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「嘘だらけの日中近現代史」倉山満著、扶桑社、2013年6月発行、¥760+税
著者は1973年、香川県生まれの憲政史研究者。1996年、中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程を修了。国士舘大学で日本国憲法を教えている。
”中国に「近代」などありません。あるのは、独裁の古代と殺戮の中世だけです。中国大陸では古代と中世が繰り返されてきただけで、中国はいまだに近代国家ではないのです。その意味で、模範的近代国家である日本とはまるで異質の国です。・・・中国はいかなる意味でも「近代」国家ではありません。・・・「中国」という名前が嘘です。せいぜい「中華人民共和国の略称」くらいの意味しかありません。・・・たかだか建国六十年です。・・・中国を理解する三つの法則を覚えてください。一、力がすべて、二、陰謀でごまかす、三、かわいそうな人たち つまり、ただひたすら殺伐としているのが中国なのです。徹頭徹尾、暴力や金銭、あるいは社会的立場など、自分と相手のどちらが強いかだけを計算して行動します。この点で、世界一の冷徹さを持つ民族です。日本人など到底、及びもつきません。弱肉強食、万人の万人に対する闘争こそが中国大陸の本質です。・・・悪知恵という点においても、日本人は中国人に比べると、大人と子供、いや赤ん坊くらいの差があるでしょう。・・・あらゆるきれいごとと言い訳を並べ、強い相手を騙します。命乞いをして時間を稼ぎ、自分のほうが強くなったら、隙をついて裏切ります。相手を怖いと思ったらつぶす、利用価値があると思ったら飼い慣らす。恐ろしく殺伐とした世界です。”(はじめにより)。
”中国史のパターンを図式化してみましょう。一、新王朝、成立->二、功臣の粛清->三、対外侵略戦争->四、漢字の一斉改変と改竄歴史書の作成->五、閨閥、宦官、官僚など皇帝側近の跳梁->六、秘密結社の乱立と農民反乱の全国化->七、地方軍閥の中央侵入->八、一へ戻る 基本的にこのパターンを数千年間繰り返して今に至っています。・・・中国の政治は閨閥・宦官・官僚らの派閥抗争と対立のうえに皇帝が君臨して均衡が保たれるのです。こんな体制は長くは安定しません。・・・中国には「政治的言動は即死刑」という伝統がありますから、一般庶民は政治のことに関心を持ちませんが、もはや最低限度の生活が維持できないと悟るや武器を持って立ち上がります。”(第一章より)
これ以上内容の解説はいたしませんが、満洲への莫大な投資を騙し取られ、現在の中国への投資を台無しにされても、なお、「中国は十数億人の市場」とか「日本経済は中国に依存している」などと念仏のように唱え続ける中共の代理人のような日本のメディア関係者や産業人、国家の指導層の人たちにぜひ読んでいただきたい書物です。
長年にわたって支那の属国であった朝鮮半島も似たようなものです。
著者には「嘘だらけの日米近現代史」扶桑社、2012年9月発行、¥760+税もあります。
「シナ大陸の真相1931~1938」K・カール・カワカミ著、福井雄三訳、展転社、2001年1月発行、¥2,800(+税)
著者(河上清)は明治6年、米沢生まれ(~昭和24年)。明治34年にアメリカへ渡り、国際問題の評論家としてアングロ・サクソン社会で活躍した。詳細な評伝は「嵐に書く」(古森義久著、毎日新聞社、昭和62年)参照。本書の原著は「Japan in China」というタイトルで、1938年(昭和12年)3月にロンドンのジョン・マレイ社から出版された。本訳書には、著者をブレーンとして迎えていた当時の斉藤博駐米大使の講演録も掲載されている。
本書は、満州事変前夜から日支事変勃発後まで(1931~1938)の支那大陸の状況を描いたものである。当時の支那の混乱した状況や、ソ連の共産主義の浸透、腐敗した支那の実情、国際法や国際条約を無視する支那の政府や軍閥など、経済進出した日本が国民の生命と権利を守るために苦闘させられた状況が細部に亘って詳細に描かれています。現在の日中関係や中国とのビジネスに関心のある方には、是非とも一読していただきたい書物です。時代が変わっても、中国人が変わったわけではありません。日本は中国に生産拠点を持つべきではないと筆者は考えています。以下、印象的な記述をいくつか紹介しておきます。
「1917年のロシア革命以来・・・中国の崩壊と動乱を狙って彼の同志達がこの十七年間何をしてきたか・・・ソ連の提供した資金がいかに多くの中国の政治家や軍国主義者を買収してきたか、いかに中国各地の士官学校に財政援助し各地の軍閥に軍事援助をしてきたか、いかに排外暴動(とりわけ英国と日本に対する)が、直接クレムリンから派遣されている無数の工作員によって中国人の間で扇動されてきたか・・・具体的で明白な証拠に基づいて答える」、「革命政権が成立した初期の段階においてモスクワ政府が「アジア迂回」政策・・を採択した・・・まず最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒できると想定されたのである」(第一章)。
