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資料室

「アメリカが畏怖した日本:真実の日米関係史」渡部昇一著、PHP新書、2011年6月発行、¥700(税別)

著者は1930年生まれの高名な上智大学名誉教授。幕末から現在に至るまでの日米関係の実相を本書で解説している(副題が「真実の日米関係史」となっている)。日露戦争直後からなぜアメリカが露骨な反日に傾き、ついには日米戦争を仕掛けるまでに至ったのか、日清戦争直前にアメリカが無法にハワイを併合しようとしたとき、日本が二隻の軍艦をホノルルに派遣して暗黙の抗議を行ったり、日露戦争後に「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を一方的に断ったのが契機になったというだけでなく、より複雑で多岐にわたる背景が存在していたことを時代を追って解明している。その底流には、アメリカを建国し支配者であり続けてきた白人の独善があり、人種差別の思想があったことを伺わせる。戦争には敗れたとは言え、もし日本があの自衛戦争(大東亜戦争)を戦っていなかったら、アジア・アフリカの開放もアメリカ国内での人種差別の撤廃もはるかに長い時間を要したであろうことは明らかです。人類史的に見れば、日本の戦死者も戦争犠牲者も決して犬死したわけではないことを日本人は理解すべきです。そういう意味で、戦後から現在にまで続く多くの学者・マスコミ・政治家など(著者は敗戦利得者と呼んでいる)が恥ずかしげも無く撒き散らす東京裁判史観(「コミンテルン史観」とも言える)に洗脳されることなく、冷静に真実を見極めることの大切さを教えられる書物です。
ちなみに著者は、サンフランシスコ講和条約11条の内容について、日本は東京裁判そのものを受入れたのではなく、諸判決(judgments)の刑期の変更・赦免には関係国過半数の同意を要するということを受入れただけのことであると本書で指摘している。

「白い人が仕掛けた黒い罠」高山正之著、ワック、2011年8月発行、¥1,400+税

著者は1942年、東京生まれのジャーナリスト。本書で著者は、東南アジアにおける白人による植民地支配の残虐さや、明治以降の日本の歴史の真の姿を追いながら、白人国家の残忍さや現在の中国と韓国・朝鮮のウソ、さらには、国内外の学者・言論人や各国政府のウソをも明らかにしている。「二十世紀はまさに日本の世紀だった。白人が君臨し、そして世界を支配する形を日本が崩したからだ。」、「奴隷をもち、残忍な戦争をし、略奪と強姦を喜びにしてきた国々にとって略奪も強姦もしない、奴隷も(欧米流の搾取・略奪の対象としての)植民地ももたない日本は煙たいどころか、存在してもらっては困る国に見えた。その伏流を見落とすと、近代史は見えてこない。」、「日本対白人国家プラス支那という対立構造ができ、先の戦争が起きた。」と歴史の真実を喝破している。シナの共産党独裁政府や韓国・朝鮮の政府を始め、各国の政府がそれぞれの政治的思惑からいかに歴史を捏造しようとも、長い人類の歴史において、もしアジアに日本という国が存在していなかったら、アジア・アフリカなどの有色人種が白人種の搾取・略奪の奴隷状態から開放されるのに百年以上のより長い時間を要したであろうことを否定することは出来まい。日本は今後も、神道(正直・清浄と誠の道、禊と祓い、共生の思想)と仏教(慈悲と平等の思想、輪廻転生と因果応報の思想、殺生・盗み・邪淫・ウソを最大の罪悪とする)を持たない、残忍で悪意に満ちた国々と共に生きていかなくてはならない。よほど日本人は真実を理解する努力をして対抗していかない限り、他国から食い物にされ続ける危険性があることを理解すべきです。一読に値する書。

「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」黄文雄著、徳間書店、2011年5月発行、¥952+税

