2010年4月 のアーカイブ

「日米・開戦の悲劇‐誰が第二次大戦を招いたのか」、ハミルトン・フィッシュ著、岡崎久彦訳、PHP研究所、一九八五年&一九九二年(文庫)、¥1,300(税別)

著者は1888年、米国ニューヨークに生まれる。ハーバード大学卒業後、ニューヨーク州議会議員、第一次世界大戦に従軍後、長年、米国下院議員(共和党)を勤めた。アメリカの不干渉主義者の指導的代表。監訳者は、1930年生まれ(大連)の外交官。
本書は、長年に亘ってアメリカ議会の外交委員会に籍を置き、第二次世界大戦時をアメリカ議会の指導者の一人として当時のルーズベルト政権の政策を批判してきた著者による自戒を込めた書である。
著者は、第二次世界大戦はアメリカの共産主義化していたルーズベルト政権が始めたものであり、対日戦争は戦争を欲していたルーズベルト一派が日本を挑発して起こしたものであると断じている。なぜルーズベルト大統領が戦争を望んだかについて、著者は以下のように記している。
①暗黙の約束も含めた対外コミットメントを守るためであり、
②悲劇的な失業状態を回復するためである-六年間の「ニューディール」政策とその失敗の後、アメリカではいまだ一千三百万人が失業状態にあった
③国際主義者として、彼は実際に戦争に介入したいという欲望を持っており、
④戦争を指導した大統領となることで権力欲を満たし、その名を歴史に止めるためであり、
⑤国際連合を結成し、それの実質上の支配者ないしは、スターリンとの共同支配者になろうとしていたからである。(第四章、pp.100~101)
第二次世界大戦は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約でポーランドに割譲されたポーランド回廊とダンチヒを平和裡にドイツに返還することを意図的に妨害したルーズベルト大統領一派が起こしたと言っても過言ではない。ルーズベルト大統領はイギリスに圧力をかけ、イギリスがポーランドに対して空手形を切ったため、ポーランドが返還交渉を強硬に拒否し、ヒットラーがポーランドに侵攻して始まったのが欧州戦争であった。ルーズベルト大統領は欧州戦争に参戦すべく、大西洋において盛んにドイツを挑発したが、ドイツが自制して応じなかったため、ドイツと同盟を結んでいた日本を挑発して参戦を果たした。
「私は、合衆国が、ヨーロッパの昔からの怨念のこもった争いや勢力均衡政治にひきずり込まれることに、正面きって反対していたのだった。そして、当時、約九〇%の国民も同意見であったのだ」(第五章、pp.122)。アメリカ議会の不干渉主義者として合衆国の参戦に反対していた著者は、日本軍による真珠湾攻撃を受けて態度を変え、「数時間後、私は大統領の演説を支持するスピーチを、下院からラジオを通じて行った。・・そして日本を打ち負かすために、ルーズベルト政権を支持するようすべての不干渉主義者に対して、結集を呼びかけた」(追記-I、pp.174)。「私は一九四一年十二月八日月曜日に、日本に対する宣戦布告決議のための審議を開催した」(第二章、pp.47)。しかし、当時、著者は「私は日本に対する最後通牒について何も知らなかった・・・すべての議員たちや国民と同じく、私も徹頭徹尾、合衆国大統領に欺かれていた」(追記-I、pp.174)。そして、次のように慙愧の念を表明している。「今日私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき戦争最後通牒を送り、日本の指導者に開戦を強要したことを知っており、この演説を恥ずかしく思う」(第二章、pp.47)と。
当時の日本政府(外務省)はなぜ、アメリカ議会(議員)にハル・ノートを公開してルーズベルト大統領一派の横暴を訴えなかったのであろうか。恐らくそれは、今日も日本政府に続いている広報活動、ロビー活動の軽視による理念的不作為が招いたものであろう。情報戦争の軽視こそが、日本人および日本国政府が第二次世界大戦の敗戦から学ぶべき失敗の大きな教訓の一つであるが、残念ながら戦後の日本政府も大して変わってはいない。
大方の日本人にとっては第二次世界大戦とは言っても欧州戦争にはそれほど大きな関心はなく、その事実関係に無知なかたが多いと思うが、本書は欧州戦争がいかに大きく大東亜戦争に関わっていたかの真実を理解する上でも有用な書物です。歴史の真実を知りたいと考えているすべての日本人は一読すべきです。

