敬意を表する価値がある。ただし、日本側の事情についてだけ書かれた書であり、アメリカ政府もそれ以上に共産主義者による支配を受けており、早くから対日戦争の準備を整え、戦争行為を開始していたことなどについては「ヒス事件」の疑惑以外、この時点での著者は情報を得ていない。
復刊本に「序」文を寄せている岸信介は、「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。・・・支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と書いている。
内容は本書の以下の目次からおおよそ読み取ることができると思う。
序 説 コムミニストの立場から
第一篇 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
   一 裏がへした軍閥戦争
   二 コミンテルンの究極目的と敗戦革命
   三 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想-尾崎秀實の首記より-
第二篇 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
   一 三・一五事件から満州事変へ
   二 満州事変から日華事変へ
第三篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
   一 敗戦革命への謀略配置
   二 日華事変より太平洋戦争へ
   三 太平洋戦争より敗戦革命へ
資料篇 一 「コミンテルン秘密機関」-尾崎秀實手記抜粋-
     二 日華事変を長期戦に、そして太平洋戦争へと理論的に追ひ込んで来た論文及主張
     三 企画院事件の記録
     四 対満政治機構改革問題に関する資料
ソ連政府の支配下にあったコミンテルン(国際共産主義組織)は、1935年になって第七回大会でそれまでの非合法闘争方針を転換し、人民戦線戦術で各国の特殊性を認め、1929年にアメリカで発生し全世界を不況のどん底に叩き込んだ世界大恐慌後の状況に合せて、強大な帝国同士を戦わせ、疲弊させて、敗戦から共産主義革命に至る世界革命の戦術を考え出した。その戦術に沿ってアメリカ政府へもスパイや共産主義者を送り込み、シナ大陸では西安事件で蒋介石を脅迫して対日戦争を画策させ、それらと同調するように日本国内では軍部、政治家、学者、文化人などに影響を与えて軍部独裁、戦時体制へと巧妙に誘導していった。日本でその中心にいたのが尾崎秀實を中心とした隠れ共産主義者たちであった。アジアではまず日本と蒋介石軍を戦わせ、さらに蒋介石を支援していたアメリカと日本を戦わせることにより、世界共産主義革命への道が開けるとの戦術である。こうした戦術の多くが成功裏に進行していったのは、大恐慌によりアメリカでも資本主義への信頼が揺らぎ、日本では陸軍の中心の大部分が貧農や勤労階級の子弟によって構成されていて、社会主義思想への共感が得やすい土壌があったという背景がある。こうした困難を克服していく方法は社会福祉政策と自由貿易であったのだろうが、世界的にまだその機が熟していなかった。先述の岸信介の「序」文の続きには、「共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬籠中のものにしたか・・・本来この両者(右翼と左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法->生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している」と書かれている。
共産主義者、尾崎秀實は、当時のいわゆる「天皇制」について次のように書いている。「日本の現支配体制を「天皇制」と規定することは実際と合はないのではないか・・・日本に於ける「天皇制」が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在に於いて、如何に皇室自身が財産家であるとしても直接搾取者であるとの感じを民衆に与へては居ないと云ふ事実によって明瞭であらうと考へます。・・・その意味では「天皇制」を直接打倒の対象とすることは適当でないと思はれます。問題は日本の真実なる支配階級たる軍部資本家的勢力が天皇の名に於て行動する如き仕組に対してこれにどう対処するかの問題であります。・・・世界的共産主義大同社会が出来た時に於て・・所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません」(「コミンテルン秘密機関」尾崎秀實手記抜粋より)。

「Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath」 By George H. Nash (著) 、Hoover Institution Press Publication [ハードカバー]、2011年11月発行、¥3,837


日本を日米戦争に追い込んだルーズベルト大統領に選挙で敗れたフーバー元大統領の回想録。本書の邦訳はまだ出版されていない。

「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」ジョージ・モーゲンスターン著、渡辺明訳、錦正社、1999年12月発行、¥3,150(税込み)


