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「日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景」 (シリーズ日本人の誇り) 楊 素秋著、桜の花出版、2003年12月発行、¥1,365(税込み)

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著者は1932年、台湾・台南市生まれ(日本名:広山喜美子)。長榮女学校卒業。貿易、通訳、日本語教師など、多方面で活躍している。
昭和20年(1945年)の春、台南第一高等女学校の入学試験を受けるため、著者が疎開先の大社村から台南に汽車で戻っていた途中の出来事でした。大東亜戦争も末期で、台湾も度重なる米軍の空襲に見舞われており、その日も汽車が遅れ、ようやく乗れた汽車は膨らんだ多数の乗客でデッキのステップまで人が溢れていました。著者は何とかデッキのステップに立ち、鉄棒につかまった状態で列車が発車しましたが、そのうち、腕に捧げていた荷物の重みに耐え切れなくなり、列車が鉄橋の上を通過していたときに片方の足をステップから踏み外し、意識を失ってしまいました。しばらくして気がつくと、同乗していた日本軍の将校さんに助けられていたことが分かりました。
大東亜戦争で日本が敗戦国となったため、戦後、日本軍や日本の海外統治に対する悪意あるウソが反日勢力により世界に広められていますが、本書はそうした作り話とは無縁の、実際に当時を生きた台湾人による回想です。著者は古き良き日本時代を懐かしみ、戦後、中国人がやってきた後の台湾の悲劇を嘆いています。全体の内容が推察できるよう、以下に目次を掲載しておきます。
第一章 命の恩人は日本人
第二章 日本統治時代
第三章 素晴らしかった日本教育
第四章 優しい日本の兵隊さん
第五章 戦後、中国人がやって来た
第六章 日本人よ、しっかりしてください
第七章 想い出は永遠に・・・
日本は台湾でも、朝鮮でも、満洲でも、良いことだけをした。その実態の一端がうかがい知れる内容です。これらの国々や地域に日本がほんとうに謝らなければならないとしたら、それは戦前の日本が情報戦を軽視して、当時のアメリカで多数を占めていた反戦勢力に直接、訴えることをせず、大東亜戦争に至ってしまったことと、日本海軍の上層部がとんでもない戦い方をして戦争に負けてしまったことでしょう。
前記のように著者は命がけで入学試験を受けに行ったのですが、受験当日、空襲に遭い、結局、台南第一高等女学校へは行けなくなり、戦後、ミッションスクールであった台南市の長榮女学校へ行くことになった。
著者は本書で、あのとき命を救ってくれて、名前を告げずに去った日本兵に対して、「紫色の風呂敷包みを持っていた将校さん、今どこにいらっしゃいますか?どうかこの言葉が届きますように!私はいつも台湾から「ありがとうございました」と心に念じております!」と書いている(pp.41)。さらに、「私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻とはためいています」とも書いています(pp.272)。
なお、本書はコラムを読めば、明治時代(特に日清戦争)以降の日本内地と台湾との関わりの大要が分かるようになっている。
本書は「桜の花出版」“日本の誇りシリーズ”の第一巻目であり、以下の書籍が続いて出版されている。
・「帰らざる日本人‐台湾人として世界史から見ても日本の台湾統治は政策として上々だったと思います」、蔡敏三著、桜の花出版、二〇〇四

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・「母国は日本、祖国は台湾‐或る日本語族台湾人の告白」、柯徳三著、桜の花出版、二〇〇五

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・「素晴らしかった日本の先生とその教育」、楊應吟著、桜の花出版、二〇〇六

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・「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実‐大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇〇六

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・「フィリピン少年が見たカミカゼ‐幼い心に刻まれた優しい日本人たち」、ダニエル・H・ディゾン著、桜の花出版、二〇〇七

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・「アジアが今あるのは日本のお陰です‐スリランカの人々が語る歴史に於ける日本の役割」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇〇九

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・「少年の日の覚悟‐かつて日本人だった台湾少年たちの回想録」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇一〇

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「復員・引揚げの研究」田中宏巳著、新人物往来社、2010年6月発行、¥1,600+税

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著者は1943年、長野県松本市生まれ。早稲田大学第一文学部卒(史学科)。防衛大学校教授を勤めた。

「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~」門田隆将著、集英社、2010年4月発行、¥1,680(税込み)

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著者は1958年、高知県生まれのジャーナリスト(中央大学法学部卒)。本書は、終戦時、駐蒙軍司令官であった根本博陸軍中将が、在留邦人(4万人)および北支那方面の日本軍将兵(35万人)の日本内地への帰国に際して蒋介石から受けた恩を返すために、国共内戦で共産軍に追い詰められていた国民党軍を助けるため、戦後GHQの占領下、わずかな仲間と共に一命を賭して台湾へ密航して金門島の激戦を戦った実話(ノンフィクション)である。
1945年の日本の敗戦によって中華民国(蒋介石一派)が台湾の実効支配を開始したが、国際法上は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において日本が台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄するまでは、台湾は日本国の一部であった。

「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯 久美子著、新潮文庫、2008年7月発行、¥500(税込み)