「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優著、小学館、2006年7月発行、¥1,600+税


著者は1960年生まれ。外交官を経て、現在、文筆家。在ロシア連邦日本国大使館に勤務後、外務本省国際情報局分析官としてインテリジェンス業務に従事した経歴を持つ。大川周明は1886年生まれ(~1957年)。満鉄勤務、拓殖大学教授などを経て、五・一五事件などに関与。戦後、東京裁判のA級戦犯容疑者となるが、結局は免訴。日本初の「コーラン」の完全邦訳を刊行した。本書は佐藤優が大川周明の「米英東亜侵略史」を解説した書であるが、本書には同書の全文が掲載されている。
大川周明の「米英東亜侵略史」は、日米戦争開戦後、間もなく、NHKラジオで12日間にわたって放送された内容を翌年1月に書籍として発売したものである。「その内容はきわめて冷静な事実認識・分析で占められている」(第二章より)。特に前半の「米国東亜侵略史」は、ペリー来航以来、日米戦争に至るまでの日米関係を理解する上で有益である。一言で言えば、シナ大陸への進出を目指し、日本を補給基地にしようとしていたアメリカが、日露戦争後の「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を日本側が一方的に断ったのを契機として、日本がアメリカの東亜進出の障碍であると考え始めたのがその後の反日政策として現れてきたということである。当時の日本は日英軍事同盟を結びロシアと戦ったにも関わらず、幕末以来の経緯もあり、アジア対西欧という見方から抜け出せず、西欧列強間の相違をうまく利用することが出来なかったのではないか。日本の最大の脅威はロシアの南下政策であったはずであり、それに対抗するためには日英同盟だけでなく、具体的にアメリカの力を利用するという視点に欠けていたように思われる。江戸時代を終らせ、明治の開国を迎えたということは、平和な時代から現在にまで続く世界規模の戦国時代に逆戻りしたということなのだが、日本の指導層にその認識がどの程度徹底していたのだろうか。「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)の問題に関しては、大川周明も佐藤優も日本側が一方的に断ったのを当然のこととしているが、筆者は同意できない。やはり明治政府は武の政府で、商の視点を軽視していたように思われる。国際社会には万国公法(国際法)があり、正しい(武の)主張は通るという正義の視点であり、利(商)の視点の蔑視があったのではないか。国際政府の存在しない国際法などというものは弱者を縛るための道具であり、戦国時代にあっては正義ではなく強者が勝つのだということは歴史が証明している。
本書の著者、佐藤優による解説はつまるところ、大川が考えていたと思われる“棲み分け”の思想(共生の思想)を生かして日本の国家体制を強化することが、現代の日本国家と日本人にとって重要であるということに尽きるのだが、解説部分には各所に衒学的な記述が目立ち、大川の「米英東亜侵略史」の部分と比べると、あまり読み易いものではない。

「大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義-」三田村武夫著、自由社、1987年1月復刊、古書有り


初版は1950年春「戦争と共産主義」のタイトルで出版されたが、すぐ占領軍最高司令部(GHQ)民政局の共産主義者により発禁処分にされた書。しかし、そのことが内容の真実性を傍証している。
著者は1899年、岐阜県生まれ。1928年から1935年まで、内務省警保局と拓務省管理局に勤務。1936年から衆議員議員。1943年には言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反容疑で警視庁に逮捕されている。
第二次世界大戦に至るまでの期間にシナやアメリカ政府が共産主義者の浸透を受け、ソ連政府の支配下にあったコミンテルンの世界革命戦略に沿って動かされてきた事実は現在では良く知られるようになってきたが、当時の日本でも同様の事態が進展しており、日本が日支事変から大東亜戦争へと引きずり込まれていった事実を、政府機関勤務や国会議員の経験があるとはいえ、一個人が収集できただけの資料に基づき、戦争終結後わずか5年の1950年に出版できた見識には敬意を表する価値がある。ただし、日本側の事情についてだけ書かれた書であり、アメリカ政府もそれ以上に共産主義者による支配を受けており、早くから対日戦争の準備を整え、戦争行為を開始していたことなどについては「ヒス事件」の疑惑以外、この時点での著者は情報を得ていない。
復刊本に「序」文を寄せている岸信介は、「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。・・・支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と書いている。
内容は本書の以下の目次からおおよそ読み取ることができると思う。
序 説 コムミニストの立場から
第一篇 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
一 裏がへした軍閥戦争
二 コミンテルンの究極目的と敗戦革命
三 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想-尾崎秀實の首記より-
第二篇 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
一 三・一五事件から満州事変へ
二 満州事変から日華事変へ
第三篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
一 敗戦革命への謀略配置
二 日華事変より太平洋戦争へ
三 太平洋戦争より敗戦革命へ
資料篇 一 「コミンテルン秘密機関」-尾崎秀實手記抜粋-
二 日華事変を長期戦に、そして太平洋戦争へと理論的に追ひ込んで来た論文及主張
三 企画院事件の記録
四 対満政治機構改革問題に関する資料
ソ連政府の支配下にあったコミンテルン(国際共産主義組織)は、1935年になって第七回大会でそれまでの非合法闘争方針を転換し、人民戦線戦術で各国の特殊性を認め、1929年にアメリカで発生し全世界を不況のどん底に叩き込んだ世界大恐慌後の状況に合せて、強大な帝国同士を戦わせ、疲弊させて、敗戦から共産主義革命に至る世界革命の戦術を考え出した。その戦術に沿ってアメリカ政府へもスパイや共産主義者を送り込み、シナ大陸では西安事件で蒋介石を脅迫して対日戦争を画策させ、それらと同調するように日本国内では軍部、政治家、学者、文化人などに影響を与えて軍部独裁、戦時体制へと巧妙に誘導していった。日本でその中心にいたのが尾崎秀實を中心とした隠れ共産主義者たちであった。アジアではまず日本と蒋介石軍を戦わせ、さらに蒋介石を支援していたアメリカと日本を戦わせることにより、世界共産主義革命への道が開けるとの戦術である。こうした戦術の多くが成功裏に進行していったのは、大恐慌によりアメリカでも資本主義への信頼が揺らぎ、日本では陸軍の中心の大部分が貧農や勤労階級の子弟によって構成されていて、社会主義思想への共感が得やすい土壌があったという背景がある。こうした困難を克服していく方法は社会福祉政策と自由貿易であったのだろうが、世界的にまだその機が熟していなかった。先述の岸信介の「序」文の続きには、「共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬籠中のものにしたか・・・本来この両者(右翼と左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法->生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している」と書かれている。
共産主義者、尾崎秀實は、当時のいわゆる「天皇制」について次のように書いている。「日本の現支配体制を「天皇制」と規定することは実際と合はないのではないか・・・日本に於ける「天皇制」が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在に於いて、如何に皇室自身が財産家であるとしても直接搾取者であるとの感じを民衆に与へては居ないと云ふ事実によって明瞭であらうと考へます。・・・その意味では「天皇制」を直接打倒の対象とすることは適当でないと思はれます。問題は日本の真実なる支配階級たる軍部資本家的勢力が天皇の名に於て行動する如き仕組に対してこれにどう対処するかの問題であります。・・・世界的共産主義大同社会が出来た時に於て・・所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません」(「コミンテルン秘密機関」尾崎秀實手記抜粋より)。

