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「東條英機 歴史の証言-東京裁判宣誓供述書を読みとく」渡部昇一著、祥伝社黄金文庫、2010年7月発行、¥840(税込み)
本書は東條英機がいわゆる東京裁判の法廷に提出した宣誓供述書に、著者、渡部昇一上智大学名誉教授が解説を加えたものである。
この宣誓供述書は、東條被告が開廷以来取り続けたメモ・ノートを基に、東條被告の担当であった清瀬一郎博士とアメリカ人弁護士ブルーエットを含めた三人が心血を注いで完成し、1947年12月26日の法廷に提出した正式の法廷記録である。同内容は法廷提出後間もなく出版されたが、占領軍の報道政策により「発禁第一号」に指定され、市場からその姿を消した。その後も占領軍は日本国内に厳しい言論統制を布き、次々と日本人の言論を封じていくが、その手法はまさに共産主義者や独裁者のやり口そのもので、その一事をもってしても、東京裁判が不当なリンチであり(東京裁判にはそもそも管轄権がなかった)、誰が日支事変や大東亜戦争の真の仕掛け人であり、戦争犯罪人であったかということが良く分かる。もし連合国(主としてアメリカ)側に正義があるのであれば、日本国内の言論の自由を保障し、すべての証拠資料を採用して正々堂々と振舞えば良かったはずである。
本宣誓供述書は、当事者として事情を知悉した東條英機が文字通り自己の“いのち”を賭けて供述した内容だけに、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)へ追い込まれていった当時の状況が生々しく読む者に迫ってくる。渡部名誉教授の解説も分りやすく、当時の歴史の真実を知るための最重要資料の一つであると言える。
第一次世界大戦(1914~1918年)後の不況に際して、増加する外国製品の輸入を抑えるため1929年(昭和四年)にアメリカの下院に上程されたホーリイ・スムート法に代表される保護主義のため世界の貿易量が激減し、1929年10月24日にはいわゆる「ブラックサーズデー」でアメリカの株式市場が暴落する。これが世界中に大不況を呼び、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連などの(工業資源を)”持てる国”がそれぞれに植民地を含む自己の勢力圏を囲い込み、ブロック経済を形成する。それは”持たざる国”は滅びろということを意味するのだが、当時の”持てる国”家群は人類全体を考えるという視点に欠けていた。アメリカから移民を拒否され、商品の購入には高関税をかけられ、窮した日本は天津の日本租界内に逃げ込んできた清国最後の皇帝、溥儀(満洲人)と協力して日本軍(関東軍)が背後についた満洲人の国家、満州国を建国する。満洲の地は歴史上、満洲人(女真族)の故地でシナ(中国)ではないのだが、清国の版図をすべて継承しようとする中華民国が主権を主張して満州国および日本と対立した。シナの反日運動が激化し、やがて共産主義者と結んだ中国国民党が対日戦争を仕掛け、日本政府の政策の不徹底もあって日中戦争はドロ沼化する。”持たざる国”ドイツがヨーロッパで戦争を始め、イギリスにまで空爆攻撃を開始すると、シナの蒋介石政権(国民党)を支援していたアメリカのルーズヴェルト政権はイギリス救援の目的もあり、アメリカ国内の孤立主義を廃して戦争に参加するため、対日戦争を画策する。その結果、くず鉄、石油などの対日輸出を禁止し、日本の資産を凍結した。イギリス・オランダも同様の措置に出て、日本を経済封鎖する。それは宣戦布告を意味する行為なのだが、かくして工業原料や軍需物資の自己調達の必要に迫られた日本にとっての生存の道は、当時、欧米の植民地であった東南アジア資源国への侵攻以外には残されていなかった。これが大東亜戦争に至る経緯であり、日本は自存自衛のために大東亜戦争を戦わざるを得なかったというのが歴史の真実であり、東條英機の主張でもあった。一言でいえば、”持てる国”のブロック経済化と世界的な共産主義者の策動が大東亜戦争を引き起こしたのです。後に共産主義勢力に朝鮮戦争を起こされたマッカーサーも、そのことを認めている。
「日本は近代国家として持っているのは、蚕だけだと言っています。絹産業だけだということです。ほかのものは何も持っていなかった。しかし、必要なものはすべて南方地域にあった。それなのに、われわれは日本に売らないことにした。日本はこのまま行けば、一〇〇〇万人から一二〇〇万人の失業者を生ずることになった。したがって日本が戦争に入ったのは、主として国家安全のためであった」(一九五一年、アメリカ上院軍事外交合同委員会でのマッカーサーの証言。第一章より)
「太平洋に於いて米国が過去百年間に犯した最大の政治的錯誤は、共産主義者が支那で強大な力に成長するのを許してしまったことだ、といふのが私個人の見解である」(同、これはジョージ・ケナンやヘレン・ミアーズ女史の見解でもあった。「共産主義の戦争挑発を隠蔽した東京裁判」小堀桂一郎より)
