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資料室: 東京裁判関連

「東條英機 歴史の証言-東京裁判宣誓供述書を読みとく」渡部昇一著、祥伝社黄金文庫、2010年7月発行、¥840(税込み)

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本書は東條英機がいわゆる東京裁判の法廷に提出した宣誓供述書に、著者、渡部昇一上智大学名誉教授が解説を加えたものである。
この宣誓供述書は、東條被告が開廷以来取り続けたメモ・ノートを基に、東條被告の担当であった清瀬一郎博士とアメリカ人弁護士ブルーエットを含めた三人が心血を注いで完成し、1947年12月26日の法廷に提出した正式の法廷記録である。同内容は法廷提出後間もなく出版されたが、占領軍の報道政策により「発禁第一号」に指定され、市場からその姿を消した。その後も占領軍は日本国内に厳しい言論統制を布き、次々と日本人の言論を封じていくが、その手法はまさに共産主義者や独裁者のやり口そのもので、その一事をもってしても、東京裁判が不当なリンチであり(東京裁判にはそもそも管轄権がなかった)、誰が日支事変や大東亜戦争の真の仕掛け人であり、戦争犯罪人であったかということが良く分かる。もし連合国(主としてアメリカ)側に正義があるのであれば、日本国内の言論の自由を保障し、すべての証拠資料を採用して正々堂々と振舞えば良かったはずである。
本宣誓供述書は、当事者として事情を知悉した東條英機が文字通り自己の“いのち”を賭けて供述した内容だけに、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)へ追い込まれていった当時の状況が生々しく読む者に迫ってくる。渡部名誉教授の解説も分りやすく、当時の歴史の真実を知るための最重要資料の一つであると言える。
第一次世界大戦(1914~1918年)後の不況に際して、増加する外国製品の輸入を抑えるため1929年(昭和四年)にアメリカの下院に上程されたホーリイ・スムート法に代表される保護主義のため世界の貿易量が激減し、1929年10月24日にはいわゆる「ブラックサーズデー」でアメリカの株式市場が暴落する。これが世界中に大不況を呼び、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソ連などの(工業資源を)”持てる国”がそれぞれに植民地を含む自己の勢力圏を囲い込み、ブロック経済を形成する。それは”持たざる国”は滅びろということを意味するのだが、当時の”持てる国”家群は人類全体を考えるという視点に欠けていた。アメリカから移民を拒否され、商品の購入には高関税をかけられ、窮した日本は天津の日本租界内に逃げ込んできた清国最後の皇帝、溥儀(満洲人)と協力して日本軍(関東軍)が背後についた満洲人の国家、満州国を建国する。満洲の地は歴史上、満洲人(女真族)の故地でシナ(中国)ではないのだが、清国の版図をすべて継承しようとする中華民国が主権を主張して満州国および日本と対立した。シナの反日運動が激化し、やがて共産主義者と結んだ中国国民党が対日戦争を仕掛け、日本政府の政策の不徹底もあって日中戦争はドロ沼化する。”持たざる国”ドイツがヨーロッパで戦争を始め、イギリスにまで空爆攻撃を開始すると、シナの蒋介石政権(国民党)を支援していたアメリカのルーズヴェルト政権はイギリス救援の目的もあり、アメリカ国内の孤立主義を廃して戦争に参加するため、対日戦争を画策する。その結果、くず鉄、石油などの対日輸出を禁止し、日本の資産を凍結した。イギリス・オランダも同様の措置に出て、日本を経済封鎖する。それは宣戦布告を意味する行為なのだが、かくして工業原料や軍需物資の自己調達の必要に迫られた日本にとっての生存の道は、当時、欧米の植民地であった東南アジア資源国への侵攻以外には残されていなかった。これが大東亜戦争に至る経緯であり、日本は自存自衛のために大東亜戦争を戦わざるを得なかったというのが歴史の真実であり、東條英機の主張でもあった。一言でいえば、”持てる国”のブロック経済化と世界的な共産主義者の策動が大東亜戦争を引き起こしたのです。後に共産主義勢力に朝鮮戦争を起こされたマッカーサーも、そのことを認めている。