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著者は1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て、現在、文筆業。本書は日米戦争の歴史に深く刻み込まれることになった硫黄島の戦いと、現地で日本軍の総指揮官として戦った栗林忠道陸軍中将についてのノンフィクションである。
「栗林が着任したとき(註:昭和19年6月)島には1000人ほどの住民がおり、・・貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。・・・栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。・・・島民の内地送還は七月三日から始まり、一四日までに完了した」(第二章より)
「(栗林中将が将兵に与えた)「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「負けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。・・・死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる「バンザイ突撃」を栗林は厳しく禁じた。それを将兵たちは忠実に守った。・・・すべては、内地で暮らす普通の人々の命をひとつでも多く救うためだった」(第三章より)
「栗林が立案した作戦の内容は・・“持久戦”と“水際放棄・後退配備”であった。栗林の判断は、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば当然行き着く結論だった。しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。・・・反対したのは海軍だけではなかった。硫黄島の陸軍幹部からも強い反対意見が出たのである。しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。・・・栗林は一九四四(昭和十九)年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将校の更迭を行っている」(第三章、第四章より)
「周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三六日間にわたって持ちこたえた。・・・日本軍約二万に対し、上陸してきた米軍は約六万。しかも後方には一〇万ともいわれる支援部隊がいた」(プロローグより)
「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。・・・米軍側の死傷者数二万八六八六名に対し、日本軍側は二万一一五二名。戦死者だけを見れば、米軍六八二一名、日本軍二万一二九名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである」(第一章より)
「先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである」(第四章より)
他書の感想にも記したことだが、はからずも本書でも、合理的に判断し、職人的に優秀な現場と、現場を知らず、あるいは知ろうともせず、科学的・合理的判断力の欠如した大本営を初めとする愚昧な国家指導層とが対照的にあぶり出されている。しかもその無能な指導層は、あろうことか栗林中将の訣別電報の内容を改ざんして新聞に発表していた。本書のタイトルになっている「散るぞ悲しき」というのは、その訣別電報の最後に添えられていた辞世の一首「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から採られている(新聞発表では、「散るぞ口惜し」)。本書の解説を書いた柳田邦男は、「栗林中将が二万の犠牲を無駄にしないために、率直に失敗の要因(註:中央の陸軍と海軍の対立による一貫性を欠いた防備方針や、戦争指導者たちのその場しのぎの弥縫策など)を戦訓として報告しても、何の都合があってか、いまだにその指摘は公には伏せられてしまうのだ。今に至るも日本の省庁のタテ割り行政と権益争いが改善されないのは、国民が血を流しても、その歴史の教訓を学ぼうとしないこの国のリーダーたちの心の貧困を示すもので、いまさらながら愕然とする」と書いている。政治家も官僚も、マスコミも学者も評論家も、今なお“文系支配”で、物事を事実に基づいて科学的・合理的に判断するという思考態度に欠ける人たちがこの国を動かしている。
あの戦争は戦う前から、国家の統治システムの優劣において、日本はアメリカに負けていた。明治維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力が政治権力を独占するために天皇制を利用した明治憲法(大日本帝国憲法)は、イギリス式の立憲君主制度(国王は君臨すれども統治せず)でもなく、さりとて天皇独裁でもない、政治責任の所在を極めてあいまいにできる中途半端な憲法であった。しかも憲法改正の発案権の問題や日本古来の天皇制の呪縛により、時代の変化に追随して改定することも出来ない文字通り不磨の大典と化してしまっていた。それはすべてを選挙で決し、責任の所在が明確で、合理的に国家を経営していく歴史を重ねてきていたアメリカの政治システムとは比ぶべくもなかった。日本は、あの戦争でアメリカと戦うことになった時点ですでに負けていたと言って良い。天皇の政治的権限こそ無くなったとはいえ、それは戦後の現代においても必ずしも十全に改善されているとは言えず、たとえ政権が交代しても、国家官僚組織の上層部が身分制度化していてほとんど変化が起こらない。このままいけば、いつかまた日本はあの戦争と類似の失敗を繰り返すことは目に見えている。民主主義制度である以上、政治のリーダーは国民が直接、選挙で選出すべきだし、国家官僚組織の上層部は身分制度ではなく任期制など、より人材の流動化を図れる工夫を加えて、選挙民の総意を国家運営により反映できるより機能的なシステムに改めるべきである。評論家や学者の中には民主主義を衆愚政治だと言って批判する愚者もいるが、三人寄れば文殊の知恵で、少なくとも単愚政治(独裁)よりは優れている。民主主義は、人類がこれまでに発明してきた政治システムの中で、構成員全体の総意を表現するのに最も適したシステムと言って過言ではない。
「二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある日、(栗林の妻)義井は夢を見た。死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目が覚めた。夢とわかってからも、義井の心は温かかった。夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。硫黄島を含む小笠原諸島が二三年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたらされたのは、それから間もなくのことである」(エピローグより)。類似のエピソードは惠隆之介もその著書「敵兵を救助せよ!」(草思社)の中で紹介しているし、筆者自身も数回体験したことがある。人間の魂は肉体が滅んでも消滅するものではなく、死者の魂は間違いなく別の世界で生きている。
本書は第37回大宅賞受賞作品であるが、その選評の一つに「きわめて文学性の高い傑作である」(藤原作弥)との言がある。柳田邦男は「過不足のない見事な構成と文脈だと感嘆した」と記している。読めば分かるが、心に響く達意の文章である。惠隆之介が「敵兵を救助せよ!」の「あとがき」に、「この物語が戦後、なぜわが国で書かれなかったのか疑問に思った」と記しているが、これらの著書を読んでみると、史実というものはどうもその内容にふさわしい書き手が現れるまでは、真実の姿を世に現さないように見える。ちなみに、本書は世界7カ国(米・英・韓・伊など)で翻訳出版されている。

「敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」惠隆之介著、草思社、2006年6月発行、¥1,785(税込み)

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著者は1954年、沖縄コザ市生まれ。防衛大学校卒業後、海上自衛隊を経て、現在グロリア・ビジネススクール校長。
本書は、大東亜戦争初期(1942年3月初め)、ジャワ島北方のスラバヤ沖での日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との海戦で日本艦隊に撃沈された英巡洋艦「エクゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名が漂流しているのを偶然発見した日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)が、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある危険な戦闘海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助した「雷」艦長、工藤俊作についての実話である。日本が戦争に敗れたため、戦勝国による日本を貶めるためのさまざまなウソ話が世界中に流布されているが、米軍が太平洋の島々で追い詰めた日本兵を片っ端から火炎放射器などで“処分”していった残虐さと比べると、大東亜戦争の正義がいずれの側にあったのかを如実に物語っている話である。
著者はさすがに海上自衛隊出身だけあって、本書には海軍史や戦史が詳述されている。そこから見えてくるものは、「細部に優れ、大局に劣る」、つまり、国民は職人的には優秀だが国家の指導層の経営力が劣る日本の姿であり、それは日本人の国民性だけではなく日本国家の統治システムに根ざしているようで、現在もさほど改善されているようには見えない。
なお、工藤俊作が山形県屋代郷で生まれた明治34年の3年後には日露戦争が勃発し、上村彦之丞中将(鹿児島出身)が指揮する第二艦隊が、撃沈したロシア東洋艦隊の巡洋艦「リューリック」の将兵627人を三隻の巡洋艦上に救助し、世界中から「日本武士道の実践」と称賛されている。
註:救助された当時の英国兵、サム・フォール氏の著書、“「ありがとう武士道―第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想」先田賢紀智訳、中山理監訳、麗澤大学出版会、2009年8月発行、¥1,680(税込)”も出版されている。

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「死生天命―佐久間艇長の遺書」 足立倫行著、ウェッジ、2011年12月、¥1,470(税込み)

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明治43年4月15日、岩国沖で訓練航行中の第六潜水艇が沈没、艇長以下14名の乗組員は絶命した。死に至るまで沈着に事に処した乗組員の行動をしたためた艇長の遺書は、国内外に大きな反響を呼んだ。佐久間艇長とはいかなる人物だったのか―。

目次
第1章 「佐久間艇長」を歩く(佐久間艇長の銅像;幼少時代;佐久間勉を訪ねて;海軍軍人への道;海軍への思い ほか)
第2部 資料編(遺書全文;第六潜水艇殉難者一覧;遺言;佐久間艇長の家系図;成田鋼太郎追悼文 ほか)

「評伝 廣瀬武夫」 安本寿久著、扶桑社、2010年12月発行、¥1,680(税込み)

