「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯 久美子著、新潮文庫、2008年7月発行、¥500(税込み)

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著者は1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て、現在、文筆業。本書は日米戦争の歴史に深く刻み込まれることになった硫黄島の戦いと、現地で日本軍の総指揮官として戦った栗林忠道陸軍中将についてのノンフィクションである。
「栗林が着任したとき(註:昭和19年6月)島には1000人ほどの住民がおり、・・貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。・・・栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。・・・島民の内地送還は七月三日から始まり、一四日までに完了した」(第二章より)
「(栗林中将が将兵に与えた)「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「負けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。・・・死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる「バンザイ突撃」を栗林は厳しく禁じた。それを将兵たちは忠実に守った。・・・すべては、内地で暮らす普通の人々の命をひとつでも多く救うためだった」(第三章より)
「栗林が立案した作戦の内容は・・“持久戦”と“水際放棄・後退配備”であった。栗林の判断は、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば当然行き着く結論だった。しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。・・・反対したのは海軍だけではなかった。硫黄島の陸軍幹部からも強い反対意見が出たのである。しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。・・・栗林は一九四四(昭和十九)年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将校の更迭を行っている」(第三章、第四章より)
「周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三六日間にわたって持ちこたえた。・・・日本軍約二万に対し、上陸してきた米軍は約六万。しかも後方には一〇万ともいわれる支援部隊がいた」(プロローグより)
「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。・・・米軍側の死傷者数二万八六八六名に対し、日本軍側は二万一一五二名。戦死者だけを見れば、米軍六八二一名、日本軍二万一二九名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである」(第一章より)
「先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである」(第四章より)
他書の感想にも記したことだが、はからずも本書でも、合理的に判断し、職人的に優秀な現場と、現場を知らず、あるいは知ろうともせず、科学的・合理的判断力の欠如した大本営を初めとする愚昧な国家指導層とが対照的にあぶり出されている。しかもその無能な指導層は、あろうことか栗林中将の訣別電報の内容を改ざんして新聞に発表していた。本書のタイトルになっている「散るぞ悲しき」というのは、その訣別電報の最後に添えられていた辞世の一首「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から採られている(新聞発表では、「散るぞ口惜し」)。本書の解説を書いた柳田邦男は、「栗林中将が二万の犠牲を無駄にしないために、率直に失敗の要因(註:中央の陸軍と海軍の対立による一貫性を欠いた防備方針や、戦争指導者たちのその場しのぎの弥縫策など)を戦訓として報告しても、何の都合があってか、いまだにその指摘は公には伏せられてしまうのだ。今に至るも日本の省庁のタテ割り行政と権益争いが改善されないのは、国民が血を流しても、その歴史の教訓を学ぼうとしないこの国のリーダーたちの心の貧困を示すもので、いまさらながら愕然とする」と書いている。政治家も官僚も、マスコミも学者も評論家も、今なお“文系支配”で、物事を事実に基づいて科学的・合理的に判断するという思考態度に欠ける人たちがこの国を動かしている。
あの戦争は戦う前から、国家の統治システムの優劣において、日本はアメリカに負けていた。明治維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力が政治権力を独占するために天皇制を利用した明治憲法(大日本帝国憲法)は、イギリス式の立憲君主制度(国王は君臨すれども統治せず)でもなく、さりとて天皇独裁でもない、政治責任の所在を極めてあいまいにできる中途半端な憲法であった。しかも憲法改正の発案権の問題や日本古来の天皇制の呪縛により、時代の変化に追随して改定することも出来ない文字通り不磨の大典と化してしまっていた。それはすべてを選挙で決し、責任の所在が明確で、合理的に国家を経営していく歴史を重ねてきていたアメリカの政治システムとは比ぶべくもなかった。日本は、あの戦争でアメリカと戦うことになった時点ですでに負けていたと言って良い。天皇の政治的権限こそ無くなったとはいえ、それは戦後の現代においても必ずしも十全に改善されているとは言えず、たとえ政権が交代しても、国家官僚組織の上層部が身分制度化していてほとんど変化が起こらない。このままいけば、いつかまた日本はあの戦争と類似の失敗を繰り返すことは目に見えている。民主主義制度である以上、政治のリーダーは国民が直接、選挙で選出すべきだし、国家官僚組織の上層部は身分制度ではなく任期制など、より人材の流動化を図れる工夫を加えて、選挙民の総意を国家運営により反映できるより機能的なシステムに改めるべきである。評論家や学者の中には民主主義を衆愚政治だと言って批判する愚者もいるが、三人寄れば文殊の知恵で、少なくとも単愚政治(独裁)よりは優れている。民主主義は、人類がこれまでに発明してきた政治システムの中で、構成員全体の総意を表現するのに最も適したシステムと言って過言ではない。
「二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある日、(栗林の妻)義井は夢を見た。死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目が覚めた。夢とわかってからも、義井の心は温かかった。夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。硫黄島を含む小笠原諸島が二三年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたらされたのは、それから間もなくのことである」(エピローグより)。類似のエピソードは惠隆之介もその著書「敵兵を救助せよ!」(草思社)の中で紹介しているし、筆者自身も数回体験したことがある。人間の魂は肉体が滅んでも消滅するものではなく、死者の魂は間違いなく別の世界で生きている。
本書は第37回大宅賞受賞作品であるが、その選評の一つに「きわめて文学性の高い傑作である」(藤原作弥)との言がある。柳田邦男は「過不足のない見事な構成と文脈だと感嘆した」と記している。読めば分かるが、心に響く達意の文章である。惠隆之介が「敵兵を救助せよ!」の「あとがき」に、「この物語が戦後、なぜわが国で書かれなかったのか疑問に思った」と記しているが、これらの著書を読んでみると、史実というものはどうもその内容にふさわしい書き手が現れるまでは、真実の姿を世に現さないように見える。ちなみに、本書は世界7カ国(米・英・韓・伊など)で翻訳出版されている。

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