「評伝 廣瀬武夫」 安本寿久著、扶桑社、2010年12月発行、¥1,680(税込み)

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著者は1958年生まれ。1981年産経新聞社入社、産経新聞編集長。
本書は戦前、軍神と言われた廣瀬武夫の伝記である。廣瀬は明治維新の年(1868年5月)に生まれ、黎明期の日本海軍の軍人(海軍兵学校15期生)となり、日露戦争に出征。旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊主力部隊の活動を封じるため行われた旅順港口閉塞作戦で命を落とした。享年36、満35歳と10ヶ月であった。
廣瀬武夫は、明治元年、瀧廉太郎の“荒城の月”で知られる大分県竹田市(豊後、岡藩)で武家の次男として生まれた。尊王運動に奔走した父、重武が明治政府の役人として出仕し、遠隔地に単身赴任をしていたことに加え6歳で生母を失ったため、典型的な武士の妻であった祖母(智満子)に育てられた。長じて海軍士官となり、三国干渉後のロシアへ留学。日露戦争開戦前夜の国際関係のもと、親交を持ったロシア海軍コワリスキー大佐の娘、アリアズナとの恋は成就しなかった。廣瀬の死後、その死を聞かされたアリアズナは、その後、洋服の胸に喪章を着け、生涯外さなかったと言われている(註:日露戦争後のロシアの混乱もあり、アリアズナのその後を正確に知る記録は発見されていない)。明治35年初頭、酷寒のシベリア・満州経由で帰国した廣瀬は、日露戦争開戦後の旅順港口閉塞作戦に指揮官として参加し、第一次作戦で廣瀬が指揮した艦は成功。第二次作戦時、ロシア軍の砲撃で行方不明となった自ら選んだ指揮官付、杉野孫七一等兵曹を探しに三度船内へ戻り、それでも発見できずあきらめてカッターで帰還の途中、ロシア軍の直撃弾を後頭部に受け戦死(明治37年3月27日)。カッター上から吹き飛ばされた廣瀬の遺体は、数日後、旅順港口の海岸に漂着した遺体と推定されている。その服装から日本海軍の士官と考えられた遺体を、ロシア側は手厚く葬ったという。
当時の日本は国運を賭けた戦争で大国ロシアに勝利するため総力戦を戦い、明石元二郎陸軍大佐(後年、第七代台湾総督)らはヨーロッパやロシア、満州で組織的な諜報活動を行ってロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの継戦を困難にしたと言われている。ロシアについて著者は、「ロシア人ほど情に厚い国民は少ないという。しかし、国としてのロシアほど強欲で狡猾な国も少ないというのが、当時の欧州での評価である」と書いている。個人としての人間は、どこの国にも善人もいれば悪人もいて、その比率も大差ないように思われるが、集団になると大きな差が現れてくるのは一体何なのだろうか。歴史であったり、風土であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりと、さまざまな要因は考えられるが、まことに不思議なことである。日本はともかく日露戦争に勝利したものの、その後もロシアの南下(侵略)政策やロシアがソ連となった後の共産主義運動など、北からの脅威に悩まされ続けることになる。
日露戦争を戦うのに日本は一体どれくらいの戦費を必要としたのか。当時の一般会計の歳入の7年間分ほどだとされている。この巨額の戦費を調達するため日本は外債を発行したのだが、勝ち目が薄いと見られていた日本の外債は当初、引き受け手が現れず、時の日銀副総裁、高橋是清は非常に苦心した。その窮地を救ってくれたのは日英同盟を結んでいたイギリスの銀行家たちであり、さらにはロンドン滞在中に知遇を得たアメリカのユダヤ人銀行家ヤコブ・シフを通してのニューヨーク金融街であった。日英同盟は日露戦争開戦の2年前(明治35年)、シナの義和団事件の処理で活躍した日本軍の優秀さと規律正しさを評価したイギリスが、シナに持っている自国の権益を守るため“光栄ある孤立”を捨ててまで日本と結んだ対等の軍事協約である。その大量の外債を引き受けたアメリカのユダヤ系金融業の一人、シフの盟友である鉄道王ハリマンが、日露戦争講和後、南満州鉄道の共同経営を日本政府へ申入れ、桂太郎首相との間で取り交わした「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を、講和条約締結後に帰国した小村寿太郎外相や日露戦争の計画者であり実行部隊でもあった児玉源太郎陸軍大将などの反対で一方的に日本から断ったのが、その後のアメリカにおける排日運動の端緒となった。もしこのとき、日本がハリマンの申入れを受入れ、南満州鉄道の共同経営に踏み切っていたら、その後の日米関係も世界情勢もまったく様相を異にしていたであろうことは想像に難くない。明らかにこれは日本側の政治的失態であったと言わざるを得ない。もちろん、アメリカのユダヤ人金融業者たちは自分たちの利益のために日本の外債を引き受けたのであり、当時の日本の国情もあった。それでもなお筆者が失態と考えるのは、当時の国際情勢を冷徹に判断できなかった感情民族の欠点という意味だけではなく、日本人自身の信用を失墜させる忘恩の行為だと考えるからである。軍人がいくら優秀で勇敢であっても、金がなければ戦争は遂行できない。たとえアメリカのシナ大陸進出の野心が透けて見えていたとしても、日本はやはり窮地に支援してくれたアメリカには応えるべきであったと思う。それは国家として、また人間としての信義の問題である。
廣瀬武夫の葬儀は兄、勝比古(海軍軍人)の娘(馨子)が喪主となって行われた(海軍葬)。大正元年には「廣瀬中佐」という有名な文部省唱歌が作られ、昭和十年には郷里の竹田に廣瀬神社が創建された。明治期、海軍で軍神と呼ばれたのは廣瀬の外、佐久間勉大尉(潜水艇の事故で死亡した艇長)と東郷平八郎大将(連合艦隊司令長官)である。海軍の東郷平八郎には東郷神社が、陸軍の乃木希典には乃木神社が建立されている。
日露戦争における乃木将軍(陸軍)や上村将軍(海軍)が示した明治時代の武士道について、武士本来の道とは違うものだと著者は言う。「そもそも武家とは・・一所懸命で所領を守り、それを子孫に継がせるために戦に出るものである。・・・我欲のために生きるのが武士というものだ」(第6章より)。明治時代の武士道は、それとは異なる新しい無私の人格、つまりは死を前提とした戦いに身を置く軍人同士の共感に基づく、すぐれた人格に裏打ちされた指導者としての覚悟(noblesse oblige)とヒューマニズム(思いやり)がその本質だったのではないか。明治時代に「武士道」を世界に紹介した有名な書として、新渡戸稲造(1862年9月~1933年10月。盛岡藩士の三男、妻はアメリカ人)の“Bushido The Soul of Japan”(1900年発行、1905年に増訂版)がある。日本語訳は複数出版されているが、比較的新しい訳書に“「武士道」奈良本辰也訳・解説、三笠書房(文庫)、1993年1月発行、¥520(税込み)”がある。

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