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著者は1958年生まれ。1981年産経新聞社入社、産経新聞編集長。
本書は戦前、軍神と言われた廣瀬武夫の伝記である。廣瀬は明治維新の年(1868年5月)に生まれ、黎明期の日本海軍の軍人(海軍兵学校15期生)となり、日露戦争に出征。旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊主力部隊の活動を封じるため行われた旅順港口閉塞作戦で命を落とした。享年36、満35歳と10ヶ月であった。
廣瀬武夫は、明治元年、瀧廉太郎の“荒城の月”で知られる大分県竹田市(豊後、岡藩)で武家の次男として生まれた。尊王運動に奔走した父、重武が明治政府の役人として出仕し、遠隔地に単身赴任をしていたことに加え6歳で生母を失ったため、典型的な武士の妻であった祖母(智満子)に育てられた。長じて海軍士官となり、三国干渉後のロシアへ留学。日露戦争開戦前夜の国際関係のもと、親交を持ったロシア海軍コワリスキー大佐の娘、アリアズナとの恋は成就しなかった。廣瀬の死後、その死を聞かされたアリアズナは、その後、洋服の胸に喪章を着け、生涯外さなかったと言われている(註:日露戦争後のロシアの混乱もあり、アリアズナのその後を正確に知る記録は発見されていない)。明治35年初頭、酷寒のシベリア・満州経由で帰国した廣瀬は、日露戦争開戦後の旅順港口閉塞作戦に指揮官として参加し、第一次作戦で廣瀬が指揮した艦は成功。第二次作戦時、ロシア軍の砲撃で行方不明となった自ら選んだ指揮官付、杉野孫七一等兵曹を探しに三度船内へ戻り、それでも発見できずあきらめてカッターで帰還の途中、ロシア軍の直撃弾を後頭部に受け戦死(明治37年3月27日)。カッター上から吹き飛ばされた廣瀬の遺体は、数日後、旅順港口の海岸に漂着した遺体と推定されている。その服装から日本海軍の士官と考えられた遺体を、ロシア側は手厚く葬ったという。
当時の日本は国運を賭けた戦争で大国ロシアに勝利するため総力戦を戦い、明石元二郎陸軍大佐(後年、第七代台湾総督)らはヨーロッパやロシア、満州で組織的な諜報活動を行ってロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの継戦を困難にしたと言われている。ロシアについて著者は、「ロシア人ほど情に厚い国民は少ないという。しかし、国としてのロシアほど強欲で狡猾な国も少ないというのが、当時の欧州での評価である」と書いている。個人としての人間は、どこの国にも善人もいれば悪人もいて、その比率も大差ないように思われるが、集団になると大きな差が現れてくるのは一体何なのだろうか。歴史であったり、風土であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりと、さまざまな要因は考えられるが、まことに不思議なことである。日本はともかく日露戦争に勝利したものの、その後もロシアの南下(侵略)政策やロシアがソ連となった後の共産主義運動など、北からの脅威に悩まされ続けることになる。
日露戦争を戦うのに日本は一体どれくらいの戦費を必要としたのか。当時の一般会計の歳入の7年間分ほどだとされている。この巨額の戦費を調達するため日本は外債を発行したのだが、勝ち目が薄いと見られていた日本の外債は当初、引き受け手が現れず、時の日銀副総裁、高橋是清は非常に苦心した。その窮地を救ってくれたのは日英同盟を結んでいたイギリスの銀行家たちであり、さらにはロンドン滞在中に知遇を得たアメリカのユダヤ人銀行家ヤコブ・シフを通してのニューヨーク金融街であった。日英同盟は日露戦争開戦の2年前(明治35年)、シナの義和団事件の処理で活躍した日本軍の優秀さと規律正しさを評価したイギリスが、シナに持っている自国の権益を守るため“光栄ある孤立”を捨ててまで日本と結んだ対等の軍事協約である。その大量の外債を引き受けたアメリカのユダヤ系金融業の一人、シフの盟友である鉄道王ハリマンが、日露戦争講和後、南満州鉄道の共同経営を日本政府へ申入れ、桂太郎首相との間で取り交わした「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を、講和条約締結後に帰国した小村寿太郎外相や日露戦争の計画者であり実行部隊でもあった児玉源太郎陸軍大将などの反対で一方的に日本から断ったのが、その後のアメリカにおける排日運動の端緒となった。もしこのとき、日本がハリマンの申入れを受入れ、南満州鉄道の共同経営に踏み切っていたら、その後の日米関係も世界情勢もまったく様相を異にしていたであろうことは想像に難くない。明らかにこれは日本側の政治的失態であったと言わざるを得ない。もちろん、アメリカのユダヤ人金融業者たちは自分たちの利益のために日本の外債を引き受けたのであり、当時の日本の国情もあった。それでもなお筆者が失態と考えるのは、当時の国際情勢を冷徹に判断できなかった感情民族の欠点という意味だけではなく、日本人自身の信用を失墜させる忘恩の行為だと考えるからである。軍人がいくら優秀で勇敢であっても、金がなければ戦争は遂行できない。たとえアメリカのシナ大陸進出の野心が透けて見えていたとしても、日本はやはり窮地に支援してくれたアメリカには応えるべきであったと思う。それは国家として、また人間としての信義の問題である。
廣瀬武夫の葬儀は兄、勝比古(海軍軍人)の娘(馨子)が喪主となって行われた(海軍葬)。大正元年には「廣瀬中佐」という有名な文部省唱歌が作られ、昭和十年には郷里の竹田に廣瀬神社が創建された。明治期、海軍で軍神と呼ばれたのは廣瀬の外、佐久間勉大尉(潜水艇の事故で死亡した艇長)と東郷平八郎大将(連合艦隊司令長官)である。海軍の東郷平八郎には東郷神社が、陸軍の乃木希典には乃木神社が建立されている。
日露戦争における乃木将軍(陸軍)や上村将軍(海軍)が示した明治時代の武士道について、武士本来の道とは違うものだと著者は言う。「そもそも武家とは・・一所懸命で所領を守り、それを子孫に継がせるために戦に出るものである。・・・我欲のために生きるのが武士というものだ」(第6章より)。明治時代の武士道は、それとは異なる新しい無私の人格、つまりは死を前提とした戦いに身を置く軍人同士の共感に基づく、すぐれた人格に裏打ちされた指導者としての覚悟(noblesse oblige)とヒューマニズム(思いやり)がその本質だったのではないか。明治時代に「武士道」を世界に紹介した有名な書として、新渡戸稲造(1862年9月~1933年10月。盛岡藩士の三男、妻はアメリカ人)の“Bushido The Soul of Japan”(1900年発行、1905年に増訂版)がある。日本語訳は複数出版されているが、比較的新しい訳書に“「武士道」奈良本辰也訳・解説、三笠書房(文庫)、1993年1月発行、¥520(税込み)”がある。

