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ペルリ来寇から今日までを論ず 加瀬英明  その1 ペルリ来寇と曲彔

2011年6月30日 木曜日

私はイギリスの著名なジャーナリストを共著者として、英文でペルリ来寇から今日までを論じた本を、執筆中である。ニューヨークの一流出版社が、刊行することになっている。
ペルリは西洋が世界を征覇した力を誇示して、傍若無人に振舞った。日本に開国と不平等条約を強いることによって、神州を穢した。江戸時代の日本は庶民にいたるまで、世界で徳性がもっとも高い国家を形成していた。(拙著〈『徳の国富論』、平成二十一年、自由社〉を、お読み頂きたい。)

ペルリは先の戦争までは、白禍と呼んだ西洋帝国主義の尖兵として、日本を屈伏させて引き揚げていった。
私はペルリに同行した画家が、久里浜で幕吏と談判する模様を描いた銅版画をアメリカの古美術店で手に入れて、所蔵している。

幕府が造った急拵えの接待所で、日米両側が曲彔(きよくろく)に腰掛けて対峙している。あの時代の日本には椅子がまったくなかったから、幕府が町役人と村役人に命じて、周辺の寺から仏僧が葬儀にあたって腰掛ける曲彔を、かき集めたのだった。ペルリ来寇は幕藩体制に終止符を打って、古い日本を葬ったから、曲彔はふさわしかった。だが、ペルリは曲彔に座って、幕吏を睥睨しながら、まさか、自分が西洋帝国主義を葬り去ることになるとは、夢にも想わなかったはずである。

私は共著者と、ペルリは日本に対して勝閧をあげたが、「パンドラの箱」をあけてしまったという筋書きにそって書くことで、合意している。この「パンドラの箱」は、ギリシア神話にでてくる。ゼウスがあらゆる災いを封じ込めた箱を、パンドラに命じて人間界まで持たせ、箱を開くとあらゆる不幸が飛び出してしまったが、一つだけ希望が残ったというものだ。ペルリは日本を強引に開国させて、穢れを撒き散らした。だが、日本が近代化することに成功し、日露戦争に勝ったことによって、西洋の苛酷な支配のもとで数世紀にわたって呻吟していたアジア・アフリカの民に、日本という希望をもたらした。

ペルリ艦隊が嘉永六(一八五三)年に浦賀沖に姿を現わしてから九十三年たった後に、日本国民が第二次大戦を戦ったことによって、アジアを解放し、その高波がアフリカも洗って、西洋による覇権を覆したから、ペルリはまさに「パンドラの箱」を開けたのだった。日本は国家としては敗れたが、民族として勝ったのだった。日本の力によって人類史において人種平等の世界が、はじめて招き寄せられた。大戦後しばらくして、白禍が一掃された。

ところが、共著者とのあいだで歴史認識が異なるために、そのたびに議論を応酬することになる。
日本がアジアを解放した結果として、今日の中国の興隆がもたらされた、というところまではよいが、阿片戦争に敗れたことが、中国に日本にとってのペルリ来冦と同じ深い屈辱をもたらしたと、書いて送ってきた。そこで、孫文をはじめ漢民族は、満族の清朝がイギリスに対して阿片戦争に敗れたのに歓喜したから、日本の場合とまったく異ると、反論した。すると、その翌週にイギリスの権威ある週刊『エコノミスト』誌(二〇一一年二月十九日号)が、私の言い分を裏書きしてくれた。中国を論じた近刊の書評のなかで、清は異民族による王朝だったので、孫逸仙(孫文のこと)は中国を半植民地化していた西洋の列強や、満州を略取したロシアや、台湾を奪った日本よりも、清朝のほうをはるかに強く憎んでいたが、中国共産党政権が満族を中華民族――中国人に含めることによって、歴史を捩じ曲げたと述べていた。

孫文たち革命派は「滅満興漢」「駆逐韃靼(だったん)」を掲げて、中華を再建することを目指した。韃靼は元(げん)のモンゴル人を指した言葉だったが、清時代には満族を意味した。
私は二〇〇二年に、アメリカの親しい軍事史の作家を共著者として、神風特攻隊を顕彰する著作『日本の特攻の神々Japan’s Suicide Gods』を、イギリス最大の出版社であるロングマン社から刊行した。ウィンストン・チャーチルが、最初の著書をだした出版社として知られる。私は本書を通じて日本の気高い文化と、歴史を伝えたかった。だが、日本人だけが著者であると、外国人に日本の宣伝だという誤解を招くので、アメリカ人の共著者を求めた。

このように外国の共著者と本を書くことができるようになったのは、eメイルのおかげである。この本はその後、エストニア語、スペイン語、ポーランド語、フインランド語に訳出されている。ペルリ来襲から始まる新著も、日本の正しい姿を世界にひろく知らせたいという願いを、こめている。黒船が日本の沿岸に現われて、はじめて狼耤を働いたのが、蝦夷ヶ島(当時、北海道、樺太、千島をそう呼んだ)の北辺の択捉(エトロフ)島だった。文化四(一八〇七)年に、ロシア軍艦が択捉島のシャナ沖に現われて、兵を上陸させ、南部藩、津軽藩の守備隊と交戦して、武士たちを潰走させた。シャナ戦争として記憶される。
南蛮船は和船と異って、木造の船体の腐蝕と水漏れを防ぐために、コールタールを塗っていたから黒かった。アメリカの捕鯨船が日本沿岸で、常時、数百艭も操業して、鯨を乱獲していたが、黒船と呼ばれていた。
シャナ戦争を皮切りにして、米欧や、ロシアの軍艦が、日本の水域を頻繁に侵すようになった。武士が全国にわたって、夷狄から神州を護るために、「尊皇攘夷」を合い言葉として、沸き立った。
もっとも、尊皇攘夷は中国から千数百年以上も前に借りてきた、漢語である。「尊王(ツンワン)攘夷(ザンウエイ)」という言葉は、中国の春秋時代(紀元前四〇三年~前四五三年)に、中原の覇者だった斉と晋に発している。もちろん、夷も漢語である。

日本は古代から中国を、模倣した。歴代の天皇は明治の御代が明けるまで、即位式に当たって、黄龍の縫い取りが施された中国服を召された。明治以後、中国が西洋に代わったものの、明治天皇、大正天皇、昭和天皇が胡服である洋式軍装を召されたのと、同じことだった。