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「この命、義に捧ぐ~台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡~」門田隆将著、集英社、2010年4月発行、¥1,680(税込み)
著者は1958年、高知県生まれのジャーナリスト(中央大学法学部卒)。本書は、終戦時、駐蒙軍司令官であった根本博陸軍中将が、在留邦人(4万人)および北支那方面の日本軍将兵(35万人)の日本内地への帰国に際して蒋介石から受けた恩を返すために、国共内戦で共産軍に追い詰められていた国民党軍を助けるため、戦後GHQの占領下、わずかな仲間と共に一命を賭して台湾へ密航して金門島の激戦を戦った実話(ノンフィクション)である。
1945年の日本の敗戦によって中華民国(蒋介石一派)が台湾の実効支配を開始したが、国際法上は、1951年のサンフランシスコ講和条約および1952年の日華平和条約において日本が台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄するまでは、台湾は日本国の一部であった。
「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道」梯 久美子著、新潮文庫、2008年7月発行、¥500(税込み)
著者は1961年、熊本県生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て、現在、文筆業。本書は日米戦争の歴史に深く刻み込まれることになった硫黄島の戦いと、現地で日本軍の総指揮官として戦った栗林忠道陸軍中将についてのノンフィクションである。
「栗林が着任したとき(註:昭和19年6月)島には1000人ほどの住民がおり、・・貧しいながらも平和な暮らしを営んできた、素朴な人々である。・・・栗林は住民を早めに内地へ送還するべきだと判断した。・・・島民の内地送還は七月三日から始まり、一四日までに完了した」(第二章より)
「(栗林中将が将兵に与えた)「敢闘の誓」を一読してまずわかるのは、「勝つ」ことを目的としていないことである。なるべく長い間「負けない」こと。そのために、全員が自分の生命を、最後の一滴まで使い切ること。それが硫黄島の戦いのすべてだった。栗林が選んだ方法は、ゲリラ戦であった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。どんなことをしてでも生き延びて、一人でも多くの敵を倒す。・・・死を前提として一斉に敵陣に突入する、いわゆる「バンザイ突撃」を栗林は厳しく禁じた。それを将兵たちは忠実に守った。・・・すべては、内地で暮らす普通の人々の命をひとつでも多く救うためだった」(第三章より)
「栗林が立案した作戦の内容は・・“持久戦”と“水際放棄・後退配備”であった。栗林の判断は、目の前の現実を直視し、合理的に考えさえすれば当然行き着く結論だった。しかし、先例をくつがえすには信念と自信、そして実行力が要る。・・・反対したのは海軍だけではなかった。硫黄島の陸軍幹部からも強い反対意見が出たのである。しかし栗林は孤立を怖れず、これをはねつけている。・・・栗林は一九四四(昭和十九)年の秋以降、自分の戦術思想と相容れない者や能力がないと判断した将校の更迭を行っている」(第三章、第四章より)
「周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「五日で落ちる」と言われた硫黄島を三六日間にわたって持ちこたえた。・・・日本軍約二万に対し、上陸してきた米軍は約六万。しかも後方には一〇万ともいわれる支援部隊がいた」(プロローグより)
「硫黄島は、太平洋戦争においてアメリカが攻勢に転じた後、米軍の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦場である。・・・米軍側の死傷者数二万八六八六名に対し、日本軍側は二万一一五二名。戦死者だけを見れば、米軍六八二一名、日本軍二万一二九名と日本側が多いが、圧倒的な戦闘能力の差からすれば驚くべきことである」(第一章より)
「先入観も希望的観測もなしに、細部まで自分の目で見て確認する。そこから出発したからこそ、彼の作戦は現実の戦いにおいて最大の効果を発揮することができたのである」(第四章より)
他書の感想にも記したことだが、はからずも本書でも、合理的に判断し、職人的に優秀な現場と、現場を知らず、あるいは知ろうともせず、科学的・合理的判断力の欠如した大本営を初めとする愚昧な国家指導層とが対照的にあぶり出されている。しかもその無能な指導層は、あろうことか栗林中将の訣別電報の内容を改ざんして新聞に発表していた。本書のタイトルになっている「散るぞ悲しき」というのは、その訣別電報の最後に添えられていた辞世の一首「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」から採られている(新聞発表では、「散るぞ口惜し」)。本書の解説を書いた柳田邦男は、「栗林中将が二万の犠牲を無駄にしないために、率直に失敗の要因(註:中央の陸軍と海軍の対立による一貫性を欠いた防備方針や、戦争指導者たちのその場しのぎの弥縫策など)を戦訓として報告しても、何の都合があってか、いまだにその指摘は公には伏せられてしまうのだ。今に至るも日本の省庁のタテ割り行政と権益争いが改善されないのは、国民が血を流しても、その歴史の教訓を学ぼうとしないこの国のリーダーたちの心の貧困を示すもので、いまさらながら愕然とする」と書いている。政治家も官僚も、マスコミも学者も評論家も、今なお“文系支配”で、物事を事実に基づいて科学的・合理的に判断するという思考態度に欠ける人たちがこの国を動かしている。
