「昭和の大戦と東京裁判の時代」若狭和朋著、ワック、2013年2月発行、¥1,400(+税)


著者は1942年、福岡市生まれの歴史家。九州大学法学部卒業。通産省入省後、身内の不幸に遭い、禅宗の修行僧となる。その後、公立高校の教師を勤め、定年を迎えている。本書は、2007年と2009年に出版された著書の改訂・新版です。
本書の内容は、「東京裁判」とその現代までの影響を中心に書かれたもので、まだあまり日本人に広くは知られていない内容が含まれており、一読の価値があります。以下、それらのいくつかを紹介しておきます。
①東京裁判の判決の後、弁護団がアメリカ連邦最高裁判所へ再審請求を申し立てたとき、再審却下理由としてW.O.ダグラス裁判官が言った言葉。「東京裁判は政治的復讐的軍事行為と言うべきであり、そもそもが司法的な裁判ではないのだから司法的な再審請求は成立しない」(pp.127)。つまり、アメリカ自身が東京裁判は裁判ではなく、リンチ(あるいは戦闘行為)だと言っているのです。昭和27年4月28日の講和条約発効までは、国際法的には戦争状態が継続していたということです。
②「東京裁判」で処刑された(戦死した)東條英機ら7名の遺骨(墓)。処刑された7名の遺骨は太平洋に遺棄されたと言われているが、実際は日本人関係者の献身的な努力で遺骨の一部が奪還されて日本国内の三箇所に分骨され、墓碑が建立されている。静岡県熱海市伊豆山の興亜観音の観音堂、愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山山頂(殉国七士墓)、および長野県某所(私有地内)である(pp.111~112)。
③東條英機の遺言。教誨師であった花山信勝がメモしたものの骨子は以下の通り(pp.114~115)。
・敗戦の国内的責任は満足して刑死に就くが、国際的責任は無罪を主張する。たまたま力の前に屈服したものである。
・東亜民族にも生存権はある。今回の戦争でその主張を達したものと思っている。
・米国に対し、赤化(共産化)せしめざることを頼む。今次大戦で米英側は大きな失敗を犯した。1)日本という赤化の防壁を破壊した、2)満州を赤化の根拠地にしてしまった、3)朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。
・日本軍人の一部の誤った行為は衷心謝罪する。しかし、無差別爆撃や原爆投下は米軍側も悔悟あるべきである。
・統帥権独立の思想は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。
註:昭和27年(1952年)に発効されたサンフランシスコ講和条約第11条に則り、全国で戦犯釈放運動が広まって当時の成人のほとんどといってもよいくらいの4000万人(当時の日本の人口は8454万人)もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された。
そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放された。
このような赦免運動・決議の結果、すでに処刑されていた【戦犯】は「法務死」とされた。だからこそ戦犯とされていた人々も靖国神社に合祀されたのである。
●1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
●1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
●1953年(昭和28年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
●1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
④日本は大東亜戦争に至るまでの情報・外交戦で破れていた。開戦直前の1941年12月5日、『シカゴ・デイリー・トリビューン』紙が「ルーズベルトの戦争計画が発覚」と一面全紙を使って「ルーズベルトの戦争計画」を報じ、大統領を「ウォー・モンガー」(戦争屋)とののしって一大キャンペーンを張った。アメリカ世論の大多数が戦争反対であった当時、日本はアメリカ国民に直接、ハルノートを公開して訴えるべきであったが、日本の外務省は何もしなかった。石油が全面禁輸になった同年8月の時点でも何もしなかった(pp.133~135)。いわば外務省が日本を戦争に導き、海軍が敗戦を招いたというのが歴史の真実です。
⑤吉田茂の姑息な奸智。開戦の通告が遅れた当時者であるワシントン日本大使館員たちを処罰せず、外務省へ呼び戻して後に外務次官に登用した(pp.51)。
⑥日露戦争以前の満州の主権の大部分はロシアが清国から買収していた。日露戦争後、ロシアは満州から撤退し、暗黙のうちに日本の領土割譲・賠償金支払い要求に答えていたのだが、当時の日本はそれに気づかず、満州を清国へ返還した。当時の清国は露清密約を結んでいた(1896年)のにである(PP.97~98)。これが後の満州事変へとつながっていく要因となったのです。
⑦朝鮮を日本の保護領にすることを日本に要請したのは、ポーツマス講和会議の席でのアメリカ大統領(セオドア・ルーズベルト)であり、同年の第二次日英同盟締結時のイギリス全権であった(pp.28~29)。
⑧張作リン爆殺事件の犯人は関東軍ではないようだ。ソ連が犯人である資料がロシアから続出している。親日的であった張作リンを殺しても、日本には得られる利益がない。犯人とされている河本大作は昭和28年に中共の強制収用所で獄死しており、翌年「俺がやった」という「談話」が公表された(193~194)。
⑨大東亜戦争開戦時の日本の外務大臣、東郷茂徳の旧姓は「朴」である(pp.209)。
⑩小泉首相は、来日したブッシュ米国大統領からの連れ立つての靖国神社参拝の申し出を断っていた。2002年2月に来日したブッシュ大統領の申し出を外務省も官邸も首相自身も断り、明治神宮参拝にすり替えた。しかも小泉首相は車の中で待ち、大統領の単独参拝となった(pp.188)。日本国の首脳部は、アメリカが日本を戦争に引きずり込んだこと、国際法を無視した都市部への無差別爆撃や原爆の投下、多くの戦争犯罪人を仕立て上げてリンチのように虐殺したことなどを正式に日本国に謝罪しない限り、絶対にアメリカを許さないという意思表示だとでもいうのだろうか。それなら日本にもまだ救いがあるが、決してそうではあるまい。戦後の政府指導者は、自民党政権も含めてほとんどが赤(共産主義者)ではなくてもピンク(左翼勢力)だといって過言ではない。何と情けない指導者しか日本にはいないのかとつくづく思う。
著者には、日露戦争の時代を中心とした「日露戦争と世界史に登場した日本」、ワック、¥1,400+税 もある。

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