昭和16年10月17日、天皇の大命を受けて東條内閣が誕生します。近衛内閣の辞職に際して、戦争準備を白紙還元することを条件に東條は組閣を引き受けた。東條は総理大臣、陸軍大臣、内務大臣(内務省は警察・特高を統括)、軍需大臣を兼任したが、海軍は統率外にあり、軍の統帥は参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)にあった。東條にはルーズヴェルトやチャーチル、ヒトラー、スターリンのような指導者としての権限はなかった。当時の日本ではすべてが話し合いの制度だったのです。もし東條英機という人物が日本人離れのした怪物であったなら、日米戦争が避けられないと思った時点で、強引にでも陛下の権威を利用して、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長のすべを兼任すべきであった。そうすればすべて自己の責任で大戦争を戦うことができたのです。結局、日本は本当のリーダーがいないまま、大東亜戦争を戦ってしまった。東條という人は、それでも潔く敗戦の責任を認めている。「(註:国民に対する)敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私(註:東條英機)の責任であります。この意味に於ける責任は私は之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」(宣誓供述書末文より)。そういう意味では、東條英機という人はめぐり合わせの悪い人であった。人間個人として見れば、何か目に見えない運命的な力が働いていたとしか考えようがない。
ところで、戦後、なぜ本宣誓供述書が無視され続けてきたかについて、解説者の渡部名誉教授は以下のように述べている。
「東條さんの宣誓供述書が残されたことは、日本人にとって有難いことであった。その後間もなくマッカーサー自身が東條さんの主張(註:大東亜戦争は日本の自衛戦争であったという主張)が正しいことを認めたではないか。ただ大東亜戦争に対する東條・マッカーサーの史観が、日本人の間に普及していないことが残念である。その主たる理由はいまでは明らかだ。占領期間中、二〇万人ともいわれる人たちが公職追放となったからである。この追放令の中心は民生局のケーデス一派だと言われる。彼らはアメリカ民主党の左派であり、中には後にコミンテルン(註:国際共産主義組織)のエージェント(註:手先、スパイ)だったと判明した者もいた。・・・その公職追放令の嵐の中で、うんと得をした者たちがいた。戦前の左翼思想家や在日コリア人などなどである。特に重要な敗戦利得者は、左翼インテリだった。一例をあげれば・・大内兵衛と滝川幸辰である・・・この二人はコミンテルンのシンパ、あるいは同調者として天皇の帝国大学教授としてふさわしくないとされたのである(コミンテルンは天皇制廃止を指令していた)。しかし敗戦により華々しく復活した。・・・戦後のいわゆる岩波・朝日文化は、敗戦利得者の左翼インテリ文化と言える。・・・これは典型的な敗戦利得者で、そのほかの例は数え切れない。この敗戦利得者たちは日本の主要な大学の主要なポストを占め、その弟子たちは、あるいは日本中の大学に教授として散らばり、あるいは大新聞の記者となった。正に癌細胞の転移にも似た様相を呈したのである。こうした敗戦利得者とその弟子たちが、戦前の「日本のよさ」とか「日本の立場や言い分」を肯定することはない。」(“はじめに”より)
「アメリカが畏怖した日本:真実の日米関係史」渡部昇一著、PHP新書、2011年6月発行、¥700(税別)
著者は1930年生まれの高名な上智大学名誉教授。幕末から現在に至るまでの日米関係の実相を本書で解説している(副題が「真実の日米関係史」となっている)。日露戦争直後からなぜアメリカが露骨な反日に傾き、ついには日米戦争を仕掛けるまでに至ったのか、日清戦争直前にアメリカが無法にハワイを併合しようとしたとき、日本が二隻の軍艦をホノルルに派遣して暗黙の抗議を行ったり、日露戦争後に「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を一方的に断ったのが契機になったというだけでなく、より複雑で多岐にわたる背景が存在していたことを時代を追って解明している。その底流には、アメリカを建国し支配者であり続けてきた白人の独善があり、人種差別の思想があったことを伺わせる。戦争には敗れたとは言え、もし日本があの自衛戦争(大東亜戦争)を戦っていなかったら、アジア・アフリカの開放もアメリカ国内での人種差別の撤廃もはるかに長い時間を要したであろうことは明らかです。人類史的に見れば、日本の戦死者も戦争犠牲者も決して犬死したわけではないことを日本人は理解すべきです。そういう意味で、戦後から現在にまで続く多くの学者・マスコミ・政治家など(著者は敗戦利得者と呼んでいる)が恥ずかしげも無く撒き散らす東京裁判史観(「コミンテルン史観」とも言える)に洗脳されることなく、冷静に真実を見極めることの大切さを教えられる書物です。
ちなみに著者は、サンフランシスコ講和条約11条の内容について、日本は東京裁判そのものを受入れたのではなく、諸判決(judgments)の刑期の変更・赦免には関係国過半数の同意を要するということを受入れただけのことであると本書で指摘している。
