‘日本史関連一般’ カテゴリーのアーカイブ

資料室: 日本史関連一般

「レンズが撮らえたF.ベアトの幕末」高橋則英監修、小沢健志著、山川出版社、2012年12月発行、¥1,680(税込み)

「蒙古襲来」山口修著、光風社出版、1988年6月発行、¥1,200+税(古書あり)

著者は1924年、神奈川県生れの大学教授。一般に蒙古襲来と言われているが、侵攻軍の実態は蒙古人・漢人・高麗人・唐人(蒙古に滅ぼされた宋人)の、シナ大陸と朝鮮半島全域の混成軍である。本書は国内外に残された資料を駆使して蒙古襲来の実態に迫っている。高麗、つまり朝鮮半島は地政学的に日本侵攻の基地にされやすい位置にあり、明治初期、ロシアを始め欧米列強の脅威に対していた日本が、シナ(明・清国)の属国であり、破産状態であった朝鮮半島が独立した強国になってくれなければ、後背地を持たない日本の独立が脅かされると考えたのは当然のことである。それにしても、蒙古軍の侵攻を受けた当時の日本の為政者が毅然としていたのが印象に残る。

「女帝の古代日本」吉村武彦著、岩波書店、2012年11月発行、¥760(+税)

著者は1945年、朝鮮大邱生れ。東京大学文学部卒業、明治大学文学部教授。
日本の歴史上の女帝(女性天皇)、特に古代の女帝についての研究書。古代に女性天皇が出現したのは律令制国家が成立した時期に集中しているのであるが、次期天皇決定の基準が時代に応じて変化していることが分かる。女性天皇出現の背景には、縄文・日霊女(卑弥呼)時代以来の日本の母系制社会の伝統が色濃く残っていたように思われ、男性・女性という性に対するこだわりが後の時代とは異なるように感じられる。同時に、次期天皇が皇室と限られた利害関係者だけで決定されており、時代背景に合せて柔軟に決定できた背景が窺える。
現代の皇位継承についてはさまざまな議論がなされているが、天皇制そのものが半ば公的な制度であるとはいえ、基本的には皇位継承は私的な天皇家の跡継ぎ問題である。次期天皇は、天皇について最も詳しい現天皇が(必要だと思う方々の意見を参考に)自家の後継者として決定するのが最も理に適っているように筆者には思われる。皇位継承を現天皇の意思とは関係なく政府が作成する法律で規定したり、現天皇家と何の関係も無いいわゆる“識者”といわれる人たちが、聞かれもしないのに他家の後継者について偉そうに口を出すのは、これほど不遜なことは無いのではないかと筆者は考えている。
なお、古代天皇家の謎の一つである継体天皇については、「継体天皇とうすずみ桜」(小椋一葉著、河出書房新社、¥1,800)に紹介されている「真澄探當證」にある記述(継体天皇は第23代顕宗天皇の子供)が最も真実に近いのではないか。

「古代日本正史」原田常治著、同志社、1976年9月発行、¥2,470(税込み、古書あり)