あの戦争は戦う前から、国家の統治システムの優劣において、日本はアメリカに負けていた。明治維新を成し遂げた薩長を中心とした勢力が政治権力を独占するために天皇制を利用した明治憲法(大日本帝国憲法)は、イギリス式の立憲君主制度(国王は君臨すれども統治せず)でもなく、さりとて天皇独裁でもない、政治責任の所在を極めてあいまいにできる中途半端な憲法であった。しかも憲法改正の発案権の問題や日本古来の天皇制の呪縛により、時代の変化に追随して改定することも出来ない文字通り不磨の大典と化してしまっていた。それはすべてを選挙で決し、責任の所在が明確で、合理的に国家を経営していく歴史を重ねてきていたアメリカの政治システムとは比ぶべくもなかった。日本は、あの戦争でアメリカと戦うことになった時点ですでに負けていたと言って良い。天皇の政治的権限こそ無くなったとはいえ、それは戦後の現代においても必ずしも十全に改善されているとは言えず、たとえ政権が交代しても、国家官僚組織の上層部が身分制度化していてほとんど変化が起こらない。このままいけば、いつかまた日本はあの戦争と類似の失敗を繰り返すことは目に見えている。民主主義制度である以上、政治のリーダーは国民が直接、選挙で選出すべきだし、国家官僚組織の上層部は身分制度ではなく任期制など、より人材の流動化を図れる工夫を加えて、選挙民の総意を国家運営により反映できるより機能的なシステムに改めるべきである。評論家や学者の中には民主主義を衆愚政治だと言って批判する愚者もいるが、三人寄れば文殊の知恵で、少なくとも単愚政治(独裁)よりは優れている。民主主義は、人類がこれまでに発明してきた政治システムの中で、構成員全体の総意を表現するのに最も適したシステムと言って過言ではない。
「二人の子供も巣立ち、ようやく落ち着いた暮らしを送ることができるようになったある日、(栗林の妻)義井は夢を見た。死んだはずの夫が、軍服姿でにこにこしながら玄関に立っている。びっくりしていると、「いま帰ったよ」とやさしく言った。ああ、やっぱり帰ってきてくれたんだ。嬉しさで胸がいっぱいになった瞬間、目が覚めた。夢とわかってからも、義井の心は温かかった。夫が、ほんとうに明るい表情をしていたからだ。硫黄島を含む小笠原諸島が二三年ぶりにアメリカから返還されるという知らせがもたらされたのは、それから間もなくのことである」(エピローグより)。類似のエピソードは惠隆之介もその著書「敵兵を救助せよ!」(草思社)の中で紹介しているし、筆者自身も数回体験したことがある。人間の魂は肉体が滅んでも消滅するものではなく、死者の魂は間違いなく別の世界で生きている。
本書は第37回大宅賞受賞作品であるが、その選評の一つに「きわめて文学性の高い傑作である」(藤原作弥)との言がある。柳田邦男は「過不足のない見事な構成と文脈だと感嘆した」と記している。読めば分かるが、心に響く達意の文章である。惠隆之介が「敵兵を救助せよ!」の「あとがき」に、「この物語が戦後、なぜわが国で書かれなかったのか疑問に思った」と記しているが、これらの著書を読んでみると、史実というものはどうもその内容にふさわしい書き手が現れるまでは、真実の姿を世に現さないように見える。ちなみに、本書は世界7カ国(米・英・韓・伊など)で翻訳出版されている。
「敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長」惠隆之介著、草思社、2006年6月発行、¥1,785(税込み)
著者は1954年、沖縄コザ市生まれ。防衛大学校卒業後、海上自衛隊を経て、現在グロリア・ビジネススクール校長。
本書は、大東亜戦争初期(1942年3月初め)、ジャワ島北方のスラバヤ沖での日本艦隊と英米蘭の連合艦隊との海戦で日本艦隊に撃沈された英巡洋艦「エクゼター」と英駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名が漂流しているのを偶然発見した日本海軍の駆逐艦「雷」(いかづち)が、敵潜水艦の魚雷攻撃を受ける可能性のある危険な戦闘海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助した「雷」艦長、工藤俊作についての実話である。日本が戦争に敗れたため、戦勝国による日本を貶めるためのさまざまなウソ話が世界中に流布されているが、米軍が太平洋の島々で追い詰めた日本兵を片っ端から火炎放射器などで“処分”していった残虐さと比べると、大東亜戦争の正義がいずれの側にあったのかを如実に物語っている話である。
著者はさすがに海上自衛隊出身だけあって、本書には海軍史や戦史が詳述されている。そこから見えてくるものは、「細部に優れ、大局に劣る」、つまり、国民は職人的には優秀だが国家の指導層の経営力が劣る日本の姿であり、それは日本人の国民性だけではなく日本国家の統治システムに根ざしているようで、現在もさほど改善されているようには見えない。
