ラダビノッド・パル博士 ― 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

2009年9月1日 火曜日

一、 ラダビノッド・パル博士は、現在はバングラデシュ領になっているインドのベンガル地方に生まれた。インドの中でベンガル地方は特に偉人を輩出している。アジア人で初めてのノーベル文学賞を受賞したタゴール、インド独立運動の英雄チャンドラ・ボース、そしてパルと続く。一昨年西ベンガル州(インド領)のカルカッタに設立された印日文化センターの展示の中心はこの三大偉人である。再来年はパル博士生誕125周年にあたる。インド・バングラデシュの若い有志の人たちがこれを記念する事業を計画中である。
二、 1946年春、当時カルカッタ大学副学長の職にあったパル博士は、東京で開催されようとしていた極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事を務めることを要請された。東京裁判の裁判官11名は全て戦勝国から選ばれていた。パルも当時は英国領であったインドから選ばれたわけである。11人の裁判官のうちパル判事のみが国際法の専門知識を持っており、後に国連の国際法委員会の委員長を二期務めている。パル判事は国際法の原理に基づき、そもそも東京裁判には日本を裁く権利が無いことを明らかにした。そして、1200ページを越える独自の判決書を提出し、その結論として「各被告は全ての起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならない」と述べたのである。多数派の判決は日本を侵略国と断罪し、その責任者として7人に死刑判決を下した。いわゆるA級戦犯である。パル判決はこれを全面的に否定したものである。
三、 日本に好意的な判決を出してくれたことに感謝する、というある日本人の発言を聞いてパル博士は、憤然として次のように言った。
   「私が日本に同情ある判決を行ったと考えられるならば、それはとんでもない誤解である。私は日本の同情者として判決したのでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実として認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したに過ぎない。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。」、
四、 パル判決が正しいものあったことは、判決からわずか2年半後に証明された。東京裁判は連合国最高司令官マッカーサーの権限に基づいて行われたものであったが、当のマッカーサーが1951年5月3日アメリカ上院軍事外交委員会で「したがって彼ら(日本)が戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである」と証言したのである。日本の戦争は侵略戦争ではなく、自衛戦争であると公的な場でマッカーサーは認めたということである。パル判決書こそが正しい判決であり、A級戦犯など存在しないということである。
五、 『パル判決書』を世界の人々に知ってもらうべく、発信する会では、『パル判決書』の原文(国書刊行会刊)全ページをサイトにアップした。インド・バングラデシュの若い有志の方たちとも協力しながら、この判決書の意味、そして判決書自身を世界の心ある人たちに伝えて行きたいと考えている。
(9.9)

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