著者は1903年、千葉県生れ(~1977年)。出版社編集長などを経て(株)同志社(後、婦人生活社)を創立(故人)。現代の日本人の多くは記紀(古事記と日本書紀)神話に無知か無関心、少数の関心派の一部は記紀成立時の政治的背景を無視し思考停止した記紀原理主義者のような印象を受けるが、天皇制成立の謎とともに日本の古代史に関心のある日本人は多い。戦後、歴史研究のタブーが無くなったことによりさまざまな研究者による説が発表されているが、依然として謎は多い。古代のシナの文献に登場する日本人(倭人)は以下の通りである。①西暦紀元前2~1世紀ころ、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国」(前漢書、地理誌)、②紀元4年、「東夷の王、大海をわたりて国珍を奉じ」(前漢書、王莽伝)、③紀元57年、「東夷の倭奴国王、使いを遣わし奉献す」(後漢書、光武帝紀)、④紀元107年、「冬10月、倭国、使いを遣わし奉献す」(後漢書、安帝紀)、「倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(同上、倭伝)、⑤紀元220年ころ(?)、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と曰う」(三国志魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条=魏志倭人伝)、⑥紀元239年、「六月、倭の女王(卑弥呼のこと)、大夫難升米等を遣わし・・京都(洛陽のこと)に詣らしむ。その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、『・・今汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を・・仮授せしむ』」(魏志倭人伝)、⑦紀元243年、「倭王、また使大夫・・八人を遣わし・・上献す」(魏志倭人伝)、⑧紀元247年~(285年ころ以前)、「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王・・と素より和せず(戦争が始まる)。・・・卑弥呼以って死す。大いなる塚(元字は土偏が無い)を作る。・・・更に男王を立てしも国中服さず・・また卑弥呼の宗女の台与(元字は旧字)、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」(魏志倭人伝)、⑨紀元413~502年、晋書、宋書、南斉書、梁書に、いわゆる倭の五王(讃、珍、済、興、武)の遣使の記録が見える(ただし、倭人の使者が一字の王名を名乗ったかについては疑問がある)。これらの記述と記紀の内容とを対照すると、記紀に基づいて日本の古代史の真実を追究するのは非常に困難であることが分かる。なお、中国の吉林省集安市の好太王陵の近くにある高句麗の好太王碑(広開土王碑)には、391年から404年にかけて高句麗軍が朝鮮半島で倭軍と戦ったことが記録されている。
著者は本書で、8世紀初頭の記紀成立以前から存在している神社に残された伝承記録を分析することにより、日本の古代史の謎に迫っている。真実に迫るためにはできるだけ先入観のない客観的な立場での研究が必要であり、本書の内容がすべて真実かどうかはともかく、著者の視点は一つの卓見と言えよう。特に、いわゆる「魏志倭人伝」にある邪馬台(ヤマト)国の位置に関する著者の解釈(宮崎県西都市)は、筆者が目にした数多くの解釈の中で最も自然で納得のいくものと言える。
本書の続編として、神武天皇以後応神天皇までの“「上代日本正史」同志社、1977年3月発行、¥1,850(税込み、古書あり)”がある。
なお、類似の結論に達している文献に、「先代旧事本紀」の内容と各地の神社伝承を分析した大野七三(1922年生まれ)の著作(「日本建国神代史」、「日本国始め 饒速日大神の東遷」各2003年、2010年発行、批評社など)がある。大野氏推定の邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートは、不弥国以降が原田氏推定のルートと異なる。
邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートについては、最近出版された”「日本古代史を科学する」中田力著、PHP新書、2012年2月発行、¥720+税”に説明されているルート(唐津->小城->佐賀->熊本->八代->人吉->宮崎県西都市)もあり、不弥国(佐賀)までのルートはこれが最も真実に迫っているのではないかと思う。
著者には、“「気温の周期と人間の歴史」(第一巻 温暖化すすむ日本列島、第二巻 世界の九月現地調査)、同志社”という著書もあり、太陽の回帰線が周期的に南北に移動することが北半球と南半球の気候(気温)の変動をもたらし、経済・政治など社会の変動を招いているということを実証的に説明している(実際は、太陽の黒点数の変化などに現れる太陽活動の活発さの変化も気候変動に大きな影響を与えているし、最近では人間の活動による影響もあると言われている)。著者の見解では、回帰線の最南部と最北部の移動周期は約300年であり、2025年頃には最北部に達する。第一巻には、日本敗戦時に中国共産党の林彪が、日本が養成し優秀な日本人将校も入った満州国軍を買取ったのが八路軍の主力となり、これが戦後中国共産党が蒋介石軍を破って中国の内戦に勝利した要因であるとか、日露戦争時の通信秘話なども掲載されている。ただ惜しむらくは、著者の主張の中心的内容となったであろう第三巻(三千年の気温と人間の歴史の周期)が著者逝去のため出版されていないことである。

「台湾は日本人がつくった」黄文雄著、徳間書店、2001年4月発売、¥1,500+税 


著者は1938年台湾生まれの高名な評論家。

「シナ大陸の真相1931~1938」K・カール・カワカミ著、福井雄三訳、展転社、2001年1月発行、¥2,800(+税)