なお、工藤俊作が山形県屋代郷で生まれた明治34年の3年後には日露戦争が勃発し、上村彦之丞中将(鹿児島出身)が指揮する第二艦隊が、撃沈したロシア東洋艦隊の巡洋艦「リューリック」の将兵627人を三隻の巡洋艦上に救助し、世界中から「日本武士道の実践」と称賛されている。
註:救助された当時の英国兵、サム・フォール氏の著書、“「ありがとう武士道―第二次大戦中、日本海軍駆逐艦に命を救われた英国外交官の回想」先田賢紀智訳、中山理監訳、麗澤大学出版会、2009年8月発行、¥1,680(税込)”も出版されている。
「死生天命―佐久間艇長の遺書」 足立倫行著、ウェッジ、2011年12月、¥1,470(税込み)
「評伝 廣瀬武夫」 安本寿久著、扶桑社、2010年12月発行、¥1,680(税込み)
著者は1958年生まれ。1981年産経新聞社入社、産経新聞編集長。
本書は戦前、軍神と言われた廣瀬武夫の伝記である。廣瀬は明治維新の年(1868年5月)に生まれ、黎明期の日本海軍の軍人(海軍兵学校15期生)となり、日露戦争に出征。旅順港に立てこもるロシア太平洋艦隊主力部隊の活動を封じるため行われた旅順港口閉塞作戦で命を落とした。享年36、満35歳と10ヶ月であった。
廣瀬武夫は、明治元年、瀧廉太郎の“荒城の月”で知られる大分県竹田市(豊後、岡藩)で武家の次男として生まれた。尊王運動に奔走した父、重武が明治政府の役人として出仕し、遠隔地に単身赴任をしていたことに加え6歳で生母を失ったため、典型的な武士の妻であった祖母(智満子)に育てられた。長じて海軍士官となり、三国干渉後のロシアへ留学。日露戦争開戦前夜の国際関係のもと、親交を持ったロシア海軍コワリスキー大佐の娘、アリアズナとの恋は成就しなかった。廣瀬の死後、その死を聞かされたアリアズナは、その後、洋服の胸に喪章を着け、生涯外さなかったと言われている(註:日露戦争後のロシアの混乱もあり、アリアズナのその後を正確に知る記録は発見されていない)。明治35年初頭、酷寒のシベリア・満州経由で帰国した廣瀬は、日露戦争開戦後の旅順港口閉塞作戦に指揮官として参加し、第一次作戦で廣瀬が指揮した艦は成功。第二次作戦時、ロシア軍の砲撃で行方不明となった自ら選んだ指揮官付、杉野孫七一等兵曹を探しに三度船内へ戻り、それでも発見できずあきらめてカッターで帰還の途中、ロシア軍の直撃弾を後頭部に受け戦死(明治37年3月27日)。カッター上から吹き飛ばされた廣瀬の遺体は、数日後、旅順港口の海岸に漂着した遺体と推定されている。その服装から日本海軍の士官と考えられた遺体を、ロシア側は手厚く葬ったという。
当時の日本は国運を賭けた戦争で大国ロシアに勝利するため総力戦を戦い、明石元二郎陸軍大佐(後年、第七代台湾総督)らはヨーロッパやロシア、満州で組織的な諜報活動を行ってロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの継戦を困難にしたと言われている。ロシアについて著者は、「ロシア人ほど情に厚い国民は少ないという。しかし、国としてのロシアほど強欲で狡猾な国も少ないというのが、当時の欧州での評価である」と書いている。個人としての人間は、どこの国にも善人もいれば悪人もいて、その比率も大差ないように思われるが、集団になると大きな差が現れてくるのは一体何なのだろうか。歴史であったり、風土であったり、宗教であったり、イデオロギーであったりと、さまざまな要因は考えられるが、まことに不思議なことである。日本はともかく日露戦争に勝利したものの、その後もロシアの南下(侵略)政策やロシアがソ連となった後の共産主義運動など、北からの脅威に悩まされ続けることになる。
日露戦争を戦うのに日本は一体どれくらいの戦費を必要としたのか。当時の一般会計の歳入の7年間分ほどだとされている。この巨額の戦費を調達するため日本は外債を発行したのだが、勝ち目が薄いと見られていた日本の外債は当初、引き受け手が現れず、時の日銀副総裁、高橋是清は非常に苦心した。その窮地を救ってくれたのは日英同盟を結んでいたイギリスの銀行家たちであり、さらにはロンドン滞在中に知遇を得たアメリカのユダヤ人銀行家ヤコブ・シフを通してのニューヨーク金融街であった。日英同盟は日露戦争開戦の2年前(明治35年)、シナの義和団事件の処理で活躍した日本軍の優秀さと規律正しさを評価したイギリスが、シナに持っている自国の権益を守るため“光栄ある孤立”を捨ててまで日本と結んだ対等の軍事協約である。その大量の外債を引き受けたアメリカのユダヤ系金融業の一人、シフの盟友である鉄道王ハリマンが、日露戦争講和後、南満州鉄道の共同経営を日本政府へ申入れ、桂太郎首相との間で取り交わした「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を、講和条約締結後に帰国した小村寿太郎外相や日露戦争の計画者であり実行部隊でもあった児玉源太郎陸軍大将などの反対で一方的に日本から断ったのが、その後のアメリカにおける排日運動の端緒となった。もしこのとき、日本がハリマンの申入れを受入れ、南満州鉄道の共同経営に踏み切っていたら、その後の日米関係も世界情勢もまったく様相を異にしていたであろうことは想像に難くない。明らかにこれは日本側の政治的失態であったと言わざるを得ない。もちろん、アメリカのユダヤ人金融業者たちは自分たちの利益のために日本の外債を引き受けたのであり、当時の日本の国情もあった。それでもなお筆者が失態と考えるのは、当時の国際情勢を冷徹に判断できなかった感情民族の欠点という意味だけではなく、日本人自身の信用を失墜させる忘恩の行為だと考えるからである。軍人がいくら優秀で勇敢であっても、金がなければ戦争は遂行できない。たとえアメリカのシナ大陸進出の野心が透けて見えていたとしても、日本はやはり窮地に支援してくれたアメリカには応えるべきであったと思う。それは国家として、また人間としての信義の問題である。