「Freedom Betrayed: Herbert Hoover’s Secret History of the Second World War and Its Aftermath」 By George H. Nash (著) 、Hoover Institution Press Publication [ハードカバー]、2011年11月発行、¥3,837


日本を日米戦争に追い込んだルーズベルト大統領に選挙で敗れたフーバー元大統領の回想録。

「ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか〕」(上)(下)チャールズ・A・ビーアド著、開米潤、阿部直哉、丸茂恭子共訳、藤原書店、各2011年12月、2012年1月発行、各¥4,410(税込み)



著者は1874年米国インディアナ州生まれ(~1948年)。大学教授を経て、ニューヨーク市政調査会理事、米国政治学会会長、米国歴史協会会長を歴任。本書は太平洋戦争直後(1948年4月)に出版されている。監訳者は1957年福島県いわき市生まれ、東京外国語大学卒業後、共同通信社記者などを経て、ジャーナリスト。
著者は1922年、東京市長、後藤新平の招請で来日し、「東京市政論」を発表している。1923年の関東大震災直後にも来日、東京の復興に関する意見書を提出し、「帝都復興の恩人」とされている。戦後の日本の都市計画にも示唆を与えた。
本書は、太平洋戦争の公式の最初の一撃となった日本軍による真珠湾攻撃が、フランクリン・ルーズベルト大統領を中心としたアメリカ政府の対日政策にも責任があり、ルーズベルト大統領には事前に(真珠湾)攻撃を予測できるだけのデータが報告されていたということを、膨大な公文書に基づいて実証しようとしたものである。出版当時、日支事変の史実や“ヴェノナ”で暴露された米国政府内の共産主義勢力の実態など、現在ほどには各種の史実が公にされてはおらず、ラルフ・タウンゼントやF.V.ウィリアムズ、R.F.ジョンストン(「紫禁城の黄昏」)の著作などはすでに発表されてはいたものの、多くの知識人を含む一般のアメリカ人が持っていた対日観が描かれているのも一つの特徴である。当時のアメリカ人の大半の日本観は、シナのプロパガンダを真に受けた、史実とは程遠いものだったと言える。逆に言えば、日本政府の対米宣伝力の弱さが、アメリカをシナ(蒋介石政府)寄りにした一因だったとも言えるのではないか。
本書は(上)(下)巻で800ページ近い大著であり、内容の主旨だけを理解するのであれば、(下)巻の第Ⅲ部(真珠湾資料に記された実態)と第Ⅳ部(エピローグ)、および監訳者あとがき、解説などを読めば足りる。
著者の最大の主張は、ルーズベルト政権が武器貸与法の成立を手始めとして、大統領に専制権力があるかのようにして第二次世界大戦に参戦していったやり方は、アメリカ合衆国憲法の大統領権限の制約に反しているという点にあり、アメリカ国内の問題とはいえ、以後の世界におけるアメリカの行動を予測していたように思える。
全体を通して本書の内容から筆者が受けた印象は、登場人物(アメリカの指導層)の多くが人間としての道義も品格もない、精神的・文化的にいかにも貧しい下劣な人種の集まりだということである。これが今も変わらぬアメリカの本質なのだろうか。

「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」ジョージ・モーゲンスターン著、渡辺明訳、錦正社、1999年12月発行、¥3,150(税込み)