著者は台湾出身の高名な文明評論家。縄文時代にまで遡りうる古代から現代にまで続く日本人の特質を、主として16世紀に西欧が日本と接触を始めたころからの訪日外国人による日本および日本人評を分析することにより明らかにしている。文明や国民性の特質は異質の文明や国民との比較によってのみ際立つものであり、外国出身である著者による分析は鋭く、類書とは一線を画している。過去の著名な訪日外国人による記録・見聞録を渉猟し、五つの観点(日本人の不屈の精神、美徳、勤勉、美意識、武士道精神)から日本と日本人とを論じている。本書にも述べられているように、文明や国民性というものは簡単に変化するものではなく、シナの共産党独裁政権や韓国・朝鮮政府のウソで固めた主張(捏造史観)がいかに滑稽なものであるかの傍証にもなっている。大虐殺や略奪を繰り返してきた歴史を持つシナ大陸の政権は「日本軍による南京大虐殺」を発明し、長い献女外交の歴史を持つ韓国・朝鮮は売春が違法でなかった時代の単なる民間の売春グループである慰安婦を騒ぎ立て、戦時中の法律に基づき日本本土で実施された女子勤労動員である女子挺身隊にならって工場や農村で働いた韓国・朝鮮人の「女子挺身隊」までを「性奴隷」と詐称する。お里が知れるというか、捏造するにしても他人のウソ(戦後の反日日本人や国賊的な日本の政治家による捏造)を利用するにしても、自国の歴史や経験、自民族の習性によってしか発想できないというのは、何とも哀れで滑稽な話である。
ちなみに、中国の共産党独裁政権が主張している南京大虐殺に関する内容は中国自身が南京事件(1927年)・済南事件(1928年)・通州事件(1937年)などで日本人居留民(在留邦人)に対して行ったことであり、現在、韓国が主張している従軍慰安婦に関する内容は朝鮮戦争のとき韓国自身と米軍とが行ったことである。中国・韓国の独立記念館のような他国に罪悪を転化する創作は日本人には考えも及ばず、かえって彼らの指導層の狡猾さと残虐性を露にしている典型である。
註:本書の続編として、より個人に光を当てた“「世界から絶賛される日本人」徳間書店、2011年12月発行、¥1,050(税込み)”が出版されている。なお、著者には、“「命がけの夢に生きた日本人」青春出版社、2006年3月発行”という著書もある。
本書と類似の書物に、呉善花著、「なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか」(PHP研究所、2012年7月発行、¥1,680)がある。

「日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景」 (シリーズ日本人の誇り) 楊 素秋著、桜の花出版、2003年12月発行、¥1,365(税込み)


著者は1932年、台湾・台南市生まれ(日本名:広山喜美子)。長榮女学校卒業。貿易、通訳、日本語教師など、多方面で活躍している。
昭和20年(1945年)の春、台南第一高等女学校の入学試験を受けるため、著者が疎開先の大社村から台南に汽車で戻っていた途中の出来事でした。大東亜戦争も末期で、台湾も度重なる米軍の空襲に見舞われており、その日も汽車が遅れ、ようやく乗れた汽車は膨らんだ多数の乗客でデッキのステップまで人が溢れていました。著者は何とかデッキのステップに立ち、鉄棒につかまった状態で列車が発車しましたが、そのうち、腕に捧げていた荷物の重みに耐え切れなくなり、列車が鉄橋の上を通過していたときに片方の足をステップから踏み外し、意識を失ってしまいました。しばらくして気がつくと、同乗していた日本軍の将校さんに助けられていたことが分かりました。
大東亜戦争で日本が敗戦国となったため、戦後、日本軍や日本の海外統治に対する悪意あるウソが反日勢力により世界に広められていますが、本書はそうした作り話とは無縁の、実際に当時を生きた台湾人による回想です。著者は古き良き日本時代を懐かしみ、戦後、中国人がやってきた後の台湾の悲劇を嘆いています。全体の内容が推察できるよう、以下に目次を掲載しておきます。
第一章 命の恩人は日本人
第二章 日本統治時代
第三章 素晴らしかった日本教育
第四章 優しい日本の兵隊さん
第五章 戦後、中国人がやって来た
第六章 日本人よ、しっかりしてください
第七章 想い出は永遠に・・・
日本は台湾でも、朝鮮でも、満洲でも、良いことだけをした。その実態の一端がうかがい知れる内容です。これらの国々や地域に日本がほんとうに謝らなければならないとしたら、それは戦前の日本が情報戦を軽視して、当時のアメリカで多数を占めていた反戦勢力に直接、訴えることをせず、大東亜戦争に至ってしまったことと、日本海軍の上層部がとんでもない戦い方をして戦争に負けてしまったことでしょう。
前記のように著者は命がけで入学試験を受けに行ったのですが、受験当日、空襲に遭い、結局、台南第一高等女学校へは行けなくなり、戦後、ミッションスクールであった台南市の長榮女学校へ行くことになった。
著者は本書で、あのとき命を救ってくれて、名前を告げずに去った日本兵に対して、「紫色の風呂敷包みを持っていた将校さん、今どこにいらっしゃいますか?どうかこの言葉が届きますように!私はいつも台湾から「ありがとうございました」と心に念じております!」と書いている(pp.41)。さらに、「私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻とはためいています」とも書いています(pp.272)。
なお、本書はコラムを読めば、明治時代(特に日清戦争)以降の日本内地と台湾との関わりの大要が分かるようになっている。
本書は「桜の花出版」“日本の誇りシリーズ”の第一巻目であり、以下の書籍が続いて出版されている。
・「帰らざる日本人‐台湾人として世界史から見ても日本の台湾統治は政策として上々だったと思います」、蔡敏三著、桜の花出版、二〇〇四
・「母国は日本、祖国は台湾‐或る日本語族台湾人の告白」、柯徳三著、桜の花出版、二〇〇五
・「素晴らしかった日本の先生とその教育」、楊應吟著、桜の花出版、二〇〇六
・「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実‐大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇〇六
・「フィリピン少年が見たカミカゼ‐幼い心に刻まれた優しい日本人たち」、ダニエル・H・ディゾン著、桜の花出版、二〇〇七
・「アジアが今あるのは日本のお陰です‐スリランカの人々が語る歴史に於ける日本の役割」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇〇九
・「少年の日の覚悟‐かつて日本人だった台湾少年たちの回想録」、桜の花出版編集部、桜の花出版、二〇一〇