著者は1906年、米国シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学を専攻後、25年間新聞界で活躍した外交・国際問題専門のジャーナリスト。訳者は1925年、大分県生まれ。國學院大學卒業(近現代史専攻)後、高校教師、ニッポン放送プロデューサー・解説委員などを歴任。日本の近現代史の著書がある。
現役のジャーナリストであった著者による本書は終戦直後の1947年に出版されている。序章の署名は1946年8月23日である。別掲のチャールズ・A・ビーアドの著書(「ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか〕」)よりも早い。そのビーアド博士は本書についてその推薦の辞で、「この一巻こそ、この真珠湾という大事件の動かすことのできない、強烈な力を持った労作である。それは厳正な資料から引用した証拠によって裏打ちされている」と述べている(訳者あとがき)。
戦争直後に書かれた本書やビーアド博士の著書の邦訳が日本で出版されたのが1999年や2012年になったこと自体が、戦後の日本の教育や言語空間が歴史の真実を追究しようとしない大東亜戦争日本悪者論や日本侵略者論に組する反日左翼勢力に牛耳られてきたことを物語っている。
1939年にナチス・ドイツによってヨーロッパで始められた戦争でイギリスを助けるため、アメリカのルーズベルト政権は中立法を改訂して参戦しようとしたが、ドイツは慎重に大西洋での米軍の挑発に乗らなかった。アメリカでは宣戦布告の権限は大統領にではなく議会にあり、当時の議会は世論を反映してアメリカが参戦することに否定的であった。そこで戦争に入りたかったルーズベルト大統領は「枢軸三国の一つとわれわれが戦争に入れば彼ら全部と戦わねばならなくなることに注目して、裏口から欧州戦争参加を達成すべく、向きを太平洋と日本に変えたのである。・・・日本は、禁輸と海外資産凍結で絶望に陥った。ついで、ワシントンでの外交交渉を通じて達成できるいかなる解決の希望も奪った。最終的に大統領は、いくらか当座しのぎの解決を与える暫定協定によって、三ないし六ヶ月の猶予期間を日本に与えるという計画を放棄した。そして彼は、ハル長官に前進を告げ、十一月二十六日の一〇ヵ条からなる反対提案の提出を命じた。・・・ルーズベルトは、日本が戦うだろうことを承知していた」(第一九章)。大統領にとってのただ一つの条件は、日本に先に明白な一発を打たせるということであった。大統領が国民に「(アメリカが)攻撃された場合を除いて、外国の戦争に参加することはない」と繰り返し約束していたからである。真珠湾はその犠牲にされたのだということを本書は数多くの資料を駆使して実証している。
開戦に先立つ何ヶ月も前に、アメリカ情報部は日本の極秘暗号の解読に成功しており、あたかも「彼らが日本の戦争指導会議に列席して」いるかのように情報を握っていた。彼らはこの暗号文解読術を「マジック」と呼んだ。ルーズベルト大統領一派はこの情報により、開戦日時も日本軍による真珠湾攻撃も予測できていたが、日本に最初の一発を打たせるべく、アメリカ国民にも真珠湾現地の司令官にも情報を秘匿していた。その結果、真珠湾攻撃は卑劣な日本軍による奇襲攻撃として日本の責任にし、ただ被害が大統領の期待した予測を大きく上回っていたためそれだけでは不足と見て、現地の司令官であったキンメル提督とショート将軍に責任を負わせた。
「(アメリカ)政府は、その経済戦争、秘密外交、内密の軍事同盟、日本が「屈辱的」とした要求の提示および宣戦布告なき戦争のための完全な中立放棄によって、十二月七日の結果を引き起こそうと演出した」、「パールハーバーは、乗り気でない国民を戦争に引き込むに当たって、躊躇する議会に頼らなくてもいい方法をアメリカの好戦派に提供した。そのうえ、その惨害の規模そのものが、惨害をつくり出した政策から国民の注意をそらす好機を、ルーズベルトとその側近たちに与えた」、「パールハーバーは、正式に承認された戦争の最初の行為であり、また政府がずっと以前から乗り出していた秘密戦争の、最後の闘いでもあった。この秘密戦争は、わが国の指導者たちが、宣戦布告によって公式の敵となる何ヵ月も前に、すでに敵として選ばれていた国々を相手として戦われた。それは、指導者たちが、戦争を受容するうえでのろまだと考えていたアメリカ国民に向けて、心理的手段や宣伝と欺瞞によっても戦われた。国民は、戦争同然の行為を、それは国民を戦争圏外に置くための行動だ、と告げられてきた。結局、憲法上の手続きは、出し抜かれるためにのみ存在し、戦争発動権限を有する議会は、既成事実の追認という措置をとるほかなかった」(第ニ〇章)。
第一一章には日本がアメリカの最後通牒だと判断したいわゆるハル・ノートの一〇ヵ条全文が掲載されている(pp.210~211)。満州はシナではないと主張すればハル・ノートを基礎に置いた交渉を継続できた可能性が完全には排除できないようにも見えるが、当時の交渉経過や戦後になって判明してきたルーズベルト政権の実態を考えると、恐らくはハル・ノートの約束すらアメリカが遵守したかどうかは疑わしい。何が何でも戦争に入りたいルーズベルト政権が、日本をより疲弊させるための単なる時間稼ぎに使われた可能性の方が高い。大東亜戦争開戦時の日本の石油備蓄量は、一年半分程度しかなかった。日本にとっての最大の失敗は恐らく、中途半端に真珠湾の旧式艦隊だけを攻撃して大東亜戦争を太平洋戦争にしてしまい、まんまとアメリカ(ルーズベルト政権)の術中にはまってしまった日本海軍の戦略にあつた。
本書は内容も記述も非常に明解であり、訳文も比較的、読みやすい。