著者は1906年、米国シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学を専攻後、25年間新聞界で活躍した外交・国際問題専門のジャーナリスト。訳者は1925年、大分県生まれ。國學院大學卒業(近現代史専攻)後、高校教師、ニッポン放送プロデューサー・解説委員などを歴任。日本の近現代史の著書がある。
現役のジャーナリストであった著者による本書は終戦直後の1947年に出版されている。序章の署名は1946年8月23日である。別掲のチャールズ・A・ビーアドの著書(「ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか〕」)よりも早い。そのビーアド博士は本書についてその推薦の辞で、「この一巻こそ、この真珠湾という大事件の動かすことのできない、強烈な力を持った労作である。それは厳正な資料から引用した証拠によって裏打ちされている」と述べている(訳者あとがき)。
戦争直後に書かれた本書やビーアド博士の著書の邦訳が日本で出版されたのが1999年や2012年になったこと自体が、戦後の日本の教育や言語空間が歴史の真実を追究しようとしない大東亜戦争日本悪者論や日本侵略者論に組する反日左翼勢力に牛耳られてきたことを物語っている。
1939年にナチス・ドイツによってヨーロッパで始められた戦争でイギリスを助けるため、アメリカのルーズベルト政権は中立法を改訂して参戦しようとしたが、ドイツは慎重に大西洋での米軍の挑発に乗らなかった。アメリカでは宣戦布告の権限は大統領にではなく議会にあり、当時の議会は世論を反映してアメリカが参戦することに否定的であった。そこで戦争に入りたかったルーズベルト大統領は「枢軸三国の一つとわれわれが戦争に入れば彼ら全部と戦わねばならなくなることに注目して、裏口から欧州戦争参加を達成すべく、向きを太平洋と日本に変えたのである。・・・日本は、禁輸と海外資産凍結で絶望に陥った。ついで、ワシントンでの外交交渉を通じて達成できるいかなる解決の希望も奪った。最終的に大統領は、いくらか当座しのぎの解決を与える暫定協定によって、三ないし六ヶ月の猶予期間を日本に与えるという計画を放棄した。そして彼は、ハル長官に前進を告げ、十一月二十六日の一〇ヵ条からなる反対提案の提出を命じた。・・・ルーズベルトは、日本が戦うだろうことを承知していた」(第一九章)。大統領にとってのただ一つの条件は、日本に先に明白な一発を打たせるということであった。大統領が国民に「(アメリカが)攻撃された場合を除いて、外国の戦争に参加することはない」と繰り返し約束していたからである。真珠湾はその犠牲にされたのだということを本書は数多くの資料を駆使して実証している。
開戦に先立つ何ヶ月も前に、アメリカ情報部は日本の極秘暗号の解読に成功しており、あたかも「彼らが日本の戦争指導会議に列席して」いるかのように情報を握っていた。彼らはこの暗号文解読術を「マジック」と呼んだ。ルーズベルト大統領一派はこの情報により、開戦日時も日本軍による真珠湾攻撃も予測できていたが、日本に最初の一発を打たせるべく、アメリカ国民にも真珠湾現地の司令官にも情報を秘匿していた。その結果、真珠湾攻撃は卑劣な日本軍による奇襲攻撃として日本の責任にし、ただ被害が大統領の期待した予測を大きく上回っていたためそれだけでは不足と見て、現地の司令官であったキンメル提督とショート将軍に責任を負わせた。
「(アメリカ)政府は、その経済戦争、秘密外交、内密の軍事同盟、日本が「屈辱的」とした要求の提示および宣戦布告なき戦争のための完全な中立放棄によって、十二月七日の結果を引き起こそうと演出した」、「パールハーバーは、乗り気でない国民を戦争に引き込むに当たって、躊躇する議会に頼らなくてもいい方法をアメリカの好戦派に提供した。そのうえ、その惨害の規模そのものが、惨害をつくり出した政策から国民の注意をそらす好機を、ルーズベルトとその側近たちに与えた」、「パールハーバーは、正式に承認された戦争の最初の行為であり、また政府がずっと以前から乗り出していた秘密戦争の、最後の闘いでもあった。この秘密戦争は、わが国の指導者たちが、宣戦布告によって公式の敵となる何ヵ月も前に、すでに敵として選ばれていた国々を相手として戦われた。それは、指導者たちが、戦争を受容するうえでのろまだと考えていたアメリカ国民に向けて、心理的手段や宣伝と欺瞞によっても戦われた。国民は、戦争同然の行為を、それは国民を戦争圏外に置くための行動だ、と告げられてきた。結局、憲法上の手続きは、出し抜かれるためにのみ存在し、戦争発動権限を有する議会は、既成事実の追認という措置をとるほかなかった」(第ニ〇章)。
第一一章には日本がアメリカの最後通牒だと判断したいわゆるハル・ノートの一〇ヵ条全文が掲載されている(pp.210~211)。満州はシナではないと主張すればハル・ノートを基礎に置いた交渉を継続できた可能性が完全には排除できないようにも見えるが、当時の交渉経過や戦後になって判明してきたルーズベルト政権の実態を考えると、恐らくはハル・ノートの約束すらアメリカが遵守したかどうかは疑わしい。何が何でも戦争に入りたいルーズベルト政権が、日本をより疲弊させるための単なる時間稼ぎに使われた可能性の方が高い。大東亜戦争開戦時の日本の石油備蓄量は、一年半分程度しかなかった。日本にとっての最大の失敗は恐らく、中途半端に真珠湾の旧式艦隊だけを攻撃して大東亜戦争を太平洋戦争にしてしまい、まんまとアメリカ(ルーズベルト政権)の術中にはまってしまった日本海軍の戦略にあつた。
本書は内容も記述も非常に明解であり、訳文も比較的、読みやすい。

「真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々」ロバート・B・スティネット著、 妹尾作太男監訳、中西輝政解説、文藝春秋、2001年6月発行、¥2,000+税