「日本は近代国家として持っているのは、蚕だけだと言っています。絹産業だけだということです。ほかのものは何も持っていなかった。しかし、必要なものはすべて南方地域にあった。それなのに、われわれは日本に売らないことにした。日本はこのまま行けば、一〇〇〇万人から一二〇〇万人の失業者を生ずることになった。したがって日本が戦争に入ったのは、主として国家安全のためであった」(一九五一年、アメリカ上院軍事外交合同委員会でのマッカーサーの証言。第一章より)
「太平洋に於いて米国が過去百年間に犯した最大の政治的錯誤は、共産主義者が支那で強大な力に成長するのを許してしまったことだ、といふのが私個人の見解である」(同、これはジョージ・ケナンやヘレン・ミアーズ女史の見解でもあった。「共産主義の戦争挑発を隠蔽した東京裁判」小堀桂一郎より)
昭和16年10月17日、天皇の大命を受けて東條内閣が誕生します。近衛内閣の辞職に際して、戦争準備を白紙還元することを条件に東條は組閣を引き受けた。東條は総理大臣、陸軍大臣、内務大臣(内務省は警察・特高を統括)、軍需大臣を兼任したが、海軍は統率外にあり、軍の統帥は参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)にあった。東條にはルーズヴェルトやチャーチル、ヒトラー、スターリンのような指導者としての権限はなかった。当時の日本ではすべてが話し合いの制度だったのです。もし東條英機という人物が日本人離れのした怪物であったなら、日米戦争が避けられないと思った時点で、強引にでも陛下の権威を利用して、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長のすべを兼任すべきであった。そうすればすべて自己の責任で大戦争を戦うことができたのです。結局、日本は本当のリーダーがいないまま、大東亜戦争を戦ってしまった。東條という人は、それでも潔く敗戦の責任を認めている。「(註:国民に対する)敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私(註:東條英機)の責任であります。この意味に於ける責任は私は之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」(宣誓供述書末文より)。そういう意味では、東條英機という人はめぐり合わせの悪い人であった。人間個人として見れば、何か目に見えない運命的な力が働いていたとしか考えようがない。
ところで、戦後、なぜ本宣誓供述書が無視され続けてきたかについて、解説者の渡部名誉教授は以下のように述べている。
「東條さんの宣誓供述書が残されたことは、日本人にとって有難いことであった。その後間もなくマッカーサー自身が東條さんの主張(註:大東亜戦争は日本の自衛戦争であったという主張)が正しいことを認めたではないか。ただ大東亜戦争に対する東條・マッカーサーの史観が、日本人の間に普及していないことが残念である。その主たる理由はいまでは明らかだ。占領期間中、二〇万人ともいわれる人たちが公職追放となったからである。この追放令の中心は民生局のケーデス一派だと言われる。彼らはアメリカ民主党の左派であり、中には後にコミンテルン(註:国際共産主義組織)のエージェント(註:手先、スパイ)だったと判明した者もいた。・・・その公職追放令の嵐の中で、うんと得をした者たちがいた。戦前の左翼思想家や在日コリア人などなどである。特に重要な敗戦利得者は、左翼インテリだった。一例をあげれば・・大内兵衛と滝川幸辰である・・・この二人はコミンテルンのシンパ、あるいは同調者として天皇の帝国大学教授としてふさわしくないとされたのである(コミンテルンは天皇制廃止を指令していた)。しかし敗戦により華々しく復活した。・・・戦後のいわゆる岩波・朝日文化は、敗戦利得者の左翼インテリ文化と言える。・・・これは典型的な敗戦利得者で、そのほかの例は数え切れない。この敗戦利得者たちは日本の主要な大学の主要なポストを占め、その弟子たちは、あるいは日本中の大学に教授として散らばり、あるいは大新聞の記者となった。正に癌細胞の転移にも似た様相を呈したのである。こうした敗戦利得者とその弟子たちが、戦前の「日本のよさ」とか「日本の立場や言い分」を肯定することはない。」(“はじめに”より)