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「米国特派員が撮った日露戦争」『コリアース゛』編集、小谷まさ代訳、波多野勝解説、草思社、2005年4月発行、¥2,940(税込み)

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米国のニュース週刊誌『コリアース゛』が総力を挙げて取材・撮影した従軍記録写真集から厳選して編集。日露戦争開戦前夜から日本海海戦までをカバーし、当時のリアルな戦争の実態を伝えていて、資料的価値が非常に高い写真集である。数多くの写真は私たちを往時へとタイムスリッブさせてくれ、歴史を抽象的な観念上の出来事としてではなく、生きた人間の営みだと分からせてくれる。日本海海戦の解説を世界的な海軍戦術の研究家として有名なA・T・マハン(アメリカの軍人で歴史家)が執筆している。
原書となった二冊の本を出版した(1904、1905年)『コリアーズ』(Colliers Weekly: An Illustrated Journal)は、1884年4月にアメリカでピーター・コリアーによって創刊された報道写真誌の先駆。1957年1月まで続いた。翻訳者の小谷まさ代は富山大学文理学部卒業の翻訳家。解説者は常磐大学教授。
「日露戦争は領土をめぐる戦いである。戦端を開くきっかけとなったのは、朝鮮と満州の領有をめぐる外交交渉の決裂だった。しかし対立の根本的な原因は、太平洋に向って氷河のようにじりじりと極東へ勢力を伸ばすロシアの南下政策と、それに危機感をつのらせた日本の防衛政策がぶつかりあったことである」(第1章)。第1章には戦争直前の日露交渉に関する電報が掲載されている。
「開戦当初のロシア軍を不利な立場に追い込んだ最大の理由は、本国の基地から前線までの途方もない距離であった」(第2章)。このことは、大東亜戦争を東亜だけで戦わずに太平洋戦争にしてしまった日本海軍の作戦上の誤ちを示唆している。
「日本軍は開戦から数日のあいだに二つの戦いでロシア艦艇に打撃を与え、さらには陸軍の仁川上陸まで無事に成功させ、実質的に制海権を掌握したのである」(第3章)。
「日本艦隊の攻撃によって旅順艦隊に打撃を受けたロシアは、海戦に力点をおくことができなくなり、満州での陸戦にそなえて兵力と物資の増強に総力を挙げた。・・・日本軍の行動は迅速だった。・・・日本軍が義州の四八キロ以内に迫ると、鴨緑江の南岸に進出していたロシア軍は塹壕を捨てて鴨緑江北岸に退却してしまったのである」(第4章)。
「冬のあいだ、日本の陸軍大部隊が強行軍で通過した道筋には、焼きはらわれた村もなければ、略奪で荒らされた家もなく、逃げまどう農民の姿などまったく見られなかった。軍隊内でも勝手な振舞いや騒動はいっさいなく、部隊が通過した村々に規律を乱した兵士の話は残されていない。長老たちが口をそろえて語るのは、規律厳正に粛々と行軍する兵士の姿である。行軍の途中で調達される補給物資の代金はすべて現地の市場価格できちんと支払われる。・・・いま我々が通過している韓国という国は、この二ヶ月のあいだに実に巧妙に日本化されていった。思いやりのある態度、公正な扱い、世論も個人も巧みに操る手際よさ、そういったもので日本はこの国を征服したのである」(第5章)。
「一九〇四年二月の開戦から数ヶ月間、ロシア軍を最も苦しめたのは、本国の基地から前線までの気の遠くなるような距離であった。ロシアと満州を結ぶ輸送路は単線のシベリア鉄道のみである。しかも当時はバイカル湖の凍結で鉄道は分断された状態だった」(第6章)。
「二日間にわたった鴨緑江畔での戦闘は、開戦以来最初の大規模な陸戦であり、兵力だけでなく機略・戦略においても敵を凌駕した日本軍が圧倒的な勝利を収めた。・・・自信過剰に陥って事態を楽観していたロシア軍は、まるで無為無策に兵を配置していた」、「鴨緑江の戦闘が終わると、日本軍は負傷兵の看護に力を尽くした。・・・日本軍はロシア人負傷兵を自国の兵と同じように看護したばかりか、ロシア軍が敗走するさいに遺棄していった戦死者を埋葬したのである。士官に対してはその階級に即して、日本陸軍士官と同等の扱いで丁重に葬った」(第7章)。
「廣瀬中佐は・・ロシア軍の放った一弾を身に受けて・・一片の肉塊をとどめただけだった。・・・本国到着後は、特別に選抜された将校たちによって東京まで護送され、葬儀の日には無数の熱狂した市民が墓所への沿道を埋め尽くしたという」(第8章)。
「日本軍にとって遼陽の会戦は、鴨緑江の渡河から四ヶ月にわたって進めてきた満州における軍事作戦のゴールともいえる戦闘であった。日露戦争において初めて両軍の主力が対決することとなったこの会戦には、近代戦史上最多の兵力が投入され、すさまじい死闘のすえに日本軍の勝利に終った。参加した将兵の数は日露両軍あわせて四〇万から五〇万、五日間におよぶ大会戦における両軍の死傷者は合計およそ三万人にものぼると推定されている」(第九章)。
「奉天へ退いたロシア軍は・・反撃に出ることを決意し・・沙河の会戦では・・およそ二週間後、日本軍の奮戦によって・・ついにロシア軍は沙河の北への退却を余儀なくされた」(第10章)。
「一九〇五(明治三八)年一月一日、旅順攻囲戦はようやく終焉を迎えた。半年におよぶ激烈な死闘のすえ、旅順はついに日本軍の手に落ちた・・・日本軍にとって二〇三高地の最大の価値は、旅順港に在泊するロシア艦船が一望できることである」(第11章)。
「投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数、いずれをとっても奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。・・・総兵力は七五万から八〇万人にのぼり、そのうちロシア軍は三六万一〇〇〇、日本軍は少なくとも四〇万であった。・・・奉天の周囲には防御線が何重にも構築され・・難攻不落と評される強大重厚な要塞だった。対する日本軍は東から西へ五つの軍を配置していた・・迂回包囲作戦である。この作戦は大成功を収めることになる」(第12章)。
「日本海海戦は日本海の制海権を争う日露の激突である。・・・大陸(満州)での陸戦を維持するためには海上輸送路の安全確保が必須であった。・・・連合艦隊は高速で運動して常に敵の全面を圧迫し、先頭部へ集中砲火を浴びせつづけた。・・・海戦初日の五月ニ七日、海上は南西からの強風が吹き荒れ、風浪が高かった。この気象は日本側に味方した。・・・やがて戦場は日没を迎えた。・・連合艦隊は主力による発砲を停止し、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。・・このとき偶然にも、それまで吹き荒れていた強風が弱まった。・・暗夜での水雷攻撃が容易になったのである。まさに天が日本側に味方したというべきである。・・・日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り、地上戦を支える生命線である海上補給路の安全を確保したのである」(第13章)。