著者は1924年、米国カリフォルニア生まれ。高校卒業と同時に海軍に入隊し、太平洋と大西洋の両戦場に従軍。戦後は新聞記者を勤め、1986年本書執筆のため退社。十年以上の歳月を費やして1999年12月7日に本書を出版した。監訳者は1925年、岡山県生まれ。海軍兵学校卒、戦後は海上自衛隊勤務。定年退職後は執筆活動をしている。解説者は高名な京都大学教授。
読者はジャンケンの必勝法をご存知であろうか。それは簡単である。後出しすることだ。闘いというものは相手の秘密情報をつかんだ上で戦えば圧倒的に有利になることは論を俟たない。闘いの本質は情報戦争だといってよい。ところがどういうわけか、近現代の日本人はこの情報戦争に弱い。戦後の日本国には情報戦争を戦える組織もなければ、その気構えもない。この傾向は戦前においてもさほどの差はなかったようで、海外での宣伝戦においてもほとんど不作為といえるほどの体たらくであったし、当時の日本国の重要情報がアメリカの情報機関の暗号解読技術によって筒抜けになっていたことについてもまったく気づいていなかったようだ。
本書は戦争直後にジョージ・モーゲンスターンによって書かれた「真珠湾―日米開戦の真相とルーズベルトの責任」(別掲)と基本的に同じ内容ではあるが、戦後40年以上経過した時点で収集できた資料(1966年に成立した「情報の自由法(Freedom of Information Act)」[その後数回修正]を活用して収集した二十万通以上の文書[それでもまだ機密指定により開示されなかったものも多い]と関係者へのインタビュー)に基づいて書かれているため、それまでに未見の資料も数多く紹介されている。その主たる内容は、アメリカの情報機関が一九四〇年秋ころ以降、暗号解読に成功していた日本の海軍情報の詳細と、もう一つはルーズベルトの側近で同時に海軍情報部の極東課長でもあったアーサー・マッカラム少佐が起草しルーズベルト政権によって採用されたと考えられる「戦争挑発行動八項目」の覚書の内容(以下)とである。
一九四〇年十月七日付アーサー・マッカラム少佐の覚書(日本を挑発して米国に対し明白な戦争行為に訴えさせるための、八項目の行動提案)。ダドリー・ノックス大佐の承認を含む。著者が一九九五年一月二十四日、第二公文書館で発見。次の施策八項目を提案する。A.太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。B.蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。C.蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。(D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。(E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。(F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。(G)日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること。(H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせることが出来るだろう。(付録、pp.456)
これらにより著者は、①日本が真珠湾を攻撃するようルーズベルトが仕向けた、②真珠湾攻撃以前には米国は日本軍の暗号を解読していなかったという説の誤り、③日本艦隊は厳重な無線封止を守っていたという説の誤り、を証明している。
「真珠湾攻撃はあくまでもクライマックスであって、それまで長い時間をかけて、ある組織的な計画が実行されていたということである。本書執筆の趣旨は、まさにこの点にある」(エピローグ、pp.447)。一九四〇年九月に成立した「日独伊三国同盟」の結成を好機として、ルーズベルト政権は日本を極限まで追いつめ「暴発」させることによって「裏口から」主たる目的である欧州参戦を果たすというアメリカの戦略目的を実行した。日本は「情報力」の決定的格差により、アメリカのシナリオ通りに大東亜戦争に引きずり込まれていったことが分かる(解説、pp.530~531)。本書の解説者は、「あの戦争において、究極的かつ決定的な意味で日本を撃破した主役は、ローレンス・サフォードやジョセフ・ロシュフォート、あるいはウィリアム・フリードマンやアグネス・ドリスコルら、大戦中日本の外交・海軍暗号のほぼ完璧な解読を可能にした人々であった」(pp.527)と解説している。
著者は、大東亜戦争がルーズベルト政権の政策(陰謀)により引き起こされたものであったことを詳細に証明しながらも、ルーズベルト政権全体を評価する立場から、「本書で、語られている真実により、アメリカ国民に対するフランクリン・デラノ・ルーズベルトのすばらしい貢献が矮小化されることはないし、また彼の功績がこの真実により汚されるべきではない。アメリカの全大統領について言えることだが、・・・その政権の全体像から評価されなければならない」(エピローグ、pp.448)と述べている。ただし、必ずしも解説者が述べているような、「ルーズベルトが日本による「卑劣な不意打ち」を演出してアメリカを大戦へと導いていったことは正しかった、という結論をスティネットが出している」(解説、pp.525)わけではない。第二次世界大戦に実際に従軍した米国軍人の一人として、著者はルーズベルト政権全体は評価しながらも、その思いはもっと屈折した複雑なものである。たとえば、「まえがき」では「本書は、アメリカの戦争介入が賢明であったか否か、を問うものではない。太平洋戦争を経験した退役軍人の一人として、五十年以上もの間、アメリカ国民に隠蔽され続けた秘密を発見するにつれて、私は憤激を覚えるのである。しかし私は、ルーズベルト大統領が直面した苦悶のジレンマも理解した」と述べているし、「第二次世界大戦の遺族と退役軍人[著者もその一人である]にとっては憎んでも余りあることのように思えるが、ホワイトハウスの立場からすれば、真珠湾攻撃はより大規模な悪を阻止するために耐え忍ばねばならない出来事であった。その悪とは、ヨーロッパでホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を開始し、イギリス侵略を狙っていたナチスのことである。ヒトラーの勢いを止める手段として正しい選択であったか否かについては議論も分かれるだろうが、ルーズベルトは途方もなく大きなジレンマを抱えていたのは確かである。ルーズベルトの願いや説得もむなしく、強大な孤立主義勢力は、ヨーロッパの戦争にルーズベルトが介入することを許さなかった。・・・本書は、そのようなジレンマを解決する趣旨で書かれたものではない」(エピローグ、pp.447~448)とも述べている。
著者の立場はルーズベルト政権時代を生きた多くの米国軍人の立場を表しているように思うが、単純に日本軍による真珠湾攻撃に至るルーズベルト政権の政策を支持しているわけではない。それは当然のことと思われる。たとえ「自分たちが正当だと信じる目的のためには手段を選ばない」のが国際政治の現実ではあっても、そのような理屈が堂々と人間社会の正義として通用するのならば、それは左翼や共産主義者と同じ闘争至上主義の独善的な力の思想と何ら変わりはないし(事実、ルーズベルト政権には共産主義者の勢力が大きな影響を及ぼしていたし、当時のアメリカが民主主義国であったとも言えない)、人間社会の道理や法律も成り立たないことになる。強者の無法は正義で、弱者の道理は通らないというのは、長い目で見れば必ず破綻につながる。そうした人間の道理に反する手段は単に卑劣なだけであり、正当化できる根拠はどこにも存在しない。アメリカにはルーズベルト政権全体を評価しない人々も少なくないし、またアメリカが大東亜戦争を引き起こしたことによる数多くの犠牲や、戦後のアジアの混乱や諸問題の源泉を作り出した責任は否定できない。

「「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実」アラン・アームストロング著、塩谷紘翻訳、日本経済新聞出版社、2008年11月発行、¥2,100(税込み)


