安政七(一八六〇)年に江戸城桜田門外において、攘夷を奉じた、水戸、薩摩藩の十八人の脱藩浪士が、白雪を血に朱く染めて、時の大老の井伊直弼を惨殺した。
井伊大老はペルリが来寇すると、幕閣に開国を進言して、勇断をもって日米和親条約と、安政五ヶ国条約の調印を断行し、開国に反対する尊攘派を圧迫して、安政の大獄をもたらした。暗殺者のうち十七人が、水戸藩の浪人だった。
井伊大老は、行年四十六歳だった。私はいまでも桜田門の前を通るたびに、救国の大恩人だった井伊大老の霊に、胸のなかで合掌して、感謝の誠を捧げている。
もし、無謀な攘夷派が国政を握ったとすれば、西洋列強が圧倒的な武力をもって、日本列島を侵略したことだろう。そうなれば、日本は焦土と化して、西洋列強によって分割され、清の二の舞となったことは疑いない。井伊直弼は、天皇への尊崇の念が篤かった。彦根の藩侯の庶子として生まれたために、三十六歳で藩主となるまで不遇だったが、二十代から本居宣長の『古事記伝』『玉(たま)勝間(かつま)』を繰り返し熟読するなど、国学と古道に傾倒した。「吾(わが)皇国の古事知らずてはかなはず」と、認(したた)めている。直弼は「儒教外道、神道正道」と、説いた。居合道の新心流に打ち込み、藩主となった後に、自らの流派として新心新流を立てた。禅を十三歳から修行し、当時の日本で一、二を争う高僧だった二十三世仙英禅師から、悟道の允許である印可証明を与えられ、袈裟血脈を授けられている。そのかたわら、歌道と茶道をきわめた教養人だった。藩主として徳政を行なった、名君だった。
井伊大老の勇断なしには、日本が亡びたことだった。今日でも、井伊大老を残殺した不逞浪人を、志士と呼んで称える人たちがいるが、とんでもないことだ。襲撃した浪人たちは、怯懦だった。大老が剣道の達人であることを知っていたから、まず駕籠へ向けて短筒を発射して、大老の腰を貫いた。もし武士の矜持があったら、大老と斬り結ぶべきだった。
大老を警護する藩士たちが、雪が降っていたために、刀を柄袋に入れていたが、鞘(さや)に払う暇(いとま)を与えなかった。武士の風上に置けない振る舞いだった。
幕府は文政八(一八二五)年に、安政令として知られる、異国船無二(むに)念(ねん)打払令を発している。異国船打払令として知られる。しかし、その十七年後に、西洋の軍艦の火砲の威力に怖(おじ)気(け)て、天保薪水令によって代えて、捕鯨船をはじめとする黒船に、水や薪を供給してもよいこととしていた。日米和親条約は幕閣が忍び難きを忍んで、結んだものだった。ペルリ艦隊が襲来すると、瓦版(かわらばん)に載った狂歌の「アメリカが来ても日本はつつがなし」のように、洋夷の圧倒的な武力に対抗する術(すべ)がなかった。この戯(ざ)れ歌は「恙無(つつがな)い」と、「筒(つつ)(大砲)」をかけている。
もちろん、井伊大老のほかにも、会津の松平容(かた)保(もり)藩主や、阿部正弘老中首座をはじめとして、開国が日本の存立を全うするために避けられないと判断して、避戦論を唱えた具眼の士も少なくなかった。尊攘派は情の激するところ時局を乱(みだ)して、大道を誤まっていた。ところが、水戸藩主の徳川斉昭公は来冦する黒船に対して、幕府につぎのように献策した。
「此度渡来ノアメリカ夷、重キ御制禁ヲ心得ナガラ 共驕傲無礼――始末 言語道断ニテ実ニ開闢以来之国耻(恥の俗字)。(略)夷賊ヲ御退治無之而ノミナラズ、万々一願之趣御聞済ニ相成候様ニテハ 乍憚 御国体ニ於テ相済申間敷 是決テ不可和ノ一ヶ条ニ候。(略)
槍劒手結ノ勝負ハ神国之所長ニ候、 槍劒 アラバ戦艦銃砲モ終ニ恐ルルニ足ラズ」
「アメリカの砲なぞ、恐れることはない。神国の長技である、槍と刀でかならず勝てる」というものだ。
ペルリ艦隊が嘉永六年に来襲し、翌年春に戻ると宣言して退去したあとで、阿部老中が諸大名だけでなく、開国か、攘夷か、百姓、町民まで対象にして、意見書を提出するように求めた。斉昭公は尊攘論の急先鋒だった。この時、井伊大老も意見書を提出して、「兵船を自負して恐嚇之姿無恥蛮夷之常態とハ乍(もうし)甲(ながら)実ニ可悪(にくむべき)之至ニ候」と述べ、二回目の意見書では、「暫(しばら)く兵端を不開(ひらかず)、年月を経て必勝万全を得る之術計ニ出可申哉」と、献策している。
井伊大老は明治の日本をつくった、先駆者だった。