「白い人が仕掛けた黒い罠」高山正之著、ワック、2011年8月発行、¥1,400+税
著者は1942年、東京生まれのジャーナリスト。本書で著者は、東南アジアにおける白人による植民地支配の残虐さや、明治以降の日本の歴史の真の姿を追いながら、白人国家の残忍さや現在の中国と韓国・朝鮮のウソ、さらには、国内外の学者・言論人や各国政府のウソをも明らかにしている。「二十世紀はまさに日本の世紀だった。白人が君臨し、そして世界を支配する形を日本が崩したからだ。」、「奴隷をもち、残忍な戦争をし、略奪と強姦を喜びにしてきた国々にとって略奪も強姦もしない、奴隷も(欧米流の搾取・略奪の対象としての)植民地ももたない日本は煙たいどころか、存在してもらっては困る国に見えた。その伏流を見落とすと、近代史は見えてこない。」、「日本対白人国家プラス支那という対立構造ができ、先の戦争が起きた。」と歴史の真実を喝破している。シナの共産党独裁政府や韓国・朝鮮の政府を始め、各国の政府がそれぞれの政治的思惑からいかに歴史を捏造しようとも、長い人類の歴史において、もしアジアに日本という国が存在していなかったら、アジア・アフリカなどの有色人種が白人種の搾取・略奪の奴隷状態から開放されるのに百年以上のより長い時間を要したであろうことを否定することは出来まい。日本は今後も、神道(正直・清浄と誠の道、禊と祓い、共生の思想)と仏教(慈悲と平等の思想、輪廻転生と因果応報の思想、殺生・盗み・邪淫・ウソを最大の罪悪とする)を持たない、残忍で悪意に満ちた国々と共に生きていかなくてはならない。よほど日本人は真実を理解する努力をして対抗していかない限り、他国から食い物にされ続ける危険性があることを理解すべきです。一読に値する書。
「復員・引揚げの研究」田中宏巳著、新人物往来社、2010年6月発行、¥1,600+税
著者は1943年、長野県松本市生まれ。早稲田大学第一文学部卒(史学科)。防衛大学校教授を勤めた。
「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~」門田隆将著、集英社、2010年4月発行、¥1,680(税込み)
著者は1958年、高知県生まれのジャーナリスト(中央大学法学部卒)。本書は、終戦時、駐蒙軍司令官であった根本博陸軍中将が、在留邦人(4万人)および北支那方面の日本軍将兵(35万人)の日本内地への帰国に際して蒋介石から受けた恩を返すために、国共内戦で共産軍に追い詰められていた国民党軍を助けるため、戦後GHQの占領下、わずかな仲間と共に一命を賭して台湾へ密航して金門島の激戦を戦った実話(ノンフィクション)である。
1945年の日本の敗戦によって中華民国(蒋介石一派)が台湾の実効支配を開始したが、国際法上は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において日本が台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄するまでは、台湾は日本国の一部であった。
「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯 久美子著、新潮文庫、2008年7月発行、¥500(税込み)
著者は1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て、現在、文筆業。本書は日米戦争の歴史に深く刻み込まれることになった硫黄島の戦いと、現地で日本軍の総指揮官として戦った栗林忠道陸軍中将についてのノンフィクションである。
「栗林が着任したとき(註:昭和19年6月)島には1000人ほどの住民がおり、・・貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。・・・栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。・・・島民の内地送還は七月三日から始まり、一四日までに完了した」(第二章より)
「(栗林中将が将兵に与えた)「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「負けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。・・・死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる「バンザイ突撃」を栗林は厳しく禁じた。それを将兵たちは忠実に守った。・・・すべては、内地で暮らす普通の人々の命をひとつでも多く救うためだった」(第三章より)
「栗林が立案した作戦の内容は・・“持久戦”と“水際放棄・後退配備”であった。栗林の判断は、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば当然行き着く結論だった。しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。・・・反対したのは海軍だけではなかった。硫黄島の陸軍幹部からも強い反対意見が出たのである。しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。・・・栗林は一九四四(昭和十九)年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将校の更迭を行っている」(第三章、第四章より)