廣瀬武夫の葬儀は兄、勝比古(海軍軍人)の娘(馨子)が喪主となって行われた(海軍葬)。大正元年には「廣瀬中佐」という有名な文部省唱歌が作られ、昭和十年には郷里の竹田に廣瀬神社が創建された。明治期、海軍で軍神と呼ばれたのは廣瀬の外、佐久間勉大尉(潜水艇の事故で死亡した艇長)と東郷平八郎大将(連合艦隊司令長官)である。海軍の東郷平八郎には東郷神社が、陸軍の乃木希典には乃木神社が建立されている。
日露戦争における乃木将軍(陸軍)や上村将軍(海軍)が示した明治時代の武士道について、武士本来の道とは違うものだと著者は言う。「そもそも武家とは・・一所懸命で所領を守り、それを子孫に継がせるために戦に出るものである。・・・我欲のために生きるのが武士というものだ」(第6章より)。明治時代の武士道は、それとは異なる新しい無私の人格、つまりは死を前提とした戦いに身を置く軍人同士の共感に基づく、すぐれた人格に裏打ちされた指導者としての覚悟(noblesse oblige)とヒューマニズム(思いやり)がその本質だったのではないか。明治時代に「武士道」を世界に紹介した有名な書として、新渡戸稲造(1862年9月~1933年10月。盛岡藩士の三男、妻はアメリカ人)の“Bushido The Soul of Japan”(1900年発行、1905年に増訂版)がある。日本語訳は複数出版されているが、比較的新しい訳書に“「武士道」奈良本辰也訳・解説、三笠書房(文庫)、1993年1月発行、¥520(税込み)”がある。
「米国特派員が撮った日露戦争」『コリアース゛』編集、小谷まさ代訳、波多野勝解説、草思社、2005年4月発行、¥2,940(税込み)
米国のニュース週刊誌『コリアース゛』が総力を挙げて取材・撮影した従軍記録写真集から厳選して編集。日露戦争開戦前夜から日本海海戦までをカバーし、当時のリアルな戦争の実態を伝えていて、資料的価値が非常に高い写真集である。数多くの写真は私たちを往時へとタイムスリッブさせてくれ、歴史を抽象的な観念上の出来事としてではなく、生きた人間の営みだと分からせてくれる。日本海海戦の解説を世界的な海軍戦術の研究家として有名なA・T・マハン(アメリカの軍人で歴史家)が執筆している。
原書となった二冊の本を出版した(1904、1905年)『コリアーズ』(Colliers Weekly: An Illustrated Journal)は、1884年4月にアメリカでピーター・コリアーによって創刊された報道写真誌の先駆。1957年1月まで続いた。翻訳者の小谷まさ代は富山大学文理学部卒業の翻訳家。解説者は常磐大学教授。
「日露戦争は領土をめぐる戦いである。戦端を開くきっかけとなったのは、朝鮮と満州の領有をめぐる外交交渉の決裂だった。しかし対立の根本的な原因は、太平洋に向って氷河のようにじりじりと極東へ勢力を伸ばすロシアの南下政策と、それに危機感をつのらせた日本の防衛政策がぶつかりあったことである」(第1章)。第1章には戦争直前の日露交渉に関する電報が掲載されている。
「開戦当初のロシア軍を不利な立場に追い込んだ最大の理由は、本国の基地から前線までの途方もない距離であった」(第2章)。このことは、大東亜戦争を東亜だけで戦わずに太平洋戦争にしてしまった日本海軍の作戦上の誤ちを示唆している。
「日本軍は開戦から数日のあいだに二つの戦いでロシア艦艇に打撃を与え、さらには陸軍の仁川上陸まで無事に成功させ、実質的に制海権を掌握したのである」(第3章)。
「日本艦隊の攻撃によって旅順艦隊に打撃を受けたロシアは、海戦に力点をおくことができなくなり、満州での陸戦にそなえて兵力と物資の増強に総力を挙げた。・・・日本軍の行動は迅速だった。・・・日本軍が義州の四八キロ以内に迫ると、鴨緑江の南岸に進出していたロシア軍は塹壕を捨てて鴨緑江北岸に退却してしまったのである」(第4章)。
「冬のあいだ、日本の陸軍大部隊が強行軍で通過した道筋には、焼きはらわれた村もなければ、略奪で荒らされた家もなく、逃げまどう農民の姿などまったく見られなかった。軍隊内でも勝手な振舞いや騒動はいっさいなく、部隊が通過した村々に規律を乱した兵士の話は残されていない。長老たちが口をそろえて語るのは、規律厳正に粛々と行軍する兵士の姿である。行軍の途中で調達される補給物資の代金はすべて現地の市場価格できちんと支払われる。・・・いま我々が通過している韓国という国は、この二ヶ月のあいだに実に巧妙に日本化されていった。思いやりのある態度、公正な扱い、世論も個人も巧みに操る手際よさ、そういったもので日本はこの国を征服したのである」(第5章)。
「一九〇四年二月の開戦から数ヶ月間、ロシア軍を最も苦しめたのは、本国の基地から前線までの気の遠くなるような距離であった。ロシアと満州を結ぶ輸送路は単線のシベリア鉄道のみである。しかも当時はバイカル湖の凍結で鉄道は分断された状態だった」(第6章)。