私は昭和四十九年から翌年にかけて、昭和二十年元日からマッカーサー元帥が離日するまで、昭和天皇を中心としたノンフィクションを、『週刊新潮』に五十回にわたって連載した。昭和天皇の終戦へ向けた御懊悩について書きながら、日本国民の一人として、胸が強く締めつけられる想いがしたものだった。軍は「神州護持」「一億総突撃」「一億玉砕」を呼号して、本土決戦を準備していた。昭和二十年七月二十五日に、東京において第一総軍が幕僚副長会同を催した。この席上、第一総軍参謀長の須藤栄之助中将が、敵軍を水際で撃滅すべきことを強調したうえで、佐官の幕僚があらかじめ出席者に配布された軍通達を、読みあげた。
「決戦思想 攻勢ニ徹ス。(略)死ヌマデ攻勢ヲトル。(略)敵ヲツブシテシマフマデ一兵残ルマデ攻勢ヲトル」
しかし、九十九里浜の海岸陣地を守る「貼り付け師団」は、三、四十歳以上の中年の召集兵からなり、師団によっては小銃が十人に一挺しか渡っていなかった。第三十六軍は総軍に「自隊作成兵器」数について報告しているが、そのなかに「槍(やり)一五〇〇本」と記載されていた。
昭和天皇は陸軍侍従武官から、九十九里浜の本土決戦部隊に、小銃すら渡っていないという報告を聞かれて、国民を救う決断をされた。私は「槍一五〇〇本」と、暗然として書きながら、徳川斉昭公の百二十年以上前の意見書を思い出した。軍人に尊攘派の妖霊が乗り移っていた。愛国心と無知が結びつくと、おぞましい。二・二六事件の青年将校は、ロシア革命思想によって、誑(たぶら)かされていた。大元帥陛下が親しく統率される兵を私(わたくし)することによって、皇軍の光輝ある歴史に大きな汚点をのこした。宸襟(しんきん)を悩まし奉った罪は、あまりにも大きい。
これらの陸軍青年将校は、五・一五事件の海軍士官とともに、「革新将校」と呼ばれた。第二次大戦後に、ソ連によって操られていた左翼勢力が、「革新陣営」と呼ばれたのと同じことだった。二・二六事件の無知をきわめた青年将校は意識しなかったが、戦後の左翼と同じ穴に巣くう狢(むじな)だった。
天皇と中国の歴代の皇帝は、神を祭り、天と地のあいだをつなぐ祭祀王の役割を果すことでも、共通している。私は一九七九年に中国の招きによって、はじめて訪中した時に、北京で故宮に案内されて、天壇を参観した。辛亥革命によって清朝が崩壊した時に、北京に滞在していたフランスの学者は、こう記した。
「(フランス)領事館の年老いた中国人女中の心をもっぱら奪っている。『どういうことになるんでございましようかねえ?』と、彼女はド・ラ・バテイー夫人に向かって言ったものである。『雨乞いをなさる皇帝がもう北京にいなさらんとなりますとねえ』」(『辛亥革命見聞記』、ファルジュネル著、石川湧など訳、昭和四十五年、東洋文庫)
慶応三(一八六七)年に、大政奉還の大号令が発せられることによって、尊攘派による混乱が終熄して、神州に正気が戻った。東海の朝が明けたのだった。翌年三月に、明治天皇が天つ神と国つ神に誓われて、『五箇条の御誓文』を国民に下賜されることによって、明治新政府の大方針を示された。このなかで、「万機(ばんき)(すべて)公論(こうろん)ニ決スヘシ」「上下(しようか)心ヲ一ニシテ」と、宣布された。
『五箇条の御誓文』は、歴代の中国の皇帝と、日本の天皇がまったく異っていることを、示している。日本では天皇と国民が一つに、固く結ばれてきた。天皇から末端の国民まで、上下心が一つに結ばれている。
明治十五年には、『軍人勅諭』が下された。「朕ト一心ニナリテ力ヲ国家ノ保護ニ尽サハ我国ノ蒼生(そうせい)(国民)ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我国ノ威烈(いれつ)(威光)ハ大ニ世界ノ光華(こうか)トナリヌヘシ」と諭されたが、天皇と国民がこの国を一緒になって守ろうと、訴えている。
明治二十三年には、『教育勅語』が発せられた。やはり「朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳(けん)拳(けん)服膺(ふくよう)(謹んでよく守る)シテ咸(みな)(あまねく)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」とあり、天皇と国民が「徳ヲ一」つにしようと、呼びかけている。
このようなことは、中国ではまったく考えることができない。日本と違って、皇帝と国民は一体ではない。中国の属国として、〃ミニ中国〃であった朝鮮でも、同じことだった。
中国では、万世一系の皇統を戴くわが国と違って、易姓革命によって、王朝がしばしば交替した。