著者(河上清)は明治6年、米沢生まれ(~昭和24年)。明治34年にアメリカへ渡り、国際問題の評論家としてアングロ・サクソン社会で活躍した。詳細な評伝は「嵐に書く」(古森義久著、毎日新聞社、昭和62年)参照。本書の原著は「Japan in China」というタイトルで、1938年(昭和12年)3月にロンドンのジョン・マレイ社から出版された。本訳書には、著者をブレーンとして迎えていた当時の斉藤博駐米大使の講演録も掲載されている。
本書は、満州事変前夜から日支事変勃発後まで(1931~1938)の支那大陸の状況を描いたものである。当時の支那の混乱した状況や、ソ連の共産主義の浸透、腐敗した支那の実情、国際法や国際条約を無視する支那の政府や軍閥など、経済進出した日本が国民の生命と権利を守るために苦闘させられた状況が細部に亘って詳細に描かれています。現在の日中関係や中国とのビジネスに関心のある方には、是非とも一読していただきたい書物です。時代が変わっても、中国人が変わったわけではありません。日本は中国に生産拠点を持つべきではないと筆者は考えています。以下、印象的な記述をいくつか紹介しておきます。
「1917年のロシア革命以来・・・中国の崩壊と動乱を狙って彼の同志達がこの十七年間何をしてきたか・・・ソ連の提供した資金がいかに多くの中国の政治家や軍国主義者を買収してきたか、いかに中国各地の士官学校に財政援助し各地の軍閥に軍事援助をしてきたか、いかに排外暴動(とりわけ英国と日本に対する)が、直接クレムリンから派遣されている無数の工作員によって中国人の間で扇動されてきたか・・・具体的で明白な証拠に基づいて答える」、「革命政権が成立した初期の段階においてモスクワ政府が「アジア迂回」政策・・を採択した・・・まず最初にアジアの西洋帝国主義を破壊することによって、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒できると想定されたのである」(第一章)。
「一九二七年三月・・蒋介石は・・共産党員たちを・・追い出した」、「モスクワは中国の各地で様々の騒乱を休みなく誘発し続けた」、「(一九三六年十二月には西安事件)彼らは自分たちの共産主義をカモフラージュする目的で、「日本打倒」と「日本に対する戦争」を自分たちのスローガンにしていた。・・・張学良はモスクワの道具だった」(第二章)。
「もし蒋介石が明晰な見通しを持っていたならば、共産主義の脅威に対して日中が共同して事に当ろうという日本の度重なる申し入れを彼は受け入れていただろう。・・・彼の視野の狭さ、反日運動に見られる彼の陰にこもった勇気、共産軍を日本に対する盾に利用しようとする彼の隠れた野望、これら全てが回復不能の災厄とも思えるものを彼の身に降りかからせたのである」(第三章)。
「それ(註:共産主義)は何処でも民主主義を破壊し、平和をかき乱す。それは不幸にも隣り合っている国々に独裁と軍国主義を生じさせる。・・・否応なしに自国の防衛を決意せねばならぬからである」(第四章)。
「中国は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしているまさにその時に、日本と結んだ条約を全面的に侵害するという手段に訴えてきたのである。次に掲げるのはこの期間に侵害された日中協定の一部のリストである。・・・その全ての結末が一九三一年九月の満洲大事変であり、満州国という新生国家の出現をもたらした」(第五章)。
「「青シャツ隊」は最も冷酷なテロリストのやり方(註:日本人などへの残虐行為)を用いている。・・C・C・部隊(註:作家と弁士が大半)は青シャツ隊と密接につながっている。・・そのほとんど全てが反日宣伝活動の推進に捧げられている。・・・中国は日本と協力する代りに共産主義と手を結んだ」(第六章)。
「(一九三七年七月七日)夜一一時四〇分、これらの日本兵は二九路軍第三七師の中国軍部隊によって銃撃された(註:盧溝橋事件)。・・・九日、中国二九路軍の代表責任者と日本軍の松井大佐との間に休戦協定が結ばれた。・・・中国は戦争を熱望していた」(第七章)。
「いかなる妥協的なやり方もいかなる生ぬるい手段もただ単に中国軍の凶暴さを助長するだけであろう」(第八章)。
「中国人は武力に対しては常に屈するが理屈には決して従わない国民だ」(イギリスのエルギン卿)、「中国政府は武力及びそれを行使しようという意志の存在する場合に限ってのみ正義を認める」(アメリカ高等弁務官、ハンフリー・マーシャル)、「中国人は自分がトップに立って誰か他の者を押さえつけているか、または自分より強い者の前で屈辱を受けて恐れおののいているか、のどちらかでなければ満足出来ない。対等の基盤に立って誰かと公平に公正につき合うことに中国人は決して満足出来ないのだ」(アメリカ人作家、ロドニー・ギルバート)(第九章)。
「日本は進歩的で進取の気性に富んだエネルギッシュな国である。日本国民をその小さな島国に永久に閉じこめておくことは出来ない。・・・この日本の自然な勢いでの拡張運動が生じた場合、西洋列強諸国とりわけアメリカ、イギリス、フランス、この三つの最も富裕な国のとるべき態度は妨害と敵対であってはならず、逆に援助と心からの協力でなければならない。・・・そのような日本の進出は本質的に経済的な性質のものであって、軍事的な侵略を意味するものではないからである。それが軍事的な色合いを帯びてくるのは、そのような日本の進出が塞がれてしまった時だけである。・・・日本を援助する政策は最終的に、日本を妨害する政策よりもはるかに安い出費ですむだろう。それどころか逆にそれは彼らの利益になりさえするかも知れない」(トーマス・エジソン、1922年12月のアメリカのジャーナリストとの対談での発言)(第十章)。
「何世紀にもわたって公然の「搾取」制度が中国に害毒を流し続けてきた。中国の表社会では搾取は様々の形をとって行われているが、最も普通に行われているのは賄賂と、徴収した税金の横領である。・・・日本では公金横領は非常に珍しい例外中の例外である。それに対して中国では公金横領は一つの確立した、そして良く組織された産業にまでなっている」、「真の経済的「門戸開放」とは、立派な政府の下で法と秩序が行き渡っている国においてのみ可能なのである」、「内部分裂と内戦は中国の政治的軍事的状態及びその国民性に固有のものなのである」(第十一章)。
「敵を最も邪悪な姿で表現する写真の偽造は、(第一次)世界大戦中に一大産業となった。・・・中国に関する最も興味深い事柄の一つは、世界的規模の組織を持つある特定の報道会社に南京政府がニュースを提供するそのやり方である。・・・一九二九年ころ・・国民党外務省の宣伝広報局は上記の報道会社と協定を結んだ。・・報酬として、宣伝広報局はこの報道会社に毎年かなりの金額のお金を支払うことになっていた」。「次の戦争では宣伝は、先の(第一次)世界大戦がなし得た最上のやり方よりもつと微妙で巧妙なやり方になるに違いない」(バージニア州リッチモンドのタイムス特電、一九二五年一二月六日付)(第十二章)。