「周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三六日間にわたって持ちこたえた。・・・日本軍約二万に対し、上陸してきた米軍は約六万。しかも後方には一〇万ともいわれる支援部隊がいた」(プロローグより)
「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。・・・米軍側の死傷者数二万八六八六名に対し、日本軍側は二万一一五二名。戦死者だけを見れば、米軍六八二一名、日本軍二万一二九名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである」(第一章より)
「先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである」(第四章より)
他書の感想にも記したことだが、はからずも本書でも、合理的に判断し、職人的に優秀な現場と、現場を知らず、あるいは知ろうともせず、科学的・合理的判断力の欠如した大本営を初めとする愚昧な国家指導層とが対照的にあぶり出されている。しかもその無能な指導層は、あろうことか栗林中将の訣別電報の内容を改ざんして新聞に発表していた。本書のタイトルになっている「散るぞ悲しき」というのは、その訣別電報の最後に添えられていた辞世の一首「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から採られている(新聞発表では、「散るぞ口惜し」)。本書の解説を書いた柳田邦男は、「栗林中将が二万の犠牲を無駄にしないために、率直に失敗の要因(註:中央の陸軍と海軍の対立による一貫性を欠いた防備方針や、戦争指導者たちのその場しのぎの弥縫策など)を戦訓として報告しても、何の都合があってか、いまだにその指摘は公には伏せられてしまうのだ。今に至るも日本の省庁のタテ割り行政と権益争いが改善されないのは、国民が血を流しても、その歴史の教訓を学ぼうとしないこの国のリーダーたちの心の貧困を示すもので、いまさらながら愕然とする」と書いている。政治家も官僚も、マスコミも学者も評論家も、今なお“文系支配”で、物事を事実に基づいて科学的・合理的に判断するという思考態度に欠ける人たちがこの国を動かしている。
あの戦争は戦う前から、国家の統治システムの優劣において、日本はアメリカに負けていた。明治維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力が政治権力を独占するために天皇制を利用した明治憲法(大日本帝国憲法)は、イギリス式の立憲君主制度(国王は君臨すれども統治せず)でもなく、さりとて天皇独裁でもない、政治責任の所在を極めてあいまいにできる中途半端な憲法であった。しかも憲法改正の発案権の問題や日本古来の天皇制の呪縛により、時代の変化に追随して改定することも出来ない文字通り不磨の大典と化してしまっていた。それはすべてを選挙で決し、責任の所在が明確で、合理的に国家を経営していく歴史を重ねてきていたアメリカの政治システムとは比ぶべくもなかった。日本は、あの戦争でアメリカと戦うことになった時点ですでに負けていたと言って良い。天皇の政治的権限こそ無くなったとはいえ、それは戦後の現代においても必ずしも十全に改善されているとは言えず、たとえ政権が交代しても、国家官僚組織の上層部が身分制度化していてほとんど変化が起こらない。このままいけば、いつかまた日本はあの戦争と類似の失敗を繰り返すことは目に見えている。民主主義制度である以上、政治のリーダーは国民が直接、選挙で選出すべきだし、国家官僚組織の上層部は身分制度ではなく任期制など、より人材の流動化を図れる工夫を加えて、選挙民の総意を国家運営により反映できるより機能的なシステムに改めるべきである。評論家や学者の中には民主主義を衆愚政治だと言って批判する愚者もいるが、三人寄れば文殊の知恵で、少なくとも単愚政治(独裁)よりは優れている。民主主義は、人類がこれまでに発明してきた政治システムの中で、構成員全体の総意を表現するのに最も適したシステムと言って過言ではない。
「二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある日、(栗林の妻)義井は夢を見た。死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目が覚めた。夢とわかってからも、義井の心は温かかった。夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。硫黄島を含む小笠原諸島が二三年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたらされたのは、それから間もなくのことである」(エピローグより)。類似のエピソードは惠隆之介もその著書「敵兵を救助せよ!」(草思社)の中で紹介しているし、筆者自身も数回体験したことがある。人間の魂は肉体が滅んでも消滅するものではなく、死者の魂は間違いなく別の世界で生きている。