著者は1945年、米国ジョージア州アトランタ生まれの弁護士(航空法の権威)。
訳者は1940年生まれのジャーナリスト。「ジャーナリスト生活の半分近くをアメリカで過ごす」(訳者あとがき)と書いている。
本書は、日本軍による真珠湾攻撃の1年以上も前から、米国政府の首脳陣はアメリカ人による中国における義勇兵(航空戦隊)[フライング・タイガー]を使って日本を空爆する秘密計画を検討していた事実を詳細に解明したものである。本書冒頭には日本への先制爆撃計画「JB-355」を承認した、1941年7月18日付のルーズベルト大統領署名入りの文書(署名の日付は1941年7月23日)の写真が掲載されている。
「対日先制攻撃は、蒋介石に雇われたアメリカ人義勇兵が操縦する一五〇機の長距離爆撃機を中核とする一大航空部隊が中国大陸南東部の秘密基地から本州を襲い、続いて各地の主要都市に連夜、焼夷弾の雨を降らせる計画だった。だがアメリカは、爆撃機供与を中国に約束したものの、ナチスの猛攻に喘ぐイギリスを優先的に支援する必要から引渡しが遅延し、真珠湾奇襲に後れを取ったのだった。」(訳者あとがき)
「JB-355計画が生まれた政治状況は、アメリカが公式には交戦状態にない時期に、事実上、一交戦国(註:中国)を援助し、軍事行動を率先して計画・実行しようとしたアメリカ大統領の姿を明らかにしている。」(結論)
当時、米国政府首脳の一人としてこの秘密計画を強力に遂行していた大統領補佐官ロークリン・カリーは、KGBのエージェントだったことが戦後に発覚して、南米コロンビアへ逃亡した(一九九三年死亡)。
本書で一つ気になるのは、著者の満州事変、日中戦争、大東亜戦争などの理解が非常に表面的(ステレオタイプ)で、当時のアジアや日本に対する無知にまったく気づいていない点である。本書の原著が出版されたのが2006年だから、これが現在でもアメリカ人の平均的な理解なのかと驚かされる。米英蘭仏各国は大東亜戦争により結局、搾取の限りをつくしたアジアの植民地を失ったわけで、経済封鎖にあった日本が資源を求めて南方諸国へ侵攻したことが彼らにとって侵略と映るのは仕方のないことかも知れないが、その立場が有色人種国家への過酷な植民地支配と搾取を正当だと考える白人侵略者の思想であることには気づいていないようである。結論で述べているアメリカによるイラク攻撃に対する見解も、単にアメリカ政府のプロパガンダを反復しているだけのように見える。
日中戦争を「日本人は中国人絶滅を目論んだ戦争で・・・」(結論)などというのは、南京事件(1927年3月)、西安事件(1936年12月)、盧溝橋事件(1937年7月7日)、通州事件(1937年7月29日)、上海事変(1937年8月13日~)などを始めとする、共産主義者と結託した当時の中国の無法に無知なためだろうが、書く以上はもう少し調査してから書くべきである。

