「米国特派員が撮った日露戦争」『コリアース゛』編集、小谷まさ代訳、波多野勝解説、草思社、2005年4月発行、¥2,940(税込み)


米国のニュース週刊誌『コリアース゛』が総力を挙げて取材・撮影した従軍記録写真集から厳選して編集。日露戦争開戦前夜から日本海海戦までをカバーし、当時のリアルな戦争の実態を伝えていて、資料的価値が非常に高い写真集である。数多くの写真は私たちを往時へとタイムスリッブさせてくれ、歴史を抽象的な観念上の出来事としてではなく、生きた人間の営みだと分からせてくれる。日本海海戦の解説を世界的な海軍戦術の研究家として有名なA・T・マハン(アメリカの軍人で歴史家)が執筆している。
原書となった二冊の本を出版した(1904、1905年)『コリアーズ』(Colliers Weekly: An Illustrated Journal)は、1884年4月にアメリカでピーター・コリアーによって創刊された報道写真誌の先駆。1957年1月まで続いた。翻訳者の小谷まさ代は富山大学文理学部卒業の翻訳家。解説者は常磐大学教授。
「日露戦争は領土をめぐる戦いである。戦端を開くきっかけとなったのは、朝鮮と満州の領有をめぐる外交交渉の決裂だった。しかし対立の根本的な原因は、太平洋に向って氷河のようにじりじりと極東へ勢力を伸ばすロシアの南下政策と、それに危機感をつのらせた日本の防衛政策がぶつかりあったことである」(第1章)。第1章には戦争直前の日露交渉に関する電報が掲載されている。
「開戦当初のロシア軍を不利な立場に追い込んだ最大の理由は、本国の基地から前線までの途方もない距離であった」(第2章)。このことは、大東亜戦争を東亜だけで戦わずに太平洋戦争にしてしまった日本海軍の作戦上の誤ちを示唆している。
「日本軍は開戦から数日のあいだに二つの戦いでロシア艦艇に打撃を与え、さらには陸軍の仁川上陸まで無事に成功させ、実質的に制海権を掌握したのである」(第3章)。
「日本艦隊の攻撃によって旅順艦隊に打撃を受けたロシアは、海戦に力点をおくことができなくなり、満州での陸戦にそなえて兵力と物資の増強に総力を挙げた。・・・日本軍の行動は迅速だった。・・・日本軍が義州の四八キロ以内に迫ると、鴨緑江の南岸に進出していたロシア軍は塹壕を捨てて鴨緑江北岸に退却してしまったのである」(第4章)。
「冬のあいだ、日本の陸軍大部隊が強行軍で通過した道筋には、焼きはらわれた村もなければ、略奪で荒らされた家もなく、逃げまどう農民の姿などまったく見られなかった。軍隊内でも勝手な振舞いや騒動はいっさいなく、部隊が通過した村々に規律を乱した兵士の話は残されていない。長老たちが口をそろえて語るのは、規律厳正に粛々と行軍する兵士の姿である。行軍の途中で調達される補給物資の代金はすべて現地の市場価格できちんと支払われる。・・・いま我々が通過している韓国という国は、この二ヶ月のあいだに実に巧妙に日本化されていった。思いやりのある態度、公正な扱い、世論も個人も巧みに操る手際よさ、そういったもので日本はこの国を征服したのである」(第5章)。
「一九〇四年二月の開戦から数ヶ月間、ロシア軍を最も苦しめたのは、本国の基地から前線までの気の遠くなるような距離であった。ロシアと満州を結ぶ輸送路は単線のシベリア鉄道のみである。しかも当時はバイカル湖の凍結で鉄道は分断された状態だった」(第6章)。
「二日間にわたった鴨緑江畔での戦闘は、開戦以来最初の大規模な陸戦であり、兵力だけでなく機略・戦略においても敵を凌駕した日本軍が圧倒的な勝利を収めた。・・・自信過剰に陥って事態を楽観していたロシア軍は、まるで無為無策に兵を配置していた」、「鴨緑江の戦闘が終わると、日本軍は負傷兵の看護に力を尽くした。・・・日本軍はロシア人負傷兵を自国の兵と同じように看護したばかりか、ロシア軍が敗走するさいに遺棄していった戦死者を埋葬したのである。士官に対してはその階級に即して、日本陸軍士官と同等の扱いで丁重に葬った」(第7章)。
「廣瀬中佐は・・ロシア軍の放った一弾を身に受けて・・一片の肉塊をとどめただけだった。・・・本国到着後は、特別に選抜された将校たちによって東京まで護送され、葬儀の日には無数の熱狂した市民が墓所への沿道を埋め尽くしたという」(第8章)。
「日本軍にとって遼陽の会戦は、鴨緑江の渡河から四ヶ月にわたって進めてきた満州における軍事作戦のゴールともいえる戦闘であった。日露戦争において初めて両軍の主力が対決することとなったこの会戦には、近代戦史上最多の兵力が投入され、すさまじい死闘のすえに日本軍の勝利に終った。参加した将兵の数は日露両軍あわせて四〇万から五〇万、五日間におよぶ大会戦における両軍の死傷者は合計およそ三万人にものぼると推定されている」(第九章)。
「奉天へ退いたロシア軍は・・反撃に出ることを決意し・・沙河の会戦では・・およそ二週間後、日本軍の奮戦によって・・ついにロシア軍は沙河の北への退却を余儀なくされた」(第10章)。
「一九〇五(明治三八)年一月一日、旅順攻囲戦はようやく終焉を迎えた。半年におよぶ激烈な死闘のすえ、旅順はついに日本軍の手に落ちた・・・日本軍にとって二〇三高地の最大の価値は、旅順港に在泊するロシア艦船が一望できることである」(第11章)。
「投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数、いずれをとっても奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。・・・総兵力は七五万から八〇万人にのぼり、そのうちロシア軍は三六万一〇〇〇、日本軍は少なくとも四〇万であった。・・・奉天の周囲には防御線が何重にも構築され・・難攻不落と評される強大重厚な要塞だった。対する日本軍は東から西へ五つの軍を配置していた・・迂回包囲作戦である。この作戦は大成功を収めることになる」(第12章)。
「日本海海戦は日本海の制海権を争う日露の激突である。・・・大陸(満州)での陸戦を維持するためには海上輸送路の安全確保が必須であった。・・・連合艦隊は高速で運動して常に敵の全面を圧迫し、先頭部へ集中砲火を浴びせつづけた。・・・海戦初日の五月ニ七日、海上は南西からの強風が吹き荒れ、風浪が高かった。この気象は日本側に味方した。・・・やがて戦場は日没を迎えた。・・連合艦隊は主力による発砲を停止し、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。・・このとき偶然にも、それまで吹き荒れていた強風が弱まった。・・暗夜での水雷攻撃が容易になったのである。まさに天が日本側に味方したというべきである。・・・日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り、地上戦を支える生命線である海上補給路の安全を確保したのである」(第13章)。

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