「日露戦争、資金調達の戦い: 高橋是清と欧米バンカーたち」板谷敏彦著、新潮社、2012年2月発行、¥1,785(税込み)

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著者は1955年西宮市生まれ。関西学院大学経済学部卒業。製造業界を経て証券業界へ。現在、投資顧問会社社長。
本書は、「証券価格を通じて当時の外債募集談を再現し、金融市場の側面から日露戦争全体を見直そうと試みるものである」(序文)。当時の日本銀行副総裁高橋是清(1854~1936)と同秘書役の深井英五(1871~1945)の一九〇四年からの三年間にわたる資金調達の旅は、「明治維新を経た日本人が初めて本格的に国際金融市場に足を踏み入れた物語」(序文)であった。
「日本では、松方正義の奔走により、明治三〇年(一八九七年)に貨幣法を施行し(註:日清戦争の賠償金を元手に)金本位制を採用した。また同じ年にロシアも金本位制を採用している。・・・高橋是清が海外で外債募集に苦労している間、政府や日銀は外貨決済のためと金本位制度を維持するために、日本に残った金準備である正貨の残存量と戦っていたのである。・・・金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった。金本位制度の採用は、国際金融市場における戦時公債発行のための最低条件のひとつとも言えたのである。当時日本にとってロシアと戦争をするためには金本位制は欠かせない条件だったのだ。このことはロシアにとっても同じことであり・・・」、「高橋是清が公債発行のために欧米に赴いた一九〇四年頃のロンドンでは、マーチャント・バンクが圧倒的な力を持って国際金融市場における要の地位を占めていた。・・・当時のロンドン市場の主力金融機関は、ほとんどすべてがユダヤ資本である。・・国際資本市場であるロンドン市場にアクセスするということは、ユダヤ資本にアクセスするのと同じことなのである。」、「(クーン・ローブ商会のヤコブ・)シフが財務面でサポートし、(鉄道王エドワード・ヘンリー・)ハリマンがハンド・インで鉄道を経営した。・・・(アメリカで)二大グループは・・モルガンとヒル連合対シフとハリマン連合である。・・モルガンは大西洋に目を向け・・ハリマンとシフは、太平洋航路に目を向けた。」、「日露戦争のこの時代は、シティのマーチヤント・バンクがその絶頂を迎え、ウォール街のインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていたのである」(第二章)。
明治以降の日本の半島・大陸への進出を単純に侵略と見るアメリカ人が今でも多いのは、後背地を持たない島国である小国、日本にとって、中華思想や大国ロシアの南下政策がいかに恐ろしいものであるかを、大陸国家であるアメリカ人は皮膚感覚として理解できないからである(それでも1960年代初め、アメリカはソ連によるキューバへの核ミサイルの持込に狂乱した)。日本人にとっては古代に白村江の戦いがあり、中世には元寇があり、明治時代にはロシアが朝鮮半島に軍港(不凍港)を建設しようとした。現在でももし日米安全保障条約(や米韓相互防衛条約)が存在しなかったら、ロシアは容易に北海道へ侵攻し、中国は沖縄から九州地方を侵略してくるだろうと思う。朝鮮半島だってどうなるかは分からない。ロシアや中国の国家としての文化的・精神的レベルは、現在でもその程度だとしか判断のしようがない。
とにかく、日清戦争後の三国干渉で旅順港・大連港(不凍港)などをおさえたロシアは、シベリア鉄道を満洲へ延長し、ウラジオストック港と連携して太平洋艦隊を保持し、日本海の制海権を脅かしていた。これは世界が軍事的にあからさまな弱肉強食の時代にあって、日本にとって大きな国防上の脅威と映った。しかしながら、日露決戦を決断した日本は、「開戦直前の一九〇四年一月中旬において初めて、日本政府は資金調達の目処がつかないことを認識したのだった。」、「海外から物資を買うには金か、あるいは金の裏付けのしっかりした英国ポンドが要求されたのである。・・・日本には最初から、戦争をするだけの充分な正貨はなかったのだ」(第三章)。