「復員・引揚げの研究」田中宏巳著、新人物往来社、2010年6月発行、¥1,600+税

著者は1943年、長野県松本市生まれ。早稲田大学第一文学部卒(史学科)。防衛大学校教授を勤めた。

「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~」門田隆将著、集英社、2010年4月発行、¥1,680(税込み)


著者は1958年、高知県生まれのジャーナリスト(中央大学法学部卒)。本書は、終戦時、駐蒙軍司令官であった根本博陸軍中将が、在留邦人(4万人)および北支那方面の日本軍将兵(35万人)の日本内地への帰国に際して蒋介石から受けた恩を返すために、国共内戦で共産軍に追い詰められていた国民党軍を助けるため、戦後GHQの占領下、わずかな仲間と共に一命を賭して台湾へ密航して金門島の激戦を戦った実話(ノンフィクション)である。
1945年の日本の敗戦によって中華民国(蒋介石一派)が台湾の実効支配を開始したが、国際法上は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において日本が台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄するまでは、台湾は日本国の一部であった。

「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯 久美子著、新潮文庫、2008年7月発行、¥500(税込み)


著者は1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て、現在、文筆業。本書は日米戦争の歴史に深く刻み込まれることになった硫黄島の戦いと、現地で日本軍の総指揮官として戦った栗林忠道陸軍中将についてのノンフィクションである。
「栗林が着任したとき(註:昭和19年6月)島には1000人ほどの住民がおり、・・貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。・・・栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。・・・島民の内地送還は七月三日から始まり、一四日までに完了した」(第二章より)
「(栗林中将が将兵に与えた)「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「負けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。・・・死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる「バンザイ突撃」を栗林は厳しく禁じた。それを将兵たちは忠実に守った。・・・すべては、内地で暮らす普通の人々の命をひとつでも多く救うためだった」(第三章より)
「栗林が立案した作戦の内容は・・“持久戦”と“水際放棄・後退配備”であった。栗林の判断は、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば当然行き着く結論だった。しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。・・・反対したのは海軍だけではなかった。硫黄島の陸軍幹部からも強い反対意見が出たのである。しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。・・・栗林は一九四四(昭和十九)年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将校の更迭を行っている」(第三章、第四章より)
「周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三六日間にわたって持ちこたえた。・・・日本軍約二万に対し、上陸してきた米軍は約六万。しかも後方には一〇万ともいわれる支援部隊がいた」(プロローグより)
「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。・・・米軍側の死傷者数二万八六八六名に対し、日本軍側は二万一一五二名。戦死者だけを見れば、米軍六八二一名、日本軍二万一二九名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである」(第一章より)
「先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである」(第四章より)