「二日間にわたった鴨緑江畔での戦闘は、開戦以来最初の大規模な陸戦であり、兵力だけでなく機略・戦略においても敵を凌駕した日本軍が圧倒的な勝利を収めた。・・・自信過剰に陥って事態を楽観していたロシア軍は、まるで無為無策に兵を配置していた」、「鴨緑江の戦闘が終わると、日本軍は負傷兵の看護に力を尽くした。・・・日本軍はロシア人負傷兵を自国の兵と同じように看護したばかりか、ロシア軍が敗走するさいに遺棄していった戦死者を埋葬したのである。士官に対してはその階級に即して、日本陸軍士官と同等の扱いで丁重に葬った」(第7章)。
「廣瀬中佐は・・ロシア軍の放った一弾を身に受けて・・一片の肉塊をとどめただけだった。・・・本国到着後は、特別に選抜された将校たちによって東京まで護送され、葬儀の日には無数の熱狂した市民が墓所への沿道を埋め尽くしたという」(第8章)。
「日本軍にとって遼陽の会戦は、鴨緑江の渡河から四ヶ月にわたって進めてきた満州における軍事作戦のゴールともいえる戦闘であった。日露戦争において初めて両軍の主力が対決することとなったこの会戦には、近代戦史上最多の兵力が投入され、すさまじい死闘のすえに日本軍の勝利に終った。参加した将兵の数は日露両軍あわせて四〇万から五〇万、五日間におよぶ大会戦における両軍の死傷者は合計およそ三万人にものぼると推定されている」(第九章)。
「奉天へ退いたロシア軍は・・反撃に出ることを決意し・・沙河の会戦では・・およそ二週間後、日本軍の奮戦によって・・ついにロシア軍は沙河の北への退却を余儀なくされた」(第10章)。
「一九〇五(明治三八)年一月一日、旅順攻囲戦はようやく終焉を迎えた。半年におよぶ激烈な死闘のすえ、旅順はついに日本軍の手に落ちた・・・日本軍にとって二〇三高地の最大の価値は、旅順港に在泊するロシア艦船が一望できることである」(第11章)。
「投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数、いずれをとっても奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。・・・総兵力は七五万から八〇万人にのぼり、そのうちロシア軍は三六万一〇〇〇、日本軍は少なくとも四〇万であった。・・・奉天の周囲には防御線が何重にも構築され・・難攻不落と評される強大重厚な要塞だった。対する日本軍は東から西へ五つの軍を配置していた・・迂回包囲作戦である。この作戦は大成功を収めることになる」(第12章)。
「日本海海戦は日本海の制海権を争う日露の激突である。・・・大陸(満州)での陸戦を維持するためには海上輸送路の安全確保が必須であった。・・・連合艦隊は高速で運動して常に敵の全面を圧迫し、先頭部へ集中砲火を浴びせつづけた。・・・海戦初日の五月ニ七日、海上は南西からの強風が吹き荒れ、風浪が高かった。この気象は日本側に味方した。・・・やがて戦場は日没を迎えた。・・連合艦隊は主力による発砲を停止し、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。・・このとき偶然にも、それまで吹き荒れていた強風が弱まった。・・暗夜での水雷攻撃が容易になったのである。まさに天が日本側に味方したというべきである。・・・日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り、地上戦を支える生命線である海上補給路の安全を確保したのである」(第13章)。
「日露戦争、資金調達の戦い: 高橋是清と欧米バンカーたち」板谷敏彦著、新潮社、2012年2月発行、¥1,785(税込み)
著者は1955年西宮市生まれ。関西学院大学経済学部卒業。製造業界を経て証券業界へ。現在、投資顧問会社社長。
本書は、「証券価格を通じて当時の外債募集談を再現し、金融市場の側面から日露戦争全体を見直そうと試みるものである」(序文)。当時の日本銀行副総裁高橋是清(1854~1936)と同秘書役の深井英五(1871~1945)の一九〇四年からの三年間にわたる資金調達の旅は、「明治維新を経た日本人が初めて本格的に国際金融市場に足を踏み入れた物語」(序文)であった。
「日本では、松方正義の奔走により、明治三〇年(一八九七年)に貨幣法を施行し(註:日清戦争の賠償金を元手に)金本位制を採用した。また同じ年にロシアも金本位制を採用している。・・・高橋是清が海外で外債募集に苦労している間、政府や日銀は外貨決済のためと金本位制度を維持するために、日本に残った金準備である正貨の残存量と戦っていたのである。・・・金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった。金本位制度の採用は、国際金融市場における戦時公債発行のための最低条件のひとつとも言えたのである。当時日本にとってロシアと戦争をするためには金本位制は欠かせない条件だったのだ。このことはロシアにとっても同じことであり・・・」、「高橋是清が公債発行のために欧米に赴いた一九〇四年頃のロンドンでは、マーチャント・バンクが圧倒的な力を持って国際金融市場における要の地位を占めていた。・・・当時のロンドン市場の主力金融機関は、ほとんどすべてがユダヤ資本である。・・国際資本市場であるロンドン市場にアクセスするということは、ユダヤ資本にアクセスするのと同じことなのである。」、「(クーン・ローブ商会のヤコブ・)シフが財務面でサポートし、(鉄道王エドワード・ヘンリー・)ハリマンがハンド・インで鉄道を経営した。・・・(アメリカで)二大グループは・・モルガンとヒル連合対シフとハリマン連合である。・・モルガンは大西洋に目を向け・・ハリマンとシフは、太平洋航路に目を向けた。」、「日露戦争のこの時代は、シティのマーチヤント・バンクがその絶頂を迎え、ウォール街のインベストメント・バンクが巨大な力を持ち始めていたのである」(第二章)。