国内産業もまだ絹産業程度しか持たない農業国であった日本が、莫大な戦費を調達するには外債を発行する以外に方法はなかったのだが、大国ロシアが相手であったことから日本の勝利を予想する者はほとんどなく、高橋是清がロンドンへ渡った当時、成功の目処はまったく立たなかった。当時のロシア帝国は、GDPも国家予算も人口も、陸軍の規模においてもほぼ日本の三倍であった(ただし、極東に回せた陸軍の兵力は、全体の40%程度だったとされている)。日清戦争に勝利し、近代化に成功しつつあった日本でさえ当時の国際金融市場での評価はその程度であったから、現代の韓国・朝鮮人が何を夢想しようとも、日清戦争で清国の属国から開放されたとはいえ、李氏朝鮮が外国と戦争をして自力で独立を維持しようとしても、資金的にまったく不可能であったことは議論の余地がない。もし日本が進出していなかったら、間違いなく朝鮮半島はロシア(後、ソ連)の一部になっていた(その場合は、日本自体もどうなっていたか分からない)。
窮地にいた高橋是清に救いの手を差し伸べてくれたのが、クーン・ローブ商会のヤコブ・シフとロンドンの銀行団であった。もちろん、シフらにもそれなりの思惑があったことは間違いないが、金がなければ戦争はできない。日露戦争が米英の資金によって戦えたことは歴史上の事実である。戦争の経過に伴う公債発行条件や価格の変化、日露戦争後の日本国の財務状況などについては本書を読んでいただくとして、最終的にかかった戦費はいくらになったか。「要した戦費15億円(註:日清戦争後の軍備拡張費を加えると約二十億円=二億ポンド)のうち、外国債が約7億円弱、当時の年間予算一般会計約2.5億円・・、全国銀行預金残高約7億6千万円」(第三章)、「ロシアは・・日本の戦費の二倍にもなるだろう。米国の南北戦争が四億ポンド(註:ほぼロシアの戦費と同額)」(第五章)である。「日本はこの戦争を通じて、国際金融市場における国家としての地位を大きく飛躍させたのである。・・・開戦直後のジャンク債からロシア並みの一・五流国程度には地位が上がった」(第五章)。
高橋是清はシフの恩義に報いるため、シフの盟友であるハリマンの極東行きを支援し、「桂・ハリマン協定」の成立を支持したようだ。「「桂・ハリマン協定」は・・米国政府を代表する公使と、日本政府アドバイザーと日本興業銀行総裁の三名によって作成されたものだった」(第六章)。元老達が賛同し、首相が同意したこの協定が実現しなかったのは、「日露戦争の実行部隊であり、計画者である大殊勲者でもある児玉源太郎(陸軍大将)は占領後の満州経営のあり方を(日本式の)植民地として考えていた」(第六章)からだった(ちなみに、後の“満州国”は満洲人の国家であり、必ずしも日本の植民地とは言えない)。「日本はゆっくりと、ハリマンやイギリスとアメリカの世論を騙していくのである」、「満州が門戸開放されたと考えていたイギリスやアメリカからは、クレームが付き始めた。・・・日露戦争に際し諸外国が日本に同情を寄せ軍費を供給したるは、日本が門戸開放主義を代表し、此主義のために戦うを明知したるが為なり。・・・日露戦争はイギリス・アメリカのファイナンス抜きでは日本は戦えなかった。・・・イギリスやアメリカにすれば、満州におけるロシアが日本に替わっただけでしかなかった」(第六章)。日本は誰の金で日露戦争を戦うことができたのかと米英が憤るのも無理はない。この事件は、本来が国家の道具であるべき視野の限られた軍人が政府首脳を動かしていった軍人優位と、以後、大東亜戦争の敗戦にいたるまでの日本の政治の傾向と欠陥とを象徴している。
「井上や伊藤達元老がこの案(註:「桂・ハリマン協定」のこと)に賛同した理由は、何も日本の資金不足のために南満州鉄道経営が重荷であると考えただけではなかった。新たに日本が経営する南満州鉄道は北から常にロシアの圧迫を受けることになるだろう。・・・アメリカの資本が入っていれば、日露二国間の問題では済まされずロシアも簡単には侵攻できないと考えたのである」(第六章)。著者は本書で、当時の日本が南満州鉄道経営においてもう少し柔軟であったなら、以後の世界の状況も日本の運命も変わっていたのではないかと述べて本書を締めくくっている。
本書は日露戦争時の資金調達の戦いを詳細に追ったものだが、凡百の歴史書や政治書を読むよりもはるかに良く日本の近現代史を理解する役に立つ。

