著者(1874~1938年)はスコットランドのエディンバラ生れ(生涯独身)。1919年、清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師に就任(~1925年)。清朝末期の実情を内側からつぶさに観察したイギリス人による貴重な歴史の証言。皇帝について、紫禁城の内幕、満洲問題と日本との関係などを述べており、極東軍事裁判で何が何でも日本を悪者に仕立て上げたい連合軍が証拠書類として取り上げることを拒否した著作。原著は1934年刊行。
話は、康有為の政治的意見を入れた光緒帝(徳宗、清朝最後の皇帝・溥儀の伯父)が立て続けに改革の詔勅を公布した時期(一八九八年の「百日間」)に始まる。袁世凱の裏切りにより、康有為と光緒帝の改革計画が保守派(反動派)をバックにした西太后(光緒帝の伯父・文宗の妻)のクーデター(戊戌の政変)で頓挫し、以後、光緒帝と西太后が亡くなる一九〇八年まで西太后と保守派が清朝の政治を支配した。一八九九年には義和団事件(北清事変)が起こり、宮廷は義和団の排外運動を支持して列強に宣戦布告をするが、一九〇〇年には連合軍が北京入城を果たし、紫禁城を制圧した。その結果、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。西太后は光緒帝を同行させ、西安へ数ヶ月間、逃避した。講和後の一九〇一年に北京へ戻った西太后は過去の反動政策を転換し、さまざまな改革計画に着手するが、遅すぎた。西太后と光緒帝がほぼ同時に亡くなると、一九〇六年生まれの溥儀が皇帝の地位につき(宣統帝)、実父である醇親王が摂政となる。その後は摂政王と新皇太后(光緒帝夫人)とが並立する形の統治であったため、清朝政府の力は急速に衰えていき、一九一一年末から革命派との間に講和会議が開かれた。この時点で満洲王朝(清朝)がシナを放棄して故地、満洲へ退いていたならその後の世界史の展開は変わっていたであろうが、現実の歴史はそうはならなかった。皇帝が自ら退位して共和政体を樹立し、共和国は皇帝が尊称を保持して諸種の特権を維持するための年金を与える(清室優待条件)ということで妥協が成立する。一九一二年二月には皇帝の退位と共和国樹立を告げる詔勅が発布された(辛亥革命)。こうして満洲王朝である清朝政府は中華民国政府に変わるのである。王朝を裏切り中華民国政府の大総統に就任した袁世凱は共和制をも裏切って自身が新王朝の初代皇帝になることを画策するが失敗(一九一六年に死去)。総人口約4億人のうち90%が文盲であった当時のシナ人の多くは君主制を支持していたが、袁世凱を支持してはいなかった。一九一七年には張勲将軍を中心とした君主制支持派により宣統帝(溥儀)が復帰するが、直後に共和国側の段祺瑞との戦争に敗れて溥儀は再び隠棲した。その後、段祺瑞が国務総理になって北京に新議会が招集されたが、広東では孫文が独立政府を維持していた。一九一八年になり北部勢力に押された孫文は日本へ亡命するが、南北間では内戦が続き、全国を統治する中央政府は存在しないことになる。北京の新議会では徐世昌が大総統に選出された。一九一九年五月には、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本の利権に対するシナ側の要求が拒否され、段祺瑞が日本の二十一ヶ条の確認に同意したことが暴露されると五・四運動が起こり、暴徒化する。一九二二年には皇帝・溥儀の結婚式が執り行われた(皇帝も皇后も十六歳)が、帝室の私有財産であるはずの皇帝と皇后への婚礼献上品がすべて共和国側に押収された。同時期、北方の政治グループ(安福派、奉天派、直隷派)間の対立が激化し、安直戦争、奉直戦争などが起こっている。一九二四年には満州の将軍、張作リン(リンは雨冠に林)とシナ北部の呉ハイフ(ハイは人偏に凧、フは浮の旁)の間に内戦が勃発し、呉ハイフの部下であるヒョウ玉祥(ヒョウは二水扁に馬)がクーデターを起こして(十月)清室優待条件を一方的に修正して宣統帝を紫禁城から追放し、実父、醇親王の邸宅(北府)に軟禁する(十一月)。同年十一月下旬には満洲王朝と宣統帝に同情を寄せていた張作リンが大総統に指名した段祺瑞と北京入りし、一時的にヒョウ玉祥の勢力が後退する。そのわずかな期間に宣統帝は著者などの支援で公使館区域へ脱出し、日本公使館に保護されることになる。「北府」に残された皇后も日本公使(芳澤謙吉)の断固たる努力で日本公使館へ脱出する。皇帝は一九二五年二月二十三日までの三ヶ月間ほどの間、日本公使館の賓客であった。その後、皇帝は天津の日本租界内で一九三一年十一月までの七年近くを過ごした。それまでどのような陰謀にも荷担していなかった皇帝・溥儀が変貌するのは、一九二八年七月に神聖な帝室の御陵が国民党の軍閥によって破壊され、埋葬品を掠奪・冒涜された(東陵事件)からである。同年、張作リン爆殺事件が起こり、一九三一年九月には奉天郊外で柳條湖事件(満州事変)が起こった。同年十一月、皇帝は天津を去り、満州に向った。翌一九三二年の満州国建国に伴い、皇帝は満州国の執政に就任。一九三四年の満州国帝政実施で満州国皇帝となった。
満洲や君主制、満洲と日本との関わりについては、本書に以下のような記述がある。