「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」ロバート・B・スティネット著、 妹尾作太男監訳、中西輝政解説、文藝春秋、2001年6月発行、¥2,000+税


著者は1924年、米国カリフォルニア生まれ。高校卒業と同時に海軍に入隊し、太平洋と大西洋の両戦場に従軍。戦後は新聞記者を勤め、1986年本書執筆のため退社。十年以上の歳月を費やして1999年12月7日に本書を出版した。監訳者は1925年、岡山県生まれ。海軍兵学校卒、戦後は海上自衛隊勤務。定年退職後は執筆活動をしている。解説者は高名な京都大学教授。
読者はジャンケンの必勝法をご存知であろうか。それは簡単である。後出しすることだ。闘いというものは相手の秘密情報をつかんだ上で戦えば圧倒的に有利になることは論を俟たない。闘いの本質は情報戦争だといってよい。ところがどういうわけか、近現代の日本人はこの情報戦争に弱い。戦後の日本国には情報戦争を戦える組織もなければ、その気構えもない。この傾向は戦前においてもさほどの差はなかったようで、海外での宣伝戦においてもほとんど不作為といえるほどの体たらくであったし、当時の日本国の重要情報がアメリカの情報機関の暗号解読技術によって筒抜けになっていたことについてもまったく気づいていなかったようだ。
本書は戦争直後にジョージ・モーゲンスターンによって書かれた「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」(別掲)と基本的に同じ内容ではあるが、戦後40年以上経過した時点で収集できた資料(1966年に成立した「情報の自由法(Freedom of Information Act)」[その後数回修正]を活用して収集した二十万通以上の文書[それでもまだ機密指定により開示されなかったものも多い]と関係者へのインタビュー)に基づいて書かれているため、それまでに未見の資料も数多く紹介されている。その主たる内容は、アメリカの情報機関が一九四〇年秋ころ以降、暗号解読に成功していた日本の海軍情報の詳細と、もう一つはルーズベルトの側近で同時に海軍情報部の極東課長でもあったアーサー・マッカラム少佐が起草しルーズベルト政権によって採用されたと考えられる「戦争挑発行動八項目」の覚書の内容(以下)とである。
一九四〇年十月七日付アーサー・マッカラム少佐の覚書(日本を挑発して米国に対し明白な戦争行為に訴えさせるための、八項目の行動提案)。ダドリー・ノックス大佐の承認を含む。著者が一九九五年一月二十四日、第二公文書館で発見。次の施策八項目を提案する。A.太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。B.蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。C.蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。(D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。(E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。(F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。(G)日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること。(H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせることが出来るだろう。(付録、pp.456)
これらにより著者は、①日本が真珠湾を攻撃するようルーズベルトが仕向けた、②真珠湾攻撃以前には米国は日本軍の暗号を解読していなかったという説の誤り、③日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたという説の誤り、を証明している。