明治以降の日本の半島・大陸への進出を単純に侵略と見るアメリカ人が今でも多いのは、後背地を持たない島国である小国、日本にとって、中華思想や大国ロシアの南下政策がいかに恐ろしいものであるかを、大陸国家であるアメリカ人は皮膚感覚として理解できないからである(それでも1960年代初め、アメリカはソ連によるキューバへの核ミサイルの持込に狂乱した)。日本人にとっては古代に白村江の戦いがあり、中世には元寇があり、明治時代にはロシアが朝鮮半島に軍港(不凍港)を建設しようとした。現在でももし日米安全保障条約(や米韓相互防衛条約)が存在しなかったら、ロシアは容易に北海道へ侵攻し、中国は沖縄から九州地方を侵略してくるだろうと思う。朝鮮半島だってどうなるかは分からない。ロシアや中国の国家としての文化的・精神的レベルは、現在でもその程度だとしか判断のしようがない。
とにかく、日清戦争後の三国干渉で旅順港・大連港(不凍港)などをおさえたロシアは、シベリア鉄道を満洲へ延長し、ウラジオストック港と連携して太平洋艦隊を保持し、日本海の制海権を脅かしていた。これは世界が軍事的にあからさまな弱肉強食の時代にあって、日本にとって大きな国防上の脅威と映った。しかしながら、日露決戦を決断した日本は、「開戦直前の一九〇四年一月中旬において初めて、日本政府は資金調達の目処がつかないことを認識したのだった。」、「海外から物資を買うには金か、あるいは金の裏付けのしっかりした英国ポンドが要求されたのである。・・・日本には最初から、戦争をするだけの充分な正貨はなかったのだ」(第三章)。
国内産業もまだ絹産業程度しか持たない農業国であった日本が、莫大な戦費を調達するには外債を発行する以外に方法はなかったのだが、大国ロシアが相手であったことから日本の勝利を予想する者はほとんどなく、高橋是清がロンドンへ渡った当時、成功の目処はまったく立たなかった。当時のロシア帝国は、GDPも国家予算も人口も、陸軍の規模においてもほぼ日本の三倍であった(ただし、極東に回せた陸軍の兵力は、全体の40%程度だったとされている)。日清戦争に勝利し、近代化に成功しつつあった日本でさえ当時の国際金融市場での評価はその程度であったから、現代の韓国・朝鮮人が何を夢想しようとも、日清戦争で清国の属国から開放されたとはいえ、李氏朝鮮が外国と戦争をして自力で独立を維持しようとしても、資金的にまったく不可能であったことは議論の余地がない。もし日本が進出していなかったら、間違いなく朝鮮半島はロシア(後、ソ連)の一部になっていた(その場合は、日本自体もどうなっていたか分からない)。
窮地にいた高橋是清に救いの手を差し伸べてくれたのが、クーン・ローブ商会のヤコブ・シフとロンドンの銀行団であった。もちろん、シフらにもそれなりの思惑があったことは間違いないが、金がなければ戦争はできない。日露戦争が米英の資金によって戦えたことは歴史上の事実である。戦争の経過に伴う公債発行条件や価格の変化、日露戦争後の日本国の財務状況などについては本書を読んでいただくとして、最終的にかかった戦費はいくらになったか。「要した戦費15億円(註:日清戦争後の軍備拡張費を加えると約二十億円=二億ポンド)のうち、外国債が約7億円弱、当時の年間予算一般会計約2.5億円・・、全国銀行預金残高約7億6千万円」(第三章)、「ロシアは・・日本の戦費の二倍にもなるだろう。米国の南北戦争が四億ポンド(註:ほぼロシアの戦費と同額)」(第五章)である。「日本はこの戦争を通じて、国際金融市場における国家としての地位を大きく飛躍させたのである。・・・開戦直後のジャンク債からロシア並みの一・五流国程度には地位が上がった」(第五章)。
高橋是清はシフの恩義に報いるため、シフの盟友であるハリマンの極東行きを支援し、「桂・ハリマン協定」の成立を支持したようだ。「「桂・ハリマン協定」は・・米国政府を代表する公使と、日本政府アドバイザーと日本興業銀行総裁の三名によって作成されたものだった」(第六章)。元老達が賛同し、首相が同意したこの協定が実現しなかったのは、「日露戦争の実行部隊であり、計画者である大殊勲者でもある児玉源太郎(陸軍大将)は占領後の満州経営のあり方を(日本式の)植民地として考えていた」(第六章)からだった(ちなみに、後の“満州国”は満洲人の国家であり、必ずしも日本の植民地とは言えない)。「日本はゆっくりと、ハリマンやイギリスとアメリカの世論を騙していくのである」、「満州が門戸開放されたと考えていたイギリスやアメリカからは、クレームが付き始めた。・・・日露戦争に際し諸外国が日本に同情を寄せ軍費を供給したるは、日本が門戸開放主義を代表し、此主義のために戦うを明知したるが為なり。・・・日露戦争はイギリス・アメリカのファイナンス抜きでは日本は戦えなかった。・・・イギリスやアメリカにすれば、満州におけるロシアが日本に替わっただけでしかなかった」(第六章)。日本は誰の金で日露戦争を戦うことができたのかと米英が憤るのも無理はない。この事件は、本来が国家の道具であるべき視野の限られた軍人が政府首脳を動かしていった軍人優位と、以後、大東亜戦争の敗戦にいたるまでの日本の政治の傾向と欠陥とを象徴している。