本書は第37回大宅賞受賞作品であるが、その選評の一つに「きわめて文学性の高い傑作である」(藤原作弥)との言がある。柳田邦男は「過不足のない見事な構成と文脈だと感嘆した」と記している。読めば分かるが、心に響く達意の文章である。惠隆之介が「敵兵を救助せよ!」の「あとがき」に、「この物語が戦後、なぜわが国で書かれなかったのか疑問に思った」と記しているが、これらの著書を読んでみると、史実というものはどうもその内容にふさわしい書き手が現れるまでは、真実の姿を世に現さないように見える。ちなみに、本書は世界7カ国(米・英・韓・伊など)で翻訳出版されている。
「敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」惠隆之介著、草思社、2006年6月発行、¥1,785(税込み)
著者は1954年、沖縄コザ市生まれ。防衛大学校卒業後、海上自衛隊を経て、現在グロリア・ビジネススクール校長。
本書は、大東亜戦争初期(1942年3月初め)、ジャワ島北方のスラバヤ沖での日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との海戦で日本艦隊に撃沈された英巡洋艦「エクゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名が漂流しているのを偶然発見した日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)が、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある危険な戦闘海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助した「雷」艦長、工藤俊作についての実話である。日本が戦争に敗れたため、戦勝国による日本を貶めるためのさまざまなウソ話が世界中に流布されているが、米軍が太平洋の島々で追い詰めた日本兵を片っ端から火炎放射器などで“処分”していった残虐さと比べると、大東亜戦争の正義がいずれの側にあったのかを如実に物語っている話である。
著者はさすがに海上自衛隊出身だけあって、本書には海軍史や戦史が詳述されている。そこから見えてくるものは、「細部に優れ、大局に劣る」、つまり、国民は職人的には優秀だが国家の指導層の経営力が劣る日本の姿であり、それは日本人の国民性だけではなく日本国家の統治システムに根ざしているようで、現在もさほど改善されているようには見えない。
なお、工藤俊作が山形県屋代郷で生まれた明治34年の3年後には日露戦争が勃発し、上村彦之丞中将(鹿児島出身)が指揮する第二艦隊が、撃沈したロシア東洋艦隊の巡洋艦「リューリック」の将兵627人を三隻の巡洋艦上に救助し、世界中から「日本武士道の実践」と称賛されている。
註:救助された当時の英国兵、サム・フォール氏の著書、“「ありがとう武士道―第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想」先田賢紀智訳、中山理監訳、麗澤大学出版会、2009年8月発行、¥1,680(税込)”も出版されている。
「慰安婦と医療の係わりについて」天児都、麻生徹男共著、梓書院、2010年2月発行、¥1,700(税込み)
著者、天児都は1935年生まれ。九州大学医学部卒業(産婦人科専攻)、共著者、麻生徹男の二女。麻生徹男は1910年生まれ(~1989年)。九州帝国大学医学部卒業(産婦人科専攻)、日中戦争・大東亜戦争に応召。
本書は天児都による第1章「慰安婦と医療の係わりについて」と麻生徹男の残した第2章「花柳病ノ積極的豫防法」、および天児都が巻き込まれた「慰安婦問題」について書かれた第3章とから成っている。
「日支事変勃発後、(一般人に対する性的)暴行防止と(兵士の)性病感染対策のため日本より送られた女性達が慰安婦と呼ばれた最初の人たちである。・・・1937年以降の外征軍相手の娼婦は国内の公娼が海外で営業した者と私娼がヨーロッパの娼婦と同様に自由意志でこの仕事に入ってきた者の両方だった。・・・欧米のアジア植民地には本国人娼婦は極めて少数である。日本は朝鮮、台湾、樺太、関東州においても内地人の方が多く朝鮮人は少ない。日本人は慰安婦に同国人を求め、いずれの土地でも植民地住民は少なかったと言う。・・・その半数以上は日本人であった。」(第1章より)。金完燮(キム・ワンソプ)氏は「親日派のための弁明(2)」(星野知美訳、扶桑社文庫、各2006年9月発売、¥840(税込み))で、日本人慰安婦の数を朝鮮人女性の二倍以上と書いている。これが慰安婦と言われた娼婦の実態である(アメリカの公文書 UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator APO 689 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49 には、「慰安婦は売春婦に過ぎない」とはっきり書かれている-”A ‘comfort girl’ is nothing more than a prostitute or ‘professional camp follower’ attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.”)。