「日中戦争-戦争を望んだ中国 望まなかった日本」北村稔・林思雲共著、PHP研究所、2008年10月発行、中古品あり

著者、北村稔は1948年京都府生まれ。京都大学卒業、大学教授。林思雲は1963年中国南京市生まれ。南京大学卒業後、留学のため来日。九州大学で工学博士号取得後、日本の企業に就職。
本書は、日中戦争中の日本の動向については防衛庁防衛研修所戦史室の戦史叢書「支那事変・陸軍作戦」より、中国側の部分は中国側の研究を資料として書かれている。したがって、著者が資料を慎重に取り扱っていることを考慮に入れても、避諱(ヒキ)(ウソをついてでも、国家や共同体に都合の悪い事実を隠そうとする行為)の文化を持つ中国側の研究資料がどこまで信頼できるかという問題を考えながら読む必要がある。個別の事実としては、日中戦争は中国側が仕掛けてきたものであること(1937年8月の第二次上海事変が戦争の開始)、日中戦争開始前の中国では都市住民が日中戦争を熱望していたこと、日本側が早期終結を目指して何度も和平工作を試みていたこと、戦争開始後もドイツが国民政府へ大規模な武器援助と戦争指導を行い、見返りとして軍備拡張に必要な希少金属(タングステン)の提供を受けていたこと、中国が緒戦で大敗すると、開戦を熱望していた都市住民が兵役をのがれ、日本の存在すら知らない農民が兵士となり悲惨な待遇の中で戦争を戦ったこと、占領した都市住民の食糧確保のために日本軍と傀儡政権が農村から食料を強奪したことが農民層への共産党勢力の拡大につながったこと、日中戦争が大東亜戦争への導火線となったこと、などが論じられている。中でも、当時の中国における徴兵の実態(金銭による徴兵逃れ、地方組織による拉致、人身売買による兵員の補充)を見ると、「シナ人の最大の敵はシナ人(漢民族)である」との言葉も決して大げさではないことが分かる。註:本書の英訳は掲載文献参照。

「アメリカはアジアに介入するな!」ラルフ・タウンゼント著、田中秀雄・先田賢紀智共訳、芙蓉書房出版、2005年7月発行、¥2,000(税別)

「関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実」工藤美代子著、産経新聞出版社、2009年12月発行、¥1,890(税込み)


著者は1950年、東京生れのノンフィクション作家。著者は本書で、巷間流布されている、関東大震災時に流言蜚語に惑わされて日本人が朝鮮人を多数虐殺したというデマの真相を解明している。

「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人-重松マサ修物語」田中秀雄著、草思社、2010年1月発行、¥2,100(税込み)

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