「昭和天皇・マッカーサー会見」豊下楢彦著、岩波現代文庫、2008年7月発行、¥1,000+税

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著者は1945年、兵庫県生まれ。京都大学法学部卒業。国際政治論・外交史専攻の学者(関西学院大学法学部教授)。
昭和天皇とマッカーサーとの会見というと、「自己弁明と自慢、自惚れの渦の中にある、ほんの一握りの事実」(「文芸春秋」1964年6月の「マッカーサー戦記・虚構と真実」より)しか見出せない「マッカーサー回想記」に書かれた、「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」(「マッカーサー大戦回顧録」(下)、津島一夫訳、中公文庫、2003年7月発行より)

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という昭和天皇の発言(とされている文言)だけが一般には知られているが、実際は昭和天皇と連合国最高司令官との会見は合計18回に及んだ(マッカーサーと11回、後任のリッジウェイと7回)。
本書は、著者が入手できる限りの資料を分析して得た、敗戦処理から戦後の日本(および皇統)の安全保障を担保するため、かって軍の統帥権を持ち大元帥陛下として大日本帝国に君臨した昭和天皇が、なりふり構わぬ「天皇外交」を展開した姿をかなり詳細に描き出している。著者は法学者であるため、新憲法制定後の象徴天皇という立場と「天皇外交」との整合性に触れているが、国家と民族(と皇統)の危急存亡の非常時にあって、天皇という影響力のある立場から、新憲法との整合性よりも国家の安全保障を優先して行動した昭和天皇の考えを、筆者は支持するものである。
むしろ問題は、コミンテルン(国際共産主義組織)の色濃き影響下にあった戦勝国を相手に、昭和天皇が何としても皇統と日本国の安全を守ろうとして努力した当時に決められた制度(日本国憲法など)を、国際環境も日本の状況も変わった後になっても、時代の変化に合わせて変えていくことのできない日本国民にあるのではないか。
一般に平和憲法と言われている、米軍(GHQ)占領時に公布・施行された現日本国憲法(第九条)に書かれていることは、「国際紛争解決の手段としての戦争は永久に放棄し、そのための戦力も持たず、国の交戦権を認めない」ということです。ただし、国際紛争とは何かということについての定義はなされていない。人類史における戦争の歴史から判断して、国際紛争解決の手段としての戦争とは「侵略戦争」だと考えるのが妥当です。つまり、第九条の規定は、日本語として率直に読めば、国家(国民・国土・領海・領空)防衛のための戦争は放棄していない、そのための国防軍の保持や交戦権は禁止していないということで、外国による日本国への侵略に対して戦争したり、そのために他国と同盟して集団的自衛権を行使しても憲法の規定に抵触しない。ただ、同盟する相手国が米国、英国、露国、中国などの場合は、集団的自衛権を行使する際に慎重さが必要です。歴史上、近現代において日本国は侵略戦争をしたことはないが、これらの国々は何度も侵略戦争を繰り返してきた歴史があるからです。また、日本国民救出のために国防軍を当該国へ派遣して、万一、そのために戦争になったとしても憲法の規定に抵触しないことは言うまでもない。ただし、憲法上「国際紛争」というあいまいな表現を使用していることは大きな問題で、国内においても無用の議論を呼び、平和憲法というよりは近隣諸国に対して日本国への侵略を誘発する「侵略戦争誘発憲法」の一面を持っている。現憲法は米軍の占領がいつまで続くか分からない時代の占領憲法で、本来なら日本国が独立した時点で破棄され、新憲法が採択されるべきであったのです。それを政治家の怠慢で、現在までそのままにしてきたのが現実です。一刻も早く、日本はあいまいさのない、現代に合った憲法を持つべきです。

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