日本軍は諸外国のような兵士による一般人への性的暴行を防止し、兵士の性病感染を防ぐため、慰安婦の性病対策に多大の努力を払った。麻生徹男は上海での勤務中、軍の要請で娼婦の性病検査に携わり、提言をまとめた。その内容が第2章である。一言で言えば、兵士に対して体育などのエネルギーのはけ口となる施策を講ずるとともに、「此ノ意味ニ於テモ軍用慰安所ノ娼婦ハ常ニ監督指導スルヲ必要トス。」(第2章より)ということである。日本軍の従軍慰安婦に関して、意図的に現代の価値観を持ち込んで慰安婦の存在自体が罪悪であるかのごとき論をなす悪質な反日主義者が見受けられるが、決してフェアな議論ではない。比較はあくまでも同時代においてなされるべきであり、売春が合法であった当時、慰安婦を利用して一般人への性的暴行を防止した軍隊と、慰安婦など利用せず、むしろ一般人への性的暴行を奨励・黙認した諸外国の軍隊のどちらがより人道的であったか、改めて論ずるまでもあるまい。当時(その後も)の日本軍以外の戦勝国の軍隊が、いかに無慈悲に敗戦国の婦女子に性的暴行を加えたか、それが世界の常識であったといって過言ではない。日本軍の慰安婦利用を罪悪と考える人たちは、一般人への性的暴行の方が優れていると考えているのである。
本書には第1章と第2章の英訳が付いており、第2章の内容は「史実を世界に発信する会」の英文のホームページに掲載されている。
いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」問題については、一部の日本人が問題をデッチあげ、韓国人がそれに便乗してウソ話を強弁しているというのが事実である。それらの日本人は売名行為を目的とした偽善者であったり、左翼であったり、国益など顧みない無知な文筆家や政治家たちである。千田夏光(作家)、青柳敦子、高木健一(弁護士)、吉田清治、朝日新聞社(記者)、戸塚悦郎(弁護士)、村山富市(元首相)、河野洋平(元官房長官)らの名前が研究者によって挙げられている。当時の政府・官憲はむしろ、悪徳朝鮮人による婦女子誘拐などを取り締まっていたのが事実である(“朝日新聞が報道した「日韓併合の真実」”水間政憲著、徳間書店など参照)。しかも、当時の朝鮮の警察官の多くは朝鮮人だったし、日本軍にも多くの朝鮮人兵士がいた。この問題に関しては、すでに多くの研究結果が本会ホームページの「掲載文献」欄などに掲載されている。
アメリカを始めとする西欧諸国が、事実確認をすることなく簡単にこうしたウソ話(プロパガンダ)に乗っかるのは、近代に至るまで強制連行・人身売買の奴隷制度を維持し、大量虐殺を得意技として世界中を侵略し、残虐な植民地支配で有色人種国家群を搾取・略奪し続けた悪業を自覚している白人の潜在意識が、自分たちよりも悪辣な行為をなした有色人種国家、日本が存在したということにして、無意識のうちに自らの罪悪感から逃れようとする深層心理的な作用が働いているからではないか。
「従軍慰安婦の強制連行」なるものが悪質な捏造であることを簡単にまとめた記事をネットで発見したので、参考までに以下にその大半を引用しておきます(一部改変)。
( 以下は by ノリマサ — 2012年4月28日 8:23 PM )
① 指令書や計画書、当時の日記・記録・証言録など、いまだに証拠(資料)がひとつも見つかっていない。
② 東京裁判や1965年の日韓基本条約でも慰安婦強制連行など存在しなかったし、韓国初代大統領李承晩も散々日本を非難していたが慰安婦については一度も抗議をしなかった(1980年代まで慰安婦問題などまったく存在しなかった)。
③ 慰安婦問題は1983年に吉田清治という一人の老人が「済州島で慰安婦狩りを行った」と発表したフィクション本『私の戦争犯罪』が全ての始まりである。
④ ところが済州島の当時を知る老人たちは、「私たちの村でそんな事が一人でもあれば私の耳に入っているはずだ」「そんな事は絶対になかった」と1989年に現地の『済州新聞』で証言し、地元の郷土史家も「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物だと思われる」と吉田本を完全否定した(後に吉田もフィクションだったと認めた)。
⑤ 日本の反日左翼が韓国で賠償金がとれるなどと慰安婦募集をして、戦後46年も経った1991年に初めて強制連行されたという被害者が名乗り出た(現在韓国政府が元慰安婦だと登録した人は二百数十人いるが、40数年間1人も被害を訴えなかったなんてことはありえるか?)。
