著者は1923年生まれの韓国人。中央大学、東国大学経営大学院教授などを経て、加耶大学客員教授。筆者は著者の古代史に関する朝鮮半島と日本の関係についての理解に全面的な同意はしないが、朝鮮半島の真実の歴史を簡潔に理解するのに適当な書物である。韓国の学者が朝鮮半島史の真実を直視して描いていることに意義がある。同時に、共産主義政権とでもいうべきアメリカのルーズヴェルト・トルーマン政権が、日本を去勢するために押し付けた日本国憲法を天与の聖典視して、国防をアメリカまかせにしている現代の日本人に対する警告の書ともなっている。ソ連が崩壊した後もなお共産主義思想(と戦勝国)が撒き散らした日本を貶めるためのウソ(政治的プロパガンダ)がアジアを始め広く世界に拡がっており、政治的にアジアから共産主義勢力を一掃することこそが、平和な生活を希求するアジア近隣諸国民に対する日本の責務である。国防を外国に依存しても、外国には外国の事情があり、いざとなれば寄合所帯の国連など何の役にも立たない。日本は一日も早く憲法を改正し、自国を護れるだけの正規軍を整備すべきです。国防をシナの王朝に依存し、腐敗を極め、ついには滅亡せざるを得なかった李氏朝鮮の轍を踏んではならない。現代においてこそ、日本には新たな富国強兵政策が必要とされているのである。
「韓民族は、李成桂が李朝を開いた一三九二年以降、一九一〇年まで五一八年間に及んだ暗黒時代を通じて、両班が党派を組んで空理空論を戦わせ、血で血をもって争うのが、政治だと錯覚するようになった。」、「李氏朝鮮は、安定した社会をつくるために必要な継続性がなかった。政治とは党派を組んで、相手を蹴落とすことでしかなかった。・・・このような環境のもとでは、公共精神が育ちようがなかった。法が軽んじられ、勝つことが正義となった。」、「壬辰倭乱は晩年の秀吉が、明を征服しようという誇大妄想的な夢を描いたことから起こった・・・一五九一年六月に、対馬藩主の宗義智がソウルにやってきて、はじめて「仮道入明」を正式に請うた。・・・だが、李朝は明を宗主国として仰いで慕っていたから、もとからこのような要請を受け入れるはずがなかった。・・・戦闘が始まった。日本軍は快速をもって進撃し、釜山浦に上陸した二〇日後に、ソウルを占領した。・・・朝鮮は、正規軍を持っていなかった。つまり、まったく無防備状態にあった。・・・宗主国である明に、急いで救援を請願するだけだった。明に防衛をすべて委ねていて、他力本願の属国根性しか持っていなかったからである。」、「今日の日本が、アメリカ文化を競うようにして模倣して恥じることなく、アメリカに国家の安全と未来をすべて託しているのを見ると、李氏朝鮮の中国に対する事大主義を想起せざるをえない。」、「日本の皇室が神話から生まれ出て、ひたすら神事に没頭する無私な神官の一家であって・・そのような伝統を持つ皇室を戴いてきた日本民族は、幸せである。日本の皇室は明治から昭和二十(一九四五)年まで、西洋を模倣した一時期を除けば、王室よりも修道院に似ていた。日本も・・天皇家がなくなれば、李氏朝鮮と同じようになる可能性が高い。・・・天皇家は日本人にとって、安全弁のようなものだろう。」、「五一八年間続いた李氏朝鮮も、北朝鮮のこれまでの歴史も、中国の悠久の歴史も、残酷きわまる流血の歴史である。百姓を奴隷の境遇に転落させ、文字どおり限りない収奪と、大量の餓死が繰り返された。」、「李朝は倒れるべくして、倒れた。李氏朝鮮は儒教の朱子学を国教として定めながら、美辞麗句を弄ぶ裏で、私利私欲に駆られた党派抗争に耽って、汚れきっていた。おぞましい階級制度によって、民衆をほしいままに苦しめて、収奪した。李氏朝鮮は今日の北朝鮮とまったく変わらず、人民には餓死するか、公開処刑によって死ぬか、強制収容所に入る自由しかなかった。・・・李氏朝鮮は骨の髄まで腐りきっていた。そこで人民の解放は、韓日併合という他力本願のものとならざるをえなかったのである。」(本文より)
ちなみに、高麗王朝を裏切って李氏朝鮮を開いた李成桂は韓族ではなく、女真族(満洲族)との有力な説がある。李氏朝鮮後期の内情を知るうえでは、有名な「朝鮮紀行~英国夫人の見た李朝末期」(イザベラ・バード著、時岡敬子訳、講談社、1998年8月発行、¥1,733[税込み]:1894年~1897年にかけて著者が朝鮮を旅行したときの記録。日清戦争前後の激動の時代です)以外にも、以下の書物がある。
・「朝鮮幽囚記」ヘンドリック・ハメル著、生田滋 訳、平凡社、1969年2月発行、¥2,100(税込み):江戸時代に長崎へ向っていたオランダ商船が東シナ海で遭難、乗組員(三十数名)が朝鮮に幽囚の身となったときの李氏朝鮮を書き残している記録。
・「朝鮮旅行記」ガリーナ・ダヴィドヴナ チャガイ著、井上紘一 訳、平凡社、1992年3月発行、¥2,940(税込み):1880~90年代、複数のロシア人が朝鮮を旅行したときの記録。