「太平洋戦争は勝てる戦争だった-文系支配が敗戦をもたらした」山口九郎右衛門著、草思社、2009年8月発行、¥2,000+税


著者は1931年、神奈川県生まれ。石油会社勤務時、テキサス大学を卒業(修士)。
著者は本書で、アメリカはヨーロッパとアジアの両方で戦争をしていたのだから、日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に負けたのは工業力の差ではなく、国家の経営力の差であったということを、航空戦力の詳細な分析などを通して主張している(ただし、あまり読みやすい本ではない)。
具体的には、①空軍省の設立、②航空燃料の自給自足(人造石油の開発)、③(軍用機の)少品種多量生産の社会化、④航空技術力の集中活用法、⑤少年操縦員と科学技官の優遇人事、⑥最高指導層の特別教育(国民満足の再教育)などの欠落を敗戦の要因として挙げている。それらすべてに実現の可能性がなかったわけではないが(実際は日本は日米戦争を想定しておらず、当時の統治システムでは実現が困難であった)、物的証拠により論理的・科学的に物事を進めていくという方法(著者は、帰納法的思考のルールと表現している。数学的・理科的思考方法のこと)がマスコミを始め国家の指導層に欠けていた(いわゆる文系支配)のが原因だと分析している。同じ傾向は戦後の日本の国家組織や政治的指導者、マスコミなどにも共通して存在しており、日本の政治的指導層の体質は戦後もほとんど改善されていない。そのことを端的に示しているのが最近の原子力(放射線)をめぐる政策の混乱である。放射性物質の崩壊過程に伴って放出される極微粒子(Heの原子核、電子、中性子、陽子)の高速な流れや電磁波(広い意味でのエネルギー)が放射線であるにも関わらず、放射線を何かフグやハブなどの猛毒のような、あるいは砒素や青酸カリのような猛毒物質と同じような扱いをして、わずかな放射性物質の除染などに貴重な血税を浪費している(福島県の飯館村でも1000ベクレル弱=0.02マイクロシーベルト程度の放射性物質量)。物質的エネルギーには良いも悪いも無く、ただ波長(周波数)の違いや強弱(量)の差があるだけで、たとえば、同じ熱でも厳冬に白金カイロは有難いが猛火は人の命を奪うようなものである。一定限度までの放射線(エネルギー)は人間の健康増進や病気治療に有用であることはすでに数多くの科学的研究により立証されている(“「医師がすすめる低放射線ホルミシス-驚異のラドン浴療法」川嶋朗監修、ローカス、2008年7月発行、¥1,143+税”、“「医師がすすめる低放射線ホルミシス2-ラドン浴の実践」川嶋朗監修、インフォレスト、2009年11月発行、¥1,400(税込み)”、“「放射能を怖がるな!ラッキー博士の日本への贈り物」T.D.ラッキー著、茂木弘道訳・解説、日新報道、2011年8月発行、¥1,000+税”、“「「放射能は怖い」のウソ」服部禎男著、武田ランダムハウスジャパン、2011年8月発行、¥980+税”、“「明るい未来への道筋 原発興国論!」渡部昇一著、月刊Will2012年4月号掲載、ワック出版”[後に、「原発は、明るい未来の道筋をつくる!」としてワックより出版(2012年4月発行、¥476+税)]など参照)。具体的には、危険量の閾値(上限)は急性被爆で100ミリシーベルト程度、慢性被爆で年間1万ミリシーベルト(1日毎時平均約1.14ミリシーベルト)。下限は年間2~3ミリシーベルト(自然環境)。健康に最適の値は年間100ミリシーベルト(1日毎時平均約11.4マイクロシーベルト)で、毎時10ミリシーベルトまでは人間の遺伝子(DNA)は修復能力を持っていることが科学的に証明されている(1996年)。これだけの科学的データがあるにもかかわらず、日本政府が非常識な規制値にこだわるのは、日本政府が国際放射線防護委員会(ICRP、民間組織)の勧告を批准しているからです。ICRPの勧告は80年も前の研究データによる仮説に基づいて作成されており、ここ30年余りの数多くの研究結果をまったく反映していない。ICRPはガリレオ・ガリレイの地動説を異端としたローマ教皇庁の現代版である(ちなみに、ローマ教皇庁がコペルニクス説禁止の布告を出してから地動説を正式に承認するまで、376年かかっている)。科学に政治が介入すると、考えられないような愚行を続ける典型的な例と言ってよい。日本政府は一日も早くICRPから抜けて、多くの科学的データに沿った原子力政策に変更すべきです。
原子核反応により放出される主な放射性物質(核種)は、セシウム137、ストロンチウム90、ヨウ素131、プルトニウム239なのだが、これらの物質が体内に取り込まれた場合の化学毒性については、特に有害だとの報告は無い。ただ、ヨウ素131だけは甲状腺に集積されるので注意を要するが、物理半減期が8日間と短く(生物半減期は80日)、大量の摂取でない限り、日常、通常のヨウ素127の含まれるコンブなどの海藻類を摂取していれば特に心配する必要は無い。原発を持つ国では通常、大量の被爆に備えてヨード剤を備えるようにしているようだが、ヨード剤は妊婦にはリスクがあったり、ヨードの過剰摂取の問題などもあり、ほんとうに大量摂取の危険のある時は避難するのが最善である。[なお、セシウム137は筋肉や全身に、ストロンチウム90は骨や歯に、プルトニウム239は骨、肝臓、肺に集積される(“世界の放射線被爆地調査”高田純著、講談社、2011年4月、¥980+税“参照)。]
古来「薬石効無く」という言葉があるが、食物でもない石(鉱物)が病気治療に役立つというのは、石が出すエネルギーが効く以外には考えられない。薬石というのは放射性物質のことだと筆者は理解している。原子力が大量殺戮兵器という形で広く世に知らされてしまったため、そのことに目がくらみ、科学的真実を見ようとしない問答無用の人たちがこの国を動かしている。広島・長崎の原子爆弾による被害にしても、放射線による被害は異常に大量の放射線を一度に浴びた爆心地における急性放射線障害や高濃度の放射性降下物があった一部の地域のみで、原子爆弾による被害の大半は高熱と爆風によるものである。いわば、残虐な米軍得意の巨大な火炎放射器で焼き尽くされたというのが実態でしょう。福島第一原子力発電所の事故の場合、核反応は自動停止しており、原子力運転員の急性放射線障害も無く、発電所施設外へ放出された放射性物質も危険なほどの量ではなかった(“「「放射能は怖い」のウソ」服部禎男著、武田ランダムハウスジャパン、2011年8月発行、¥980+税”、“世界の放射線被爆地調査”高田純著、講談社、2011年4月、¥980+税“参照)。しかもあれだけの地震と津波にも関わらず、福島からいくらも離れていない東北電力の女川原子力発電所は深刻な事故を起こしていない。これは原子力発電所の建設に際して、東京電力の方が東北電力より”文系支配“(文官官僚支配傾向)が強く、意思決定においてほんものの専門家(技術者)を廃した度合いが強かったからだと推測できる。つまり問題は統治システムにあるのであって、今回の事故がただちに原子力発電所が危険だということを意味しない。正義感ぶってさまざまな邪悪な意図を隠し、科学的態度や事実認識とは関わりなく自説を押し通そうとする無知で悪意に満ちたマスコミや似非学者と、正常な判断力の欠如した政府が扇動して国民の大多数を狂乱状態に陥れたときのこの国の状態は、正に夢遊病者そのものである。これは日本人の、というよりも人間集団の持つ本質的な狂気なのかも知れない。中世ヨーロッパにおける魔女狩り、地動説に有罪判決を下したローマ教皇庁(天動説)、共産主義とルーズベルト・トルーマン政権の狂気など、人類史において類似の実例には事欠かない。
薩長を中心とする勢力による武力革命であった明治維新後の一時期(明治時代)を過ぎ、国家の制度が整うにつれ、外国との戦いを想定しなくて済んだ平和な江戸時代の門地(家柄)による身分が学歴による身分に変わっただけで、日本の指導組織は目的遂行型の機能的組織ではなく、身分維持型(利権保持型)の人事制度になってしまい、大東亜戦争のような非常時に強力に目的を遂行することのできない組織となっていた。その背景に、明治憲法が持っていた制度的欠陥に加えて、高等文官試験の合格者による支配層の独占や軍部における兵学校での年次・成績主義などがあり、戦前の日本の指導組織が文系(官僚)支配で、科学的・合理的・合目的的に行動できなかった原因があると著者は主張しているのである。そしてそのことは、戦後の日本においてもあまり改善されていないように見える。日本はアメリカとの戦争において、兵隊の質、兵器の性能、アメリカの物量に敗れたわけではない。日本自身の統治システムの欠陥から来る国家・戦争指導層の致命的な失敗の積み重ねにより敗れたのである。指導層の人事制度を身分制度にし、本物の専門家を排して素人の文系官僚群が重大な意思決定を行うという利権システムを変更しない限り、今後も類似の失敗や国家的な事故を繰り返すことになるのは目に見えている。
まともな法的根拠のない、戦勝国によるリンチのような東京裁判史観が日本独立後も日本人から容易に払拭されないのは、多くの国民が徴兵により強制的に戦地へ送られながら、戦争指導層の数々の失敗により悲惨な敗戦に至った責任を、結果的に東京裁判が戦争指導層だと思われていた人達に取らせたことを、国民の多くが暗黙のうちに認めているからではないか。そういう意味で、「宣戦布告なき戦争」を始めていたのはアメリカであった(フーバー大統領回顧録など参照)としても、真珠湾攻撃前の対米宣戦布告を怠り、そのことをルーズベルト政権にさんざん利用されて国益を損ねた、当時の外務省関係者が責任を取らされていないのは不条理というしかない。
航空兵器の分析から太平洋戦争(大東亜戦争)を分析した類似の著書に、“「零式艦上戦闘機」清水政彦著、新潮社、2009年8月発行、¥1,400+税”がある。著者は1979年生まれ(東京大学経済学部卒、弁護士)と年は若いが、分析は詳細で正鵠を射ており、文章も読みやすい。同書で著者は結論として、「筆者には、零戦と米軍機の勝敗を分けた最大の要因の一つが、日米両軍の「総力戦」に対する覚悟の差と、その差から派生する戦術・空中指揮に対する工夫の差であったように思われる」(“おわりに”より)と述べている。これは前記の著書同様、戦争指導層の戦争遂行能力の差、つまりは国家レベルでのソフトの差ということを意味している。