「一八九八年当時、満洲に住んでいた英国の商人たちは、「まさに目の前で現実のものとなってゆくロシアの実質的な満洲併合」について語っている。・・・シナの人々は、満洲の領土からロシア勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、まったく取ろうとはしなかった。もし日本が、一九〇四年から一九〇五年にかけての日露戦争で、ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東半島のみならず、満洲全土も、そしてその名前までも、今日のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地のない事実である。」(第一章)、「日本は・・日露戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益や特権は保持したものの、・・満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎ取られた政府(註:満洲王朝の政府、清朝)の手に返してやったのである。」(第四章)
「満洲は清室の古い故郷であった。・・・満洲地方には、漢人、蒙古人、満洲人、そして数多くの混血民族など、王朝に忠誠を尽くす人々がすこぶる大勢いた。だからこそ満洲は、革命で積極的な役割を全く演じなかったのである。・・・外蒙古は、一九一一年まで自国が「シナに従属」するのではなく、「大清国」に従属するものだと見なしていたということだ。・・・シナはすでに満洲人を異民族、すなわち「夷族」であると宣言し、その根拠にもとづいて、満洲人を王座から追放したではないか」、「(すでに一九一九年から張作リンなどが皇帝を帝位に就かせ、日本の保護下で君主制を復活させて満洲を独立させる計画だというウワサや報道が出ていたので)次のリットン報告書の一節は説明しがたく思われた。・・・満洲の独立運動について「一九三一年九月以前、満洲内地ではまったく耳にもしなかった」と説明されていることである。」、「君主制の復古を歓迎するだろうと見る私たちの考えが正しいのなら・・・共和制が悲惨な失敗に終ったからである。(シナの)国民大衆が望んでいるのは、立派な政府である。」(第十六章)
「日本公使は、私本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域に到着することを何も知らなかった・・・私本人が熱心に懇願したからこそ、公使は皇帝を日本公使館内で手厚く保護することに同意したのである。・・・日本の「帝国主義」は「龍の飛翔」とは何の関係もなかったのである。」(第二十五章)、「皇帝が誘拐されて満洲に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。・・・皇帝は本人の自由意志で天津を去り満洲へ向ったのであり・・・皇帝は、シナの国民から拒絶され、追放された今、満洲の先祖が、シナと満洲の合一の際に持ってきた持参金の「正統な世襲財産」を再び取り戻したまでのことだ。」(終章)
大東亜戦争での日本の敗戦後、崩壊した満州国から日本への亡命の途次でソ連軍の捕虜となった皇帝は、東京裁判でソ連から言われた通りの偽証を繰り返し、「満州事変当時、溥儀が陸相南次郎大将に宛てた親書の中で、満洲国皇帝として復位し、龍座に座することを希望すると書いていたという事実を突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと言って撥ねつけたのだった」(訳者あとがき)。コミンテルンに支配された戦勝国によるリンチにしか過ぎない場で、偽証しなければ命の保障が無かったのだろうが、異民族との戦争に負けるということの意味を溥儀は日本人以上に痛切に捉えていたのかも知れない。
元帝国は漢民族にとっての異民族であるモンゴルが拡張してシナを征服・支配した王朝であり、大清国も異民族である満州(女真)族がシナを征服・支配した王朝であったが、現在ではそのモンゴルの一部と満洲は逆にシナの共産党独裁王朝(政権)によって征服・支配されているのである。
本書は満洲問題だけでなく、中国の近代史に関心を持つ方にとっては必読の書物であると思うが、内容も非常に興味深い。
溥儀には、自伝とされる“「わが半生―「満州国」皇帝の自伝」(ちくま文庫)<上>、<下>、小野 忍、新島 淳良、野原 四郎、丸山 昇共訳、筑摩書房、1992年12月発行、各¥1,260、¥1,050(税込み)”があるが、これは溥儀を戦犯として裁き、思想改造を強いた中国共産党(中華人民共和国)の下で発表されたものであり、参考にはなっても歴史資料としての価値はジョンストンの著書にははるかに及ばない。
映画「ラストエンペラー(The Last Emperor)」は皇帝・溥儀の人生をもとに製作した物語である。製作に中華人民共和国(共産中国)が参加していてさりげなく共産中国の主張(捏造)が盛り込まれていたり、脚色されたりしているが、同時にプロレタリアートという無知で無教養な愚者が武力で権力を握ったときの怖さ、中国共産党独裁政権の恐怖がにじみ出ているのも皮肉な話である。