⑥ その慰安婦たちの証言も二転三転していたり(中には証言が十数回も変わっている者もいる)、具体性に欠けたり、裏付けがなされていないなど、信用できるものではない。
⑦ 強制連行があったとしたら、両親や兄弟・親戚・友人・知人・目撃者などが何らかの行動を起こしていたはずだが、そんなものは一切なかった(当時は日本人が朝鮮人をからかっただけで抗議運動がおこっていたらしいし、気性の激しい朝鮮人が同胞女性を連れ去られていくのを黙って見ていたというのも考えられない)。
⑧ 連れ去られる女性が抵抗したという事例や、強制連行される途中や連行先から逃げ出して助けを求めたという事例も皆無。
⑨ 連れ去られる女性を朝鮮人が救出したり、阻止しようとした事例や、連れ去ろうとした者と戦ったり抗議したという事例も皆無。
⑩ 日本軍が強制連行したと韓国側は言うが、当時は多くの朝鮮人が日本軍に所属しており(朝鮮人の将校もいた)、同胞女性が強制的に性奴隷になどされていたのなら何らかの問題が起こるはずである(彼ら朝鮮人日本兵の存在は強制連行がなかった事の証明になると考える)。
⑪ 強制的に集めたという証拠はないが、自発的に集まったと思われる証拠なら存在する(1944年の「慰安婦募集」の新聞広告や1944年のアメリカ軍の記録など)。
⑫ 韓国はベトナム戦争で5000人とも3万人ともいわれる混血児を残してきたが、日韓混血児は一人も確認されていない(ちなみに日本軍は日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争など多くの戦争に関わっているが、一度も混血児問題を起こしていない軍隊である)。
⑬ 1944年、ビルマを占領したアメリカ軍が朝鮮人経営者や朝鮮人慰安婦を尋問するなどしてまとめた「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本人捕虜尋問報告 第49号」には、慰安婦たちが厚遇されている様子が記されている。
⑭ もちろん、性奴隷になどしてなくただの売春婦だったので、きちんと給料が支払われている(しかも莫大な金額が)。
⑮女性を拉致したり暴行したという加害者(氏名・年齢・所属など)も不明。
You Tube には「慰安婦」問題の真実を英語で解説している動画や解説がいくつか掲載されています(以下)。二番目は、資料を使用した解説のWebサイトです。
(すべてリンク切れ)
https://www.youtube.com/watch?v=UfyZioj0M-c&feature=youtube_gdata_player
https://www.youtube.com/watch?v=idmDRwL7YRw&feature=related
https://sakura.a.la9.jp/japan/?page_id=2015
https://www.youtube.com/watch?v=ijYLNvUPU_A
「日米・開戦の悲劇‐誰が第二次大戦を招いたのか」、ハミルトン・フィッシュ著、岡崎久彦訳、PHP研究所、一九八五年&一九九二年(文庫)、¥1,300(税別)
著者は1888年、米国ニューヨークに生まれる。ハーバード大学卒業後、ニューヨーク州議会議員、第一次世界大戦に従軍後、長年、米国下院議員(共和党)を勤めた。アメリカの不干渉主義者の指導的代表。監訳者は、1930年生まれ(大連)の外交官。
本書は、長年に亘ってアメリカ議会の外交委員会に籍を置き、第二次世界大戦時をアメリカ議会の指導者の一人として当時のルーズベルト政権の政策を批判してきた著者による自戒を込めた書である。
著者は、第二次世界大戦はアメリカの共産主義化していたルーズベルト政権が始めたものであり、対日戦争は戦争を欲していたルーズベルト一派が日本を挑発して起こしたものであると断じている。なぜルーズベルト大統領が戦争を望んだかについて、著者は以下のように記している。
①暗黙の約束も含めた対外コミットメントを守るためであり、
②悲劇的な失業状態を回復するためである-六年間の「ニューディール」政策とその失敗の後、アメリカではいまだ一千三百万人が失業状態にあった
③国際主義者として、彼は実際に戦争に介入したいという欲望を持っており、
④戦争を指導した大統領となることで権力欲を満たし、その名を歴史に止めるためであり、
⑤国際連合を結成し、それの実質上の支配者ないしは、スターリンとの共同支配者になろうとしていたからである。(第四章、pp.100~101)
第二次世界大戦は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約でポーランドに割譲されたポーランド回廊とダンチヒを平和裡にドイツに返還することを意図的に妨害したルーズベルト大統領一派が起こしたと言っても過言ではない。ルーズベルト大統領はイギリスに圧力をかけ、イギリスがポーランドに対して空手形を切ったため、ポーランドが返還交渉を強硬に拒否し、ヒットラーがポーランドに侵攻して始まったのが欧州戦争であった。ルーズベルト大統領は欧州戦争に参戦すべく、大西洋において盛んにドイツを挑発したが、ドイツが自制して応じなかったため、ドイツと同盟を結んでいた日本を挑発して参戦を果たした。