他書の感想にも記したことだが、はからずも本書でも、合理的に判断し、職人的に優秀な現場と、現場を知らず、あるいは知ろうともせず、科学的・合理的判断力の欠如した大本営を初めとする愚昧な国家指導層とが対照的にあぶり出されている。しかもその無能な指導層は、あろうことか栗林中将の訣別電報の内容を改ざんして新聞に発表していた。本書のタイトルになっている「散るぞ悲しき」というのは、その訣別電報の最後に添えられていた辞世の一首「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から採られている(新聞発表では、「散るぞ口惜し」)。本書の解説を書いた柳田邦男は、「栗林中将が二万の犠牲を無駄にしないために、率直に失敗の要因(註:中央の陸軍と海軍の対立による一貫性を欠いた防備方針や、戦争指導者たちのその場しのぎの弥縫策など)を戦訓として報告しても、何の都合があってか、いまだにその指摘は公には伏せられてしまうのだ。今に至るも日本の省庁のタテ割り行政と権益争いが改善されないのは、国民が血を流しても、その歴史の教訓を学ぼうとしないこの国のリーダーたちの心の貧困を示すもので、いまさらながら愕然とする」と書いている。政治家も官僚も、マスコミも学者も評論家も、今なお“文系支配”で、物事を事実に基づいて科学的・合理的に判断するという思考態度に欠ける人たちがこの国を動かしている。
あの戦争は戦う前から、国家の統治システムの優劣において、日本はアメリカに負けていた。明治維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力が政治権力を独占するために天皇制を利用した明治憲法(大日本帝国憲法)は、イギリス式の立憲君主制度(国王は君臨すれども統治せず)でもなく、さりとて天皇独裁でもない、政治責任の所在を極めてあいまいにできる中途半端な憲法であった。しかも憲法改正の発案権の問題や日本古来の天皇制の呪縛により、時代の変化に追随して改定することも出来ない文字通り不磨の大典と化してしまっていた。それはすべてを選挙で決し、責任の所在が明確で、合理的に国家を経営していく歴史を重ねてきていたアメリカの政治システムとは比ぶべくもなかった。日本は、あの戦争でアメリカと戦うことになった時点ですでに負けていたと言って良い。天皇の政治的権限こそ無くなったとはいえ、それは戦後の現代においても必ずしも十全に改善されているとは言えず、たとえ政権が交代しても、国家官僚組織の上層部が身分制度化していてほとんど変化が起こらない。このままいけば、いつかまた日本はあの戦争と類似の失敗を繰り返すことは目に見えている。民主主義制度である以上、政治のリーダーは国民が直接、選挙で選出すべきだし、国家官僚組織の上層部は身分制度ではなく任期制など、より人材の流動化を図れる工夫を加えて、選挙民の総意を国家運営により反映できるより機能的なシステムに改めるべきである。評論家や学者の中には民主主義を衆愚政治だと言って批判する愚者もいるが、三人寄れば文殊の知恵で、少なくとも単愚政治(独裁)よりは優れている。民主主義は、人類がこれまでに発明してきた政治システムの中で、構成員全体の総意を表現するのに最も適したシステムと言って過言ではない。
「二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある日、(栗林の妻)義井は夢を見た。死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目が覚めた。夢とわかってからも、義井の心は温かかった。夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。硫黄島を含む小笠原諸島が二三年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたらされたのは、それから間もなくのことである」(エピローグより)。類似のエピソードは惠隆之介もその著書「敵兵を救助せよ!」(草思社)の中で紹介しているし、筆者自身も数回体験したことがある。人間の魂は肉体が滅んでも消滅するものではなく、死者の魂は間違いなく別の世界で生きている。
本書は第37回大宅賞受賞作品であるが、その選評の一つに「きわめて文学性の高い傑作である」(藤原作弥)との言がある。柳田邦男は「過不足のない見事な構成と文脈だと感嘆した」と記している。読めば分かるが、心に響く達意の文章である。惠隆之介が「敵兵を救助せよ!」の「あとがき」に、「この物語が戦後、なぜわが国で書かれなかったのか疑問に思った」と記しているが、これらの著書を読んでみると、史実というものはどうもその内容にふさわしい書き手が現れるまでは、真実の姿を世に現さないように見える。ちなみに、本書は世界7カ国(米・英・韓・伊など)で翻訳出版されている。

「敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」惠隆之介著、草思社、2006年6月発行、¥1,785(税込み)