「井上や伊藤達元老がこの案(註:「桂・ハリマン協定」のこと)に賛同した理由は、何も日本の資金不足のために南満州鉄道経営が重荷であると考えただけではなかった。新たに日本が経営する南満州鉄道は北から常にロシアの圧迫を受けることになるだろう。・・・アメリカの資本が入っていれば、日露二国間の問題では済まされずロシアも簡単には侵攻できないと考えたのである」(第六章)。著者は本書で、当時の日本が南満州鉄道経営においてもう少し柔軟であったなら、以後の世界の状況も日本の運命も変わっていたのではないかと述べて本書を締めくくっている。
本書は日露戦争時の資金調達の戦いを詳細に追ったものだが、凡百の歴史書や政治書を読むよりもはるかに良く日本の近現代史を理解する役に立つ。
「慰安婦と医療の係わりについて」天児都、麻生徹男共著、梓書院、2010年2月発行、¥1,700(税込み)
著者、天児都は1935年生まれ。九州大学医学部卒業(産婦人科専攻)、共著者、麻生徹男の二女。麻生徹男は1910年生まれ(~1989年)。九州帝国大学医学部卒業(産婦人科専攻)、日中戦争・大東亜戦争に応召。
本書は天児都による第1章「慰安婦と医療の係わりについて」と麻生徹男の残した第2章「花柳病ノ積極的豫防法」、および天児都が巻き込まれた「慰安婦問題」について書かれた第3章とから成っている。
「日支事変勃発後、(一般人に対する性的)暴行防止と(兵士の)性病感染対策のため日本より送られた女性達が慰安婦と呼ばれた最初の人たちである。・・・1937年以降の外征軍相手の娼婦は国内の公娼が海外で営業した者と私娼がヨーロッパの娼婦と同様に自由意志でこの仕事に入ってきた者の両方だった。・・・欧米のアジア植民地には本国人娼婦は極めて少数である。日本は朝鮮、台湾、樺太、関東州においても内地人の方が多く朝鮮人は少ない。日本人は慰安婦に同国人を求め、いずれの土地でも植民地住民は少なかったと言う。・・・その半数以上は日本人であった。」(第1章より)。金完燮(キム・ワンソプ)氏は「親日派のための弁明(2)」(星野知美訳、扶桑社文庫、各2006年9月発売、¥840(税込み))で、日本人慰安婦の数を朝鮮人女性の二倍以上と書いている。これが慰安婦と言われた娼婦の実態である(アメリカの公文書 UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces India-Burma Theator APO 689 Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49 には、「慰安婦は売春婦に過ぎない」とはっきり書かれている-”A ‘comfort girl’ is nothing more than a prostitute or ‘professional camp follower’ attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.”)。
日本軍は諸外国のような兵士による一般人への性的暴行を防止し、兵士の性病感染を防ぐため、慰安婦の性病対策に多大の努力を払った。麻生徹男は上海での勤務中、軍の要請で娼婦の性病検査に携わり、提言をまとめた。その内容が第2章である。一言で言えば、兵士に対して体育などのエネルギーのはけ口となる施策を講ずるとともに、「此ノ意味ニ於テモ軍用慰安所ノ娼婦ハ常ニ監督指導スルヲ必要トス。」(第2章より)ということである。日本軍の従軍慰安婦に関して、意図的に現代の価値観を持ち込んで慰安婦の存在自体が罪悪であるかのごとき論をなす悪質な反日主義者が見受けられるが、決してフェアな議論ではない。比較はあくまでも同時代においてなされるべきであり、売春が合法であった当時、慰安婦を利用して一般人への性的暴行を防止した軍隊と、慰安婦など利用せず、むしろ一般人への性的暴行を奨励・黙認した諸外国の軍隊のどちらがより人道的であったか、改めて論ずるまでもあるまい。当時(その後も)の日本軍以外の戦勝国の軍隊が、いかに無慈悲に敗戦国の婦女子に性的暴行を加えたか、それが世界の常識であったといって過言ではない。日本軍の慰安婦利用を罪悪と考える人たちは、一般人への性的暴行の方が優れていると考えているのである。
本書には第1章と第2章の英訳が付いており、第2章の内容は「史実を世界に発信する会」の英文のホームページに掲載されている。
いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」問題については、一部の日本人が問題をデッチあげ、韓国人がそれに便乗してウソ話を強弁しているというのが事実である。それらの日本人は売名行為を目的とした偽善者であったり、左翼であったり、国益など顧みない無知な文筆家や政治家たちである。千田夏光(作家)、青柳敦子、高木健一(弁護士)、吉田清治、朝日新聞社(記者)、戸塚悦郎(弁護士)、村山富市(元首相)、河野洋平(元官房長官)らの名前が研究者によって挙げられている。当時の政府・官憲はむしろ、悪徳朝鮮人による婦女子誘拐などを取り締まっていたのが事実である(“朝日新聞が報道した「日韓併合の真実」”水間政憲著、徳間書店など参照)。しかも、当時の朝鮮の警察官の多くは朝鮮人だったし、日本軍にも多くの朝鮮人兵士がいた。この問題に関しては、すでに多くの研究結果が本会ホームページの「掲載文献」欄などに掲載されている。