「「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか」ジェームズ・B・ウッド著、茂木弘道訳・註、ワック、2009年12月発行、¥1,600+税

著者は米国の大学教授(歴史家)。訳者は1941年、東京都生れ(「史実を発信する会」事務局長)。本書は、軍事史に興味を持ち関連著書もある米国人である著者が、「日本は「太平洋戦争」の戦い方を誤った」ということを数多くの資料から解説・証明している試み。訳者は、英語圏の著者が採用することのできた資料の偏りから来る誤解を、一つ一つ丁寧に「訳者注」として訂正・解説している。
“そもそも大東亜戦争に対する日本の基本戦略は、東南アジアの資源地帯から米英蘭勢力を駆逐した後は、対米、すなわち太平洋は防御、攻勢の主方向は、インド洋と中国であった。開戦直前の昭和十六年十一月十五日の大本営政府連絡会議で採択された「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」にはこのことが明記されている。この基本戦略通りに戦ったならば、日本が負けることにはなりえなかったと思われる。・・・英を脱落させ、中を脱落させ、米をして戦争継続の意欲を喪失せしめる、という極めてまともな勝利を目指しているのである。”、“「戦力は根拠地から戦場への距離の二乗に反比例する」というよく知られた戦いの原則からすると、たとえアメリカが日本の十倍の戦力を持っていたと仮定しても、戦場の選び方によっては・・・日本は圧倒的に優位な戦力と化すのである”(訳者まえがきより)
その基本戦略に反する戦いを始めたのは、海軍の山本五十六連合艦隊司令長官であった。「真珠湾攻撃は海軍軍令部が猛反対したにもかかわらず、最後には、山本提督が作戦前夜に連合艦隊司令長官辞任の意向をちらつかせることによって自説を押し通した」(第1章より)。さらに山本提督と彼の参謀は、再び山本提督が連合艦隊司令長官を辞任する旨を表明することにより、初期の戦争計画に反するミッドウェーでの戦いを、海軍軍令部の猛反対を押し切って実行した。(第1章)
山本提督一派によるパフォーマンスのようにしか見えない戦い方だが、最初の真珠湾攻撃で意見の対立が生じたとき、山本提督を更迭するだけの力(それだけの人物)と覚悟が海軍上層部になかったということなのか。結果、日米戦争での日本の戦いは相手(米国)のリングで戦うことになり、惨憺たる負け戦になったことは史実が示す通りである。東京裁判で連合国が主張したような「戦争責任」は日本側にではなくむしろ米英中ソ側にあることは明らかだが、日本の戦争指導者には日本国民に対する「敗戦責任」がある。徴兵により悲惨な戦場に送られた多くの一般国民は、戦争の仕方を誤った指導層の犠牲者であったとしか言いようがない。筆者の田舎の隣保(隣組)は筆者の実家と四軒の小規模農家から成っているが、四軒の農家からはすべて当時の働き手が戦争に取られ、一人も帰って来なかった(筆者の実家のみ、年齢の関係で徴兵が来なかった)。かれらの立場で考えれば、戦争が終わり、農地改革による利益を与えてくれた米占領軍は、ある種の解放軍のように映ったとしても非難はできない。東京裁判史観がこの国から容易に払拭されない根底には、全国的にこうした史実が横たわっているのである。
著者は本書で、護送船団方式による輸送船団保護、潜水艦部隊による米国商船・補給船への攻撃、太平洋への陸軍投入のタイミングなど、一つ一つ詳細に日本軍の戦い方の失敗を分析しているが、その根本には「勝利病」を退け、帝国内部から外側へ向っての縦深的で効果的な国防圏を構築するという戦略が取れず、戦域を過剰拡大した戦略の失敗があったと指摘している。日本の勝利は「何もワシントンに日章旗を立てる」などということではなく、米の戦争継続の意欲を喪失せしめて和平に持ち込むことであったはずだが、現実は正反対の戦い方をしてしまった。何かその背後には目に見えない大きな力が作用していたとしか考えようがない。イギリスの生物学者であるチャールズ・ダーウィン(1809~1882)は、その著、「種の起源」で“適者生存”ということを説いているが、人間界においても短期的には「正しい者より強い者」が、長期的には「強い者より環境適応力に優れた者(適者)」が勝利する。日本の明治憲法下の政治体制は明治維新後70年近くを経て、すでに時代に合わないものとなっていたのである。現在の日本国憲法も制定後すでに60年以上を経過しているが、果たして日本人は今後、時代の変化に合わせて改正していくことができるだろうか。

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