著者は1954年、沖縄コザ市生まれ。防衛大学校卒業後、海上自衛隊を経て、現在グロリア・ビジネススクール校長。
本書は、大東亜戦争初期(1942年3月初め)、ジャワ島北方のスラバヤ沖での日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との海戦で日本艦隊に撃沈された英巡洋艦「エクゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名が漂流しているのを偶然発見した日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)が、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある危険な戦闘海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助した「雷」艦長、工藤俊作についての実話である。日本が戦争に敗れたため、戦勝国による日本を貶めるためのさまざまなウソ話が世界中に流布されているが、米軍が太平洋の島々で追い詰めた日本兵を片っ端から火炎放射器などで“処分”していった残虐さと比べると、大東亜戦争の正義がいずれの側にあったのかを如実に物語っている話である。
著者はさすがに海上自衛隊出身だけあって、本書には海軍史や戦史が詳述されている。そこから見えてくるものは、「細部に優れ、大局に劣る」、つまり、国民は職人的には優秀だが国家の指導層の経営力が劣る日本の姿であり、それは日本人の国民性だけではなく日本国家の統治システムに根ざしているようで、現在もさほど改善されているようには見えない。
なお、工藤俊作が山形県屋代郷で生まれた明治34年の3年後には日露戦争が勃発し、上村彦之丞中将(鹿児島出身)が指揮する第二艦隊が、撃沈したロシア東洋艦隊の巡洋艦「リューリック」の将兵627人を三隻の巡洋艦上に救助し、世界中から「日本武士道の実践」と称賛されている。
註:救助された当時の英国兵、サム・フォール氏の著書、“「ありがとう武士道―第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想」先田賢紀智訳、中山理監訳、麗澤大学出版会、2009年8月発行、¥1,680(税込)”も出版されている。

「死生天命―佐久間艇長の遺書」 足立倫行著、ウェッジ、2011年12月、¥1,470(税込み)

「評伝 廣瀬武夫」 安本寿久著、扶桑社、2010年12月発行、¥1,680(税込み)


