著者は米国の大学教授(歴史家)。訳者は1941年、東京都生れ(「史実を発信する会」事務局長)。本書は、軍事史に興味を持ち関連著書もある米国人である著者が、「日本は「太平洋戦争」の戦い方を誤った」ということを数多くの資料から解説・証明している試み。訳者は、英語圏の著者が採用することのできた資料の偏りから来る誤解を、一つ一つ丁寧に「訳者注」として訂正・解説している。
“そもそも大東亜戦争に対する日本の基本戦略は、東南アジアの資源地帯から米英蘭勢力を駆逐した後は、対米、すなわち太平洋は防御、攻勢の主方向は、インド洋と中国であった。開戦直前の昭和十六年十一月十五日の大本営政府連絡会議で採択された「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」にはこのことが明記されている。この基本戦略通りに戦ったならば、日本が負けることにはなりえなかったと思われる。・・・英を脱落させ、中を脱落させ、米をして戦争継続の意欲を喪失せしめる、という極めてまともな勝利を目指しているのである。”、“「戦力は根拠地から戦場への距離の二乗に反比例する」というよく知られた戦いの原則からすると、たとえアメリカが日本の十倍の戦力を持っていたと仮定しても、戦場の選び方によっては・・・日本は圧倒的に優位な戦力と化すのである”(訳者まえがきより)
その基本戦略に反する戦いを始めたのは、海軍の山本五十六連合艦隊司令長官であった。「真珠湾攻撃は海軍軍令部が猛反対したにもかかわらず、最後には、山本提督が作戦前夜に連合艦隊司令長官辞任の意向をちらつかせることによって自説を押し通した」(第1章より)。さらに山本提督と彼の参謀は、再び山本提督が連合艦隊司令長官を辞任する旨を表明することにより、初期の戦争計画に反するミッドウェーでの戦いを、海軍軍令部の猛反対を押し切って実行した。(第1章)
山本提督一派によるパフォーマンスのようにしか見えない戦い方だが、最初の真珠湾攻撃で意見の対立が生じたとき、山本提督を更迭するだけの力(それだけの人物)と覚悟が海軍上層部になかったということなのか。結果、日米戦争での日本の戦いは相手(米国)のリングで戦うことになり、惨憺たる負け戦になったことは史実が示す通りである。東京裁判で連合国が主張したような「戦争責任」は日本側にではなくむしろ米英中ソ側にあることは明らかだが、日本の戦争指導者には日本国民に対する「敗戦責任」がある。徴兵により悲惨な戦場に送られた多くの一般国民は、戦争の仕方を誤った指導層の犠牲者であったとしか言いようがない。筆者の田舎の隣保(隣組)は筆者の実家と四軒の小規模農家から成っているが、四軒の農家からはすべて当時の働き手が戦争に取られ、一人も帰って来なかった(筆者の実家のみ、年齢の関係で徴兵が来なかった)。かれらの立場で考えれば、戦争が終わり、農地改革による利益を与えてくれた米占領軍は、ある種の解放軍のように映ったとしても非難はできない。東京裁判史観がこの国から容易に払拭されない根底には、全国的にこうした史実が横たわっているのである。
著者は本書で、護送船団方式による輸送船団保護、潜水艦部隊による米国商船・補給船への攻撃、太平洋への陸軍投入のタイミングなど、一つ一つ詳細に日本軍の戦い方の失敗を分析しているが、その根本には「勝利病」を退け、帝国内部から外側へ向っての縦深的で効果的な国防圏を構築するという戦略が取れず、戦域を過剰拡大した戦略の失敗があったと指摘している。日本の勝利は「何もワシントンに日章旗を立てる」などということではなく、米の戦争継続の意欲を喪失せしめて和平に持ち込むことであったはずだが、現実は正反対の戦い方をしてしまった。何かその背後には目に見えない大きな力が作用していたとしか考えようがない。イギリスの生物学者であるチャールズ・ダーウィン(1809~1882)は、その著、「種の起源」で“適者生存”ということを説いているが、人間界においても短期的には「正しい者より強い者」が、長期的には「強い者より環境適応力に優れた者(適者)」が勝利する。日本の明治憲法下の政治体制は明治維新後70年近くを経て、すでに時代に合わないものとなっていたのである。現在の日本国憲法も制定後すでに60年以上を経過しているが、果たして日本人は今後、時代の変化に合わせて改正していくことができるだろうか。