「真珠湾攻撃はあくまでもクライマックスであって、それまで長い時間をかけて、ある組織的な計画が実行されていたということである。本書執筆の趣旨は、まさにこの点にある」(エピローグ、pp.447)。一九四〇年九月に成立した「日独伊三国同盟」の結成を好機として、ルーズベルト政権は日本を極限まで追いつめ「暴発」させることによって「裏口から」主たる目的である欧州参戦を果たすというアメリカの戦略目的を実行した。日本は「情報力」の決定的格差により、アメリカのシナリオ通りに大東亜戦争に引きずり込まれていったことが分かる(解説、pp.530~531)。本書の解説者は、「あの戦争において、究極的かつ決定的な意味で日本を撃破した主役は、ローレンス・サフォードやジョセフ・ロシュフォート、あるいはウィリアム・フリードマンやアグネス・ドリスコルら、大戦中日本の外交・海軍暗号のほぼ完璧な解読を可能にした人々であった」(pp.527)と解説している。
著者は、大東亜戦争がルーズベルト政権の政策(陰謀)により引き起こされたものであったことを詳細に証明しながらも、ルーズベルト政権全体を評価する立場から、「本書で、語られている真実により、アメリカ国民に対するフランクリン・デラノ・ルーズベルトのすばらしい貢献が矮小化されることはないし、また彼の功績がこの真実により汚されるべきではない。アメリカの全大統領について言えることだが、・・・その政権の全体像から評価されなければならない」(エピローグ、pp.448)と述べている。ただし、必ずしも解説者が述べているような、「ルーズベルトが日本による「卑劣な不意打ち」を演出してアメリカを大戦へと導いていったことは正しかった、という結論をスティネットが出している」(解説、pp.525)わけではない。第二次世界大戦に実際に従軍した米国軍人の一人として、著者はルーズベルト政権全体は評価しながらも、その思いはもっと屈折した複雑なものである。たとえば、「まえがき」では「本書は、アメリカの戦争介入が賢明であったか否か、を問うものではない。太平洋戦争を経験した退役軍人の一人として、五十年以上もの間、アメリカ国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、私は憤激を覚えるのである。しかし私は、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した」と述べているし、「第二次世界大戦の遺族と退役軍人[著者もその一人である]にとっては憎んでも余りあることのように思えるが、ホワイトハウスの立場からすれば、真珠湾攻撃はより大規模な悪を阻止するために耐え忍ばねばならない出来事であった。その悪とは、ヨーロッパでホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を開始し、イギリス侵略を狙っていたナチスのことである。ヒトラーの勢いを止める手段として正しい選択であったか否かについては議論も分かれるだろうが、ルーズベルトは途方もなく大きなジレンマを抱えていたのは確かである。ルーズベルトの願いや説得もむなしく、強大な孤立主義勢力は、ヨーロッパの戦争にルーズベルトが介入することを許さなかった。・・・本書は、そのようなジレンマを解決する趣旨で書かれたものではない」(エピローグ、pp.447~448)とも述べている。
著者の立場はルーズベルト政権時代を生きた多くの米国軍人の立場を表しているように思うが、単純に日本軍による真珠湾攻撃に至るルーズベルト政権の政策を支持しているわけではない。それは当然のことと思われる。たとえ「自分たちが正当だと信じる目的のためには手段を選ばない」のが国際政治の現実ではあっても、そのような理屈が堂々と人間社会の正義として通用するのならば、それは左翼や共産主義者と同じ闘争至上主義の独善的な力の思想と何ら変わりはないし(事実、ルーズベルト政権には共産主義者の勢力が大きな影響を及ぼしていたし、当時のアメリカが民主主義国であったとも言えない)、人間社会の道理や法律も成り立たないことになる。強者の無法は正義で、弱者の道理は通らないというのは、長い目で見れば必ず破綻につながる。そうした人間の道理に反する手段は単に卑劣なだけであり、正当化できる根拠はどこにも存在しない。アメリカにはルーズベルト政権全体を評価しない人々も少なくないし、またアメリカが大東亜戦争を引き起こしたことによる数多くの犠牲や、戦後のアジアの混乱や諸問題の源泉を作り出した責任は否定できない。

