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「固有の領土」ということ ―    「史実を世界に発信する会」茂木弘道

2010年10月8日 金曜日

尖閣諸島は疑う余地のない日本固有の領土である。しかし、固有の領土であるという事は、古来から日本の領土であった、ということを意味するものではない。尖閣諸島は長い間無主の地であった。人跡未踏、近海での漁業もおこなわれていなかった。航海の標識島として認識されてきたが、ここを領域として管理する国は存在していなかった。琉球の領域でもなかった。

二、明治28年(1895年)明治政府は尖閣諸島が無主の地であることを一〇年近くの調査によって確認したうえで、近代国際法に基づく先占権を行使して日本領土に組み入れた。これに対して当時清国から異議申し立てはなかったし、その後中華民国・中華人民共和国からも異議申し立てはなかった。そればかりか、1970年以前には中華民国・中華人民共和国とも或いは公文書において(遭難漁民救助感謝状)、国家承認の地図において、更には国営人民日報において、明確に日本領と認めた記述をしてきたという事実が存在する。日本の実効支配と相まって、近代国際法から見て、完璧な日本の領有権の根拠となる。これを称して日本の固有領土というのである。

三、明治18年沖縄県知事より内務大臣あてに尖閣諸島が無主の地なので沖縄県への編入を望む旨上申書を提出した。内務大臣は了承したが、外務大臣が慎重に対処すべしと言う考えで後送りされた。大国清国を刺激することを避けたためである。6年後の明治24年に硫黄島に先占権を行使した際にスペインの朝野を刺激したことを考えると、こうした心配もやむを得なかったであろう。ところが現地の実情がそれを許さなくなってきた。近代技術による船舶の機能が向上したために、尖閣近海は漁場となり沖縄からの多くの漁船が出漁するようになった。又古賀辰四郎のように島の開拓願を出すものも出てきた。明治23年には沖縄県知事より水産取り締まりの必要から八重山役所所管に定めたいので島に国標設置を許可してほしい旨内大臣あて上申書が提出された。さらに明治26年に「尖閣列島周辺で、漁業等が盛んとなり、取り締まりを要するので、これら諸島が沖縄県領域であるとの標抗を建設したい」と、内務大臣、外務大臣あての上申書が提出された。

四、これを受けて、明治27年12月、内務、外務両大臣協議の上閣議提出が合意された。翌明治28年1月14日の閣議で正式決定、21日に標抗建設を認める旨沖縄県知事に司令した。これは日清戦争の講和会議開始3月に先立つこと2カ月、下関条約成立の4月17日の3カ月前のことであった。講和会議では尖閣のことが議題となることはなかった。台湾全島とその付属諸島が日本に割譲されたが、付属諸島に尖閣諸島は含まれていなかったからだ。清の公的な地理書には台湾本島の沿岸周辺には大小合わせて76島嶼が存在しているとあり、その76島嶼が明記されている。その中に尖閣はない。このように、無主の地尖閣諸島の領有に関して日本政府は極めて慎重に事実確認の調査を行い、領有したのであった。日清戦争のどさくさにまぎれて領有したなどと言うのは全くの虚説である。

(10.10)