著者は1958年生まれ。1981年産経新聞社入社、産経新聞編集長。
本書は戦前、軍神と言われた廣瀬武夫の伝記である。廣瀬は明治維新の年(1868年5月)に生まれ、黎明期の日本海軍の軍人(海軍兵学校15期生)となり、日露戦争に出征。旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊主力部隊の活動を封じるため行われた旅順港口閉塞作戦で命を落とした。享年36、満35歳と10ヶ月であった。
廣瀬武夫は、明治元年、瀧廉太郎の“荒城の月”で知られる大分県竹田市(豊後、岡藩)で武家の次男として生まれた。尊王運動に奔走した父、重武が明治政府の役人として出仕し、遠隔地に単身赴任をしていたことに加え6歳で生母を失ったため、典型的な武士の妻であった祖母(智満子)に育てられた。長じて海軍士官となり、三国干渉後のロシアへ留学。日露戦争開戦前夜の国際関係のもと、親交を持ったロシア海軍コワリスキー大佐の娘、アリアズナとの恋は成就しなかった。廣瀬の死後、その死を聞かされたアリアズナは、その後、洋服の胸に喪章を着け、生涯外さなかったと言われている(註:日露戦争後のロシアの混乱もあり、アリアズナのその後を正確に知る記録は発見されていない)。明治35年初頭、酷寒のシベリア・満州経由で帰国した廣瀬は、日露戦争開戦後の旅順港口閉塞作戦に指揮官として参加し、第一次作戦で廣瀬が指揮した艦は成功。第二次作戦時、ロシア軍の砲撃で行方不明となった自ら選んだ指揮官付、杉野孫七一等兵曹を探しに三度船内へ戻り、それでも発見できずあきらめてカッターで帰還の途中、ロシア軍の直撃弾を後頭部に受け戦死(明治37年3月27日)。カッター上から吹き飛ばされた廣瀬の遺体は、数日後、旅順港口の海岸に漂着した遺体と推定されている。その服装から日本海軍の士官と考えられた遺体を、ロシア側は手厚く葬ったという。
当時の日本は国運を賭けた戦争で大国ロシアに勝利するため総力戦を戦い、明石元二郎陸軍大佐(後年、第七代台湾総督)らはヨーロッパやロシア、満州で組織的な諜報活動を行ってロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの継戦を困難にしたと言われている。ロシアについて著者は、「ロシア人ほど情に厚い国民は少ないという。しかし、国としてのロシアほど強欲で狡猾な国も少ないというのが、当時の欧州での評価である」と書いている。個人としての人間は、どこの国にも善人もいれば悪人もいて、その比率も大差ないように思われるが、集団になると大きな差が現れてくるのは一体何なのだろうか。歴史であったり、風土であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりと、さまざまな要因は考えられるが、まことに不思議なことである。日本はともかく日露戦争に勝利したものの、その後もロシアの南下(侵略)政策やロシアがソ連となった後の共産主義運動など、北からの脅威に悩まされ続けることになる。
日露戦争を戦うのに日本は一体どれくらいの戦費を必要としたのか。当時の一般会計の歳入の7年間分ほどだとされている。この巨額の戦費を調達するため日本は外債を発行したのだが、勝ち目が薄いと見られていた日本の外債は当初、引き受け手が現れず、時の日銀副総裁、高橋是清は非常に苦心した。その窮地を救ってくれたのは日英同盟を結んでいたイギリスの銀行家たちであり、さらにはロンドン滞在中に知遇を得たアメリカのユダヤ人銀行家ヤコブ・シフを通してのニューヨーク金融街であった。日英同盟は日露戦争開戦の2年前(明治35年)、シナの義和団事件の処理で活躍した日本軍の優秀さと規律正しさを評価したイギリスが、シナに持っている自国の権益を守るため“光栄ある孤立”を捨ててまで日本と結んだ対等の軍事協約である。その大量の外債を引き受けたアメリカのユダヤ系金融業の一人、シフの盟友である鉄道王ハリマンが、日露戦争講和後、南満州鉄道の共同経営を日本政府へ申入れ、桂太郎首相との間で取り交わした「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を、講和条約締結後に帰国した小村寿太郎外相や日露戦争の計画者であり実行部隊でもあった児玉源太郎陸軍大将などの反対で一方的に日本から断ったのが、その後のアメリカにおける排日運動の端緒となった。もしこのとき、日本がハリマンの申入れを受入れ、南満州鉄道の共同経営に踏み切っていたら、その後の日米関係も世界情勢もまったく様相を異にしていたであろうことは想像に難くない。明らかにこれは日本側の政治的失態であったと言わざるを得ない。もちろん、アメリカのユダヤ人金融業者たちは自分たちの利益のために日本の外債を引き受けたのであり、当時の日本の国情もあった。それでもなお筆者が失態と考えるのは、当時の国際情勢を冷徹に判断できなかった感情民族の欠点という意味だけではなく、日本人自身の信用を失墜させる忘恩の行為だと考えるからである。軍人がいくら優秀で勇敢であっても、金がなければ戦争は遂行できない。たとえアメリカのシナ大陸進出の野心が透けて見えていたとしても、日本はやはり窮地に支援してくれたアメリカには応えるべきであったと思う。それは国家として、また人間としての信義の問題である。
廣瀬武夫の葬儀は兄、勝比古(海軍軍人)の娘(馨子)が喪主となって行われた(海軍葬)。大正元年には「廣瀬中佐」という有名な文部省唱歌が作られ、昭和十年には郷里の竹田に廣瀬神社が創建された。明治期、海軍で軍神と呼ばれたのは廣瀬の外、佐久間勉大尉(潜水艇の事故で死亡した艇長)と東郷平八郎大将(連合艦隊司令長官)である。海軍の東郷平八郎には東郷神社が、陸軍の乃木希典には乃木神社が建立されている。
日露戦争における乃木将軍(陸軍)や上村将軍(海軍)が示した明治時代の武士道について、武士本来の道とは違うものだと著者は言う。「そもそも武家とは・・一所懸命で所領を守り、それを子孫に継がせるために戦に出るものである。・・・我欲のために生きるのが武士というものだ」(第6章より)。明治時代の武士道は、それとは異なる新しい無私の人格、つまりは死を前提とした戦いに身を置く軍人同士の共感に基づく、すぐれた人格に裏打ちされた指導者としての覚悟(noblesse oblige)とヒューマニズム(思いやり)がその本質だったのではないか。明治時代に「武士道」を世界に紹介した有名な書として、新渡戸稲造(1862年9月~1933年10月。盛岡藩士の三男、妻はアメリカ人)の“Bushido The Soul of Japan”(1900年発行、1905年に増訂版)がある。日本語訳は複数出版されているが、比較的新しい訳書に“「武士道」奈良本辰也訳・解説、三笠書房(文庫)、1993年1月発行、¥520(税込み)”がある。

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