「私は、合衆国が、ヨーロッパの昔からの怨念のこもった争いや勢力均衡政治にひきずり込まれることに、正面きって反対していたのだった。そして、当時、約九〇%の国民も同意見であったのだ」(第五章、pp.122)。アメリカ議会の不干渉主義者として合衆国の参戦に反対していた著者は、日本軍による真珠湾攻撃を受けて態度を変え、「数時間後、私は大統領の演説を支持するスピーチを、下院からラジオを通じて行った。・・そして日本を打ち負かすために、ルーズベルト政権を支持するようすべての不干渉主義者に対して、結集を呼びかけた」(追記-I、pp.174)。「私は一九四一年十二月八日月曜日に、日本に対する宣戦布告決議のための審議を開催した」(第二章、pp.47)。しかし、当時、著者は「私は日本に対する最後通牒について何も知らなかった・・・すべての議員たちや国民と同じく、私も徹頭徹尾、合衆国大統領に欺かれていた」(追記-I、pp.174)。そして、次のように慙愧の念を表明している。「今日私は、ルーズベルトが日本に対し、恥ずべき戦争最後通牒を送り、日本の指導者に開戦を強要したことを知っており、この演説を恥ずかしく思う」(第二章、pp.47)と。
当時の日本政府(外務省)はなぜ、アメリカ議会(議員)にハル・ノートを公開してルーズベルト大統領一派の横暴を訴えなかったのであろうか。恐らくそれは、今日も日本政府に続いている広報活動、ロビー活動の軽視による理念的不作為が招いたものであろう。情報戦争の軽視こそが、日本人および日本国政府が第二次世界大戦の敗戦から学ぶべき失敗の大きな教訓の一つであるが、残念ながら戦後の日本政府も大して変わってはいない。
大方の日本人にとっては第二次世界大戦とは言っても欧州戦争にはそれほど大きな関心はなく、その事実関係に無知なかたが多いと思うが、本書は欧州戦争がいかに大きく大東亜戦争に関わっていたかの真実を理解する上でも有用な書物です。歴史の真実を知りたいと考えているすべての日本人は一読すべきです。
「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優著、小学館、2006年7月発行、¥1,600+税
著者は1960年生まれ。外交官を経て、現在、文筆家。在ロシア連邦日本国大使館に勤務後、外務本省国際情報局分析官としてインテリジェンス業務に従事した経歴を持つ。大川周明は1886年生まれ(~1957年)。満鉄勤務、拓殖大学教授などを経て、五・一五事件などに関与。戦後、東京裁判のA級戦犯容疑者となるが、結局は免訴。日本初の「コーラン」の完全邦訳を刊行した。
本書は佐藤優が大川周明の「米英東亜侵略史」を解説した書であるが、本書には同書の全文が掲載されている。
大川周明の「米英東亜侵略史」は、日米戦争開戦後、間もなく、NHKラジオで12日間にわたって放送された内容を翌年1月に書籍として発売したものである。「その内容はきわめて冷静な事実認識・分析で占められている」(第二章より)。特に前半の「米国東亜侵略史」は、ペリー来航以来、日米戦争に至るまでの日米関係を理解する上で有益である。一言で言えば、シナ大陸への進出を目指し、日本を補給基地にしようとしていたアメリカが、日露戦争後の「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を日本側が一方的に断ったのを契機として、日本がアメリカの東亜進出の障碍であると考え始めたのがその後の反日政策として現れてきたということである。当時の日本は日英軍事同盟を結びロシアと戦ったにも関わらず、幕末以来の経緯もあり、アジア対西欧という見方から抜け出せず、西欧列強間の相違をうまく利用することが出来なかったのではないか。日本の最大の脅威はロシアの南下政策であったはずであり、それに対抗するためには日英同盟だけでなく、具体的にアメリカの力を利用するという視点に欠けていたように思われる。江戸時代を終らせ、明治の開国を迎えたということは、平和な時代から現在にまで続く世界規模の戦国時代に逆戻りしたということなのだが、日本の指導層にその認識がどの程度徹底していたのだろうか。「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)の問題に関しては、大川周明も佐藤優も日本側が一方的に断ったのを当然のこととしているが、筆者は同意できない。やはり明治政府は武の政府で、商の視点を軽視していたように思われる。国際社会には万国公法(国際法)があり、正しい(武の)主張は通るという正義の視点であり、利(商)の視点の蔑視があったのではないか。国際政府の存在しない国際法などというものは弱者を縛るための道具であり、戦国時代にあっては正義ではなく強者が勝つのだということは歴史が証明している。
本書の著者、佐藤優による解説はつまるところ、大川が考えていたと思われる“棲み分け”の思想(共生の思想)を生かして日本の国家体制を強化することが、現代の日本国家と日本人にとって重要であるということに尽きるのだが、解説部分には各所に衒学的な記述が目立ち、大川の「米英東亜侵略史」の部分と比べると、あまり読み易いものではない。