今から74年前の1937年7月7日夜10時40分ころ、盧溝橋付近の河川敷で演習を終了した日本軍駐屯軍第8中隊に対して、数発の実弾が撃ち込まれた。これが、いわゆる盧溝橋事件であり、日中戦争のきっかけとなった事件である。
これを偶発説とするのが現在の歴史学会の定説のようであるが、とんでもない話である。
中国共産党は、1932年4月26日瑞金の中華ソビエト共和国の名で対日宣戦布告を行って以来一貫して、反日(武装闘争)を中心政策として掲げてきた。1936年12月西安事件により、蒋介石に反日共同戦線を強要させたのであるが、蒋介石は共産党に次々に高いハードルを突き付け、翌年6月には、次のような状況に陥っていた。
「共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることになり、…1937年6月には、蒋介石は、…再度紅軍の行手を塞ごうとしていた。…共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲せん滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた。」(エドガー・スノー『中共雑記』)
この窮状を打開するとともに、国民党と日本を戦わせるという本来の目的のために打って出た謀略的な攻撃こそが、盧溝橋での銃撃であった。国民党29軍には、副参謀長をはじめとして、大量の共産党員を潜伏させていたことは、現在では中国側の資料により、詳細な人名まで明らかとなっている。潜伏共産党員兵士は部隊内で日本軍が攻撃してくるという扇動をしておいて、発砲事件を起こし、そしてその拡大が成功した、と言うのがことの実態であった。
支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた。」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)と述べている。その時はどう意味かわからなかったというが、今でははっきりしている。謀略攻撃が成功したことを知らせていたのである。
日本軍が、反撃を開始したのは、最初の発砲から7時間後の8日の5時半である。にもかかわらず、8日には延安の共産党中央から長文の電報が、蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府機関、軍隊団体などに対して大量に送られているのである。事前に筋書きを作り準備していなかったなら、当時の通信事情などからして、8日の朝日本軍が反撃した後、このような詳しい長文の電報を作成し、中央委員会の決済を経て全国に発信するなど絶対に不可能である。謀略が成功したのである。
日中戦争は、日本が起こしたかのように言われているのは、途方もない歴史偽造である。もしこの戦争が非難さるべきものであるとすれば、その戦争犯罪人は明らかに中国共産党なのである。