「ワイルド・スワン」(上)(下)ユン・チアン著、土屋京子訳、講談社、1993年1月発行、各¥1,800(税込み)

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著者は1952年、中国四川省生まれ。ロンドン大学東洋アフリカ研究所勤務。訳者は1956年愛知県生まれの翻訳家(東京大学教養学部卒業)。
本書は歴史の研究書ではない。中国共産党幹部の家庭に生まれた著者が、現代中国を生きた祖母・母・本人の三代にわたっての苦難の歴史を描いたノンフィクションである。時代は清朝滅亡前夜から天安門事件に至るまで、地理的には満州から四川省の奥地にまで及んでいる。訳者は、「『鴻(ワイルド・スワン)』は、中国という現実を舞台に、中国民族を主役にして、驚くべき真実と人間の本質をみごとに描ききった。・・・『大地』(註:パールバック女史の小説)を超えたと言っていいのではないだろうか。」と述べている(“訳者あとがき”)。ただし、基本的には家族史であるため、時折添え物のように出てくる満州国や日中戦争、中国によるチベット侵略などについては、検証なしに中国共産党の公式見解を述べているだけである。著者の一家は毛沢東による文化大革命により翻弄され、現在も親族が共産主義中国に暮らしているため、毛沢東と文化大革命が中国に災厄をもたらしたということは強調されているが、それが共産主義というイデオロギーによる革命独裁政権の持つ本質から発している点についてはあまり触れられていない。共産主義中国は共産党という私的な一武装集団が乗っとり支配している地域のことを言い、国家そのものはその下に従属させられている。共に武力革命ではあっても、中国の共産主義革命が日本の明治維新と異なるのは、①プロレタリア独裁(共産主義)という誤ったイデオロギーに拠っているため、新体制下での出身階層による差別が異常、②旧体制の破壊に能力を発揮した主力メンバーが革命後の国家建設の時期まで生き残った、③漢民族の国土を越えて広大な領域を武力によって保持しようとした、④国民の教育レベルが異なった、など、さまざまな要素がある。そもそもプロレタリア独裁が国家・社会をよりよくするという理屈ほど筋の通らないものはない。プロレタリアというのは、資本(経済力)もない、特別の才能もない、知識も教養もないから、プロレタリアなのだ。そうした、言わば無知で無能で貧乏な人たちが社会の支配権を独占すれば、その社会は必然的に無知で無能で貧乏な社会にならざるを得ない。人間が他の動物と異なる最大の武器は、知識と智恵であることは明らかだ。建設機械を考えてみれば良い。土木工事を建設機械のない人海戦術で行うのと、建設機械を駆使して行う差は歴然だ。その建設機械を作り出す力は、自由な思考を基にした人間の知識と智恵なのだ。プロレタリアとは対極の位置にいる人間の知識と智恵こそが、国家・社会をよりよく、より豊にするのが真実である。プロレタリア独裁を主張する共産主義は、人類史上初めての愚者の集団的反乱だと言ってよい。だからこそ共産主義は、文化的に遅れ、福祉(共生の)思想の欠如した、経済的にも未発達な地域に広がっていったのです。悲惨なプロレタリアを救いたいという人道主義は、社会全体の協力(福祉)と教育とで実現する以外に有効な方法は無い。民主的な方法ではなく、武力で得た権力の独裁が毛沢東やスターリンを生むのは特に不思議なことではない。独裁の究極の姿は一人が全体を支配することだからだ。宗教で言えば一神教が独裁だ。旧約聖書を読めばそのことは明らかだ。ヤハウェ(GOD、神)はやりたい放題。旧約聖書はヤハウェによる虐殺と虐殺教唆のオンパレードである。ヤハウェは創造神で唯一神だといいながら、人間を創造するときなど「(複数の)我々の姿に似せて」と言っている。ヤハウェによって創造されたアダムとイヴの子孫が続いていくとき、アダムとイヴの子孫以外の人間が存在したとしか考えられない物語になっている。支離滅裂としか言いようがない。ヤハウェは結局、やりたい放題をやっただけだとしか考えられない。共産主義はそうした一神教から派生した鬼っ子と考えれば分かり易い。共生を必要とする人間社会に、このような“神”はいらない。こうした“神”は人間社会にただ禍をもたらすだけの存在である。
ともあれ、本書は家族史であり、家族史を通して現代中国の真実を描いたすぐれた文学作品と言って良い。悲惨な内容を描きながらも、(訳文も含めて)文章はバランスが取れていてとても美しい。
著者には他にも、毛沢東に関する著作“「マオ-誰も知らなかった毛沢東」(上)(下)、土屋京子訳、講談社、2005年11月発行”がある。

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文化大革命を中心に、共産党一党独裁の中華人民共和国成立以降の毛沢東の中国(中国共産党内部指導層の権力闘争)を描いた研究書に、「毛沢東秘録<上><下>」(産経新聞「毛沢東秘録取材班」著、産経新聞ニュースサービス、および扶桑社文庫、1999年および2001年)がある。

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「毛沢東と中国(上)(下)」(銭理群著、青土社)は、毛沢東と同時代を生き抜いた一知識人による中華人民共和国史である。

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