「「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実」アラン・アームストロング著、塩谷紘翻訳、日本経済新聞出版社、2008年11月発行、¥2,100(税込み)


著者は1945年、米国ジョージア州アトランタ生まれの弁護士(航空法の権威)。
訳者は1940年生まれのジャーナリスト。「ジャーナリスト生活の半分近くをアメリカで過ごす」(訳者あとがき)と書いている。
本書は、日本軍による真珠湾攻撃の1年以上も前から、米国政府の首脳陣はアメリカ人による中国における義勇兵(航空戦隊)[フライング・タイガー]を使って日本を空爆する秘密計画を検討していた事実を詳細に解明したものである。本書冒頭には日本への先制爆撃計画「JB-355」を承認した、1941年7月18日付のルーズベルト大統領署名入りの文書(署名の日付は1941年7月23日)の写真が掲載されている。
「対日先制攻撃は、蒋介石に雇われたアメリカ人義勇兵が操縦する一五〇機の長距離爆撃機を中核とする一大航空部隊が中国大陸南東部の秘密基地から本州を襲い、続いて各地の主要都市に連夜、焼夷弾の雨を降らせる計画だった。だがアメリカは、爆撃機供与を中国に約束したものの、ナチスの猛攻に喘ぐイギリスを優先的に支援する必要から引渡しが遅延し、真珠湾奇襲に後れを取ったのだった。」(訳者あとがき)
「JB-355計画が生まれた政治状況は、アメリカが公式には交戦状態にない時期に、事実上、一交戦国(註:中国)を援助し、軍事行動を率先して計画・実行しようとしたアメリカ大統領の姿を明らかにしている。」(結論)
当時、米国政府首脳の一人としてこの秘密計画を強力に遂行していた大統領補佐官ロークリン・カリーは、KGBのエージェントだったことが戦後に発覚して、南米コロンビアへ逃亡した(一九九三年死亡)。
本書で一つ気になるのは、著者の満州事変、日中戦争、大東亜戦争などの理解が非常に表面的(ステレオタイプ)で、当時のアジアや日本に対する無知にまったく気づいていない点である。本書の原著が出版されたのが2006年だから、これが現在でもアメリカ人の平均的な理解なのかと驚かされる。米英蘭仏各国は大東亜戦争により結局、搾取の限りをつくしたアジアの植民地を失ったわけで、経済封鎖にあった日本が資源を求めて南方諸国へ侵攻したことが彼らにとって侵略と映るのは仕方のないことかも知れないが、その立場が有色人種国家への過酷な植民地支配と搾取を正当だと考える白人侵略者の思想であることには気づいていないようである。結論で述べているアメリカによるイラク攻撃に対する見解も、単にアメリカ政府のプロパガンダを反復しているだけのように見える。
日中戦争を「日本人は中国人絶滅を目論んだ戦争で・・・」(結論)などというのは、南京事件(1927年3月)、西安事件(1936年12月)、盧溝橋事件(1937年7月7日)、通州事件(1937年7月29日)、上海事変(1937年8月13日~)などを始めとする、共産主義者と結託した当時の中国の無法に無知なためだろうが、書く以上はもう少し調査してから書くべきである。

「日本を誤らせた国連教と憲法信者」加瀬英明著、展転社、2004年7月発行、¥2,100(税込み)


著者は評論家、史実を世界に発信する会代表。著者は本書で、日米戦争開戦10ヶ月前にアメリカは国務省の中に日本の戦後処理に関する「特別研究班」を設置していた事実を紹介している。

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