「一九二七年三月・・蒋介石は・・共産党員たちを・・追い出した」、「モスクワは中国の各地で様々の騒乱を休みなく誘発し続けた」、「(一九三六年十二月には西安事件)彼らは自分たちの共産主義をカモフラージュする目的で、「日本打倒」と「日本に対する戦争」を自分たちのスローガンにしていた。・・・張学良はモスクワの道具だった」(第二章)。
「もし蒋介石が明晰な見通しを持っていたならば、共産主義の脅威に対して日中が共同して事に当ろうという日本の度重なる申し入れを彼は受け入れていただろう。・・・彼の視野の狭さ、反日運動に見られる彼の陰にこもった勇気、共産軍を日本に対する盾に利用しようとする彼の隠れた野望、これら全てが回復不能の災厄とも思えるものを彼の身に降りかからせたのである」(第三章)。
「それ(註:共産主義)は何処でも民主主義を破壊し、平和をかき乱す。それは不幸にも隣り合っている国々に独裁と軍国主義を生じさせる。・・・否応なしに自国の防衛を決意せねばならぬからである」(第四章)。
「中国は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしているまさにその時に、日本と結んだ条約を全面的に侵害するという手段に訴えてきたのである。次に掲げるのはこの期間に侵害された日中協定の一部のリストである。・・・その全ての結末が一九三一年九月の満洲大事変であり、満州国という新生国家の出現をもたらした」(第五章)。
「「青シャツ隊」は最も冷酷なテロリストのやり方(註:日本人などへの残虐行為)を用いている。・・C・C・部隊(註:作家と弁士が大半)は青シャツ隊と密接につながっている。・・そのほとんど全てが反日宣伝活動の推進に捧げられている。・・・中国は日本と協力する代りに共産主義と手を結んだ」(第六章)。
「(一九三七年七月七日)夜一一時四〇分、これらの日本兵は二九路軍第三七師の中国軍部隊によって銃撃された(註:盧溝橋事件)。・・・九日、中国二九路軍の代表責任者と日本軍の松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。・・・中国は戦争を熱望していた」(第七章)。
「いかなる妥協的なやり方もいかなる生ぬるい手段もただ単に中国軍の凶暴さを助長するだけであろう」(第八章)。
「中国人は武力に対しては常に屈するが理屈には決して従わない国民だ」(イギリスのエルギン卿)、「中国政府は武力及びそれを行使しようという意志の存在する場合に限ってのみ正義を認める」(アメリカ高等弁務官、ハンフリー・マーシャル)、「中国人は自分がトップに立って誰か他の者を押さえつけているか、または自分より強い者の前で屈辱を受けて恐れおののいているか、のどちらかでなければ満足出来ない。対等の基盤に立って誰かと公平に公正につき合うことに中国人は決して満足出来ないのだ」(アメリカ人作家、ロドニー・ギルバート)(第九章)。
「日本は進歩的で進取の気性に富んだエネルギッシュな国である。日本国民をその小さな島国に永久に閉じこめておくことは出来ない。・・・この日本の自然な勢いでの拡張運動が生じた場合、西洋列強諸国とりわけアメリカ、イギリス、フランス、この三つの最も富裕な国のとるべき態度は妨害と敵対であってはならず、逆に援助と心からの協力でなければならない。・・・そのような日本の進出は本質的に経済的な性質のものであって、軍事的な侵略を意味するものではないからである。それが軍事的な色合いを帯びてくるのは、そのような日本の進出が塞がれてしまった時だけである。・・・日本を援助する政策は最終的に、日本を妨害する政策よりもはるかに安い出費ですむだろう。それどころか逆にそれは彼らの利益になりさえするかも知れない」(トーマス・エジソン、1922年12月のアメリカのジャーナリストとの対談での発言)(第十章)。
「何世紀にもわたって公然の「搾取」制度が中国に害毒を流し続けてきた。中国の表社会では搾取は様々の形をとって行われているが、最も普通に行われているのは賄賂と、徴収した税金の横領である。・・・日本では公金横領は非常に珍しい例外中の例外である。それに対して中国では公金横領は一つの確立した、そして良く組織された産業にまでなっている」、「真の経済的「門戸開放」とは、立派な政府の下で法と秩序が行き渡っている国においてのみ可能なのである」、「内部分裂と内戦は中国の政治的軍事的状態及びその国民性に固有のものなのである」(第十一章)。
「敵を最も邪悪な姿で表現する写真の偽造は、(第一次)世界大戦中に一大産業となった。・・・中国に関する最も興味深い事柄の一つは、世界的規模の組織を持つある特定の報道会社に南京政府がニュースを提供するそのやり方である。・・・一九二九年ころ・・国民党外務省の宣伝広報局は上記の報道会社と協定を結んだ。・・報酬として、宣伝広報局はこの報道会社に毎年かなりの金額のお金を支払うことになっていた」。「次の戦争では宣伝は、先の(第一次)世界大戦がなし得た最上のやり方よりもつと微妙で巧妙なやり方になるに違いない」(バージニア州リッチモンドのタイムス特電、一九二五年一二月六日付)(第十二章)。