著者は1952年、中国四川省生まれ。ロンドン大学東洋アフリカ研究所勤務。訳者は1956年愛知県生まれの翻訳家(東京大学教養学部卒業)。
本書は歴史の研究書ではない。中国共産党幹部の家庭に生まれた著者が、現代中国を生きた祖母・母・本人の三代にわたっての苦難の歴史を描いたノンフィクションである。時代は清朝滅亡前夜から天安門事件に至るまで、地理的には満州から四川省の奥地にまで及んでいる。訳者は、「『鴻(ワイルド・スワン)』は、中国という現実を舞台に、中国民族を主役にして、驚くべき真実と人間の本質をみごとに描ききった。・・・『大地』(註:パールバック女史の小説)を超えたと言っていいのではないだろうか。」と述べている(“訳者あとがき”)。ただし、基本的には家族史であるため、時折添え物のように出てくる満州国や日中戦争、中国によるチベット侵略などについては、検証なしに中国共産党の公式見解を述べているだけである。著者の一家は毛沢東による文化大革命により翻弄され、現在も親族が共産主義中国に暮らしているため、毛沢東と文化大革命が中国に災厄をもたらしたということは強調されているが、それが共産主義というイデオロギーによる革命独裁政権の持つ本質から発している点についてはあまり触れられていない。共産主義中国は共産党という私的な一武装集団が乗っとり支配している地域のことを言い、国家そのものはその下に従属させられている。共に武力革命ではあっても、中国の共産主義革命が日本の明治維新と異なるのは、①プロレタリア独裁(共産主義)という誤ったイデオロギーに拠っているため、新体制下での出身階層による差別が異常、②旧体制の破壊に能力を発揮した主力メンバーが革命後の国家建設の時期まで生き残った、③漢民族の国土を越えて広大な領域を武力によって保持しようとした、④国民の教育レベルが異なった、など、さまざまな要素がある。そもそもプロレタリア独裁が国家・社会をよりよくするという理屈ほど筋の通らないものはない。プロレタリアというのは、資本(経済力)もない、特別の才能もない、知識も教養もないから、プロレタリアなのだ。そうした、言わば無知で無能で貧乏な人たちが社会の支配権を独占すれば、その社会は必然的に無知で無能で貧乏な社会にならざるを得ない。人間が他の動物と異なる最大の武器は、知識と智恵であることは明らかだ。建設機械を考えてみれば良い。土木工事を建設機械のない人海戦術で行うのと、建設機械を駆使して行う差は歴然だ。その建設機械を作り出す力は、自由な思考を基にした人間の知識と智恵なのだ。プロレタリアとは対極の位置にいる人間の知識と智恵こそが、国家・社会をよりよく、より豊にするのが真実である。プロレタリア独裁を主張する共産主義は、人類史上初めての愚者の集団的反乱だと言ってよい。だからこそ共産主義は、文化的に遅れ、福祉(共生の)思想の欠如した、経済的にも未発達な地域に広がっていったのです。悲惨なプロレタリアを救いたいという人道主義は、社会全体の協力(福祉)と教育とで実現する以外に有効な方法は無い。民主的な方法ではなく、武力で得た権力の独裁が毛沢東やスターリンを生むのは特に不思議なことではない。独裁の究極の姿は一人が全体を支配することだからだ。宗教で言えば一神教が独裁だ。旧約聖書を読めばそのことは明らかだ。ヤハウェ(GOD、神)はやりたい放題。旧約聖書はヤハウェによる虐殺と虐殺教唆のオンパレードである。ヤハウェは創造神で唯一神だといいながら、人間を創造するときなど「(複数の)我々の姿に似せて」と言っている。ヤハウェによって創造されたアダムとイヴの子孫が続いていくとき、アダムとイヴの子孫以外の人間が存在したとしか考えられない物語になっている。支離滅裂としか言いようがない。ヤハウェは結局、やりたい放題をやっただけだとしか考えられない。共産主義はそうした一神教から派生した鬼っ子と考えれば分かり易い。共生を必要とする人間社会に、このような“神”はいらない。こうした“神”は人間社会にただ禍をもたらすだけの存在である。
ともあれ、本書は家族史であり、家族史を通して現代中国の真実を描いたすぐれた文学作品と言って良い。悲惨な内容を描きながらも、(訳文も含めて)文章はバランスが取れていてとても美しい。
著者には他にも、毛沢東に関する著作“「マオ-誰も知らなかった毛沢東」(上)(下)、土屋京子訳、講談社、2005年11月発行”がある。
文化大革命を中心に、共産党一党独裁の中華人民共和国成立以降の毛沢東の中国(中国共産党内部指導層の権力闘争)を描いた研究書に、「毛沢東秘録<上><下>」(産経新聞「毛沢東秘録取材班」著、産経新聞ニュースサービス、および扶桑社文庫、1999年および2001年)がある。
「毛沢東と中国(上)(下)」(銭理群著、青土社)は、毛沢東と同時代を生き抜いた一知識人による中華人民共和国史である。