アメリカを始めとする西欧諸国が、事実確認をすることなく簡単にこうしたウソ話(プロパガンダ)に乗っかるのは、近代に至るまで強制連行・人身売買の奴隷制度を維持し、大量虐殺を得意技として世界中を侵略し、残虐な植民地支配で有色人種国家群を搾取・略奪し続けた悪業を自覚している白人の潜在意識が、自分たちよりも悪辣な行為をなした有色人種国家、日本が存在したということにして、無意識のうちに自らの罪悪感から逃れようとする深層心理的な作用が働いているからではないか。
「従軍慰安婦の強制連行」なるものが悪質な捏造であることを簡単にまとめた記事をネットで発見したので、参考までに以下にその大半を引用しておきます(一部改変)。
( 以下は by ノリマサ — 2012年4月28日 8:23 PM )
① 指令書や計画書、当時の日記・記録・証言録など、いまだに証拠(資料)がひとつも見つかっていない。
② 東京裁判や1965年の日韓基本条約でも慰安婦強制連行など存在しなかったし、韓国初代大統領李承晩も散々日本を非難していたが慰安婦については一度も抗議をしなかった(1980年代まで慰安婦問題などまったく存在しなかった)。
③ 慰安婦問題は1983年に吉田清治という一人の老人が「済州島で慰安婦狩りを行った」と発表したフィクション本『私の戦争犯罪』が全ての始まりである。
④ ところが済州島の当時を知る老人たちは、「私たちの村でそんな事が一人でもあれば私の耳に入っているはずだ」「そんな事は絶対になかった」と1989年に現地の『済州新聞』で証言し、地元の郷土史家も「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物だと思われる」と吉田本を完全否定した(後に吉田もフィクションだったと認めた)。
⑤ 日本の反日左翼が韓国で賠償金がとれるなどと慰安婦募集をして、戦後46年も経った1991年に初めて強制連行されたという被害者が名乗り出た(現在韓国政府が元慰安婦だと登録した人は二百数十人いるが、40数年間1人も被害を訴えなかったなんてことはありえるか?)。
⑥ その慰安婦たちの証言も二転三転していたり(中には証言が十数回も変わっている者もいる)、具体性に欠けたり、裏付けがなされていないなど、信用できるものではない。
⑦ 強制連行があったとしたら、両親や兄弟・親戚・友人・知人・目撃者などが何らかの行動を起こしていたはずだが、そんなものは一切なかった(当時は日本人が朝鮮人をからかっただけで抗議運動がおこっていたらしいし、気性の激しい朝鮮人が同胞女性を連れ去られていくのを黙って見ていたというのも考えられない)。
⑧ 連れ去られる女性が抵抗したという事例や、強制連行される途中や連行先から逃げ出して助けを求めたという事例も皆無。
⑨ 連れ去られる女性を朝鮮人が救出したり、阻止しようとした事例や、連れ去ろうとした者と戦ったり抗議したという事例も皆無。
⑩ 日本軍が強制連行したと韓国側は言うが、当時は多くの朝鮮人が日本軍に所属しており(朝鮮人の将校もいた)、同胞女性が強制的に性奴隷になどされていたのなら何らかの問題が起こるはずである(彼ら朝鮮人日本兵の存在は強制連行がなかった事の証明になると考える)。
⑪ 強制的に集めたという証拠はないが、自発的に集まったと思われる証拠なら存在する(1944年の「慰安婦募集」の新聞広告や1944年のアメリカ軍の記録など)。
⑫ 韓国はベトナム戦争で5000人とも3万人ともいわれる混血児を残してきたが、日韓混血児は一人も確認されていない(ちなみに日本軍は日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・シベリア出兵・満州事変・支那事変・大東亜戦争など多くの戦争に関わっているが、一度も混血児問題を起こしていない軍隊である)。
⑬ 1944年、ビルマを占領したアメリカ軍が朝鮮人経営者や朝鮮人慰安婦を尋問するなどしてまとめた「アメリカ戦時情報局心理作戦班日本人捕虜尋問報告 第49号」には、慰安婦たちが厚遇されている様子が記されている。
⑭ もちろん、性奴隷になどしてなくただの売春婦だったので、きちんと給料が支払われている(しかも莫大な金額が)。
⑮女性を拉致したり暴行したという加害者(氏名・年齢・所属など)も不明。
You Tube には「慰安婦」問題の真実を英語で解説している動画や解説がいくつか掲載されています(以下)。二番目は、資料を使用した解説のWebサイトです。
https://www.youtube.com/watch?v=UfyZioj0M-c&feature=youtube_gdata_player
https://www.youtube.com/watch?v=idmDRwL7YRw&feature=related
https://sakura.a.la9.jp/japan/?page_id=2015
https://www.youtube.com/watch?v=ijYLNvUPU_A
「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」佐藤優著、小学館、2006年7月発行、¥1,600+税
著者は1960年生まれ。外交官を経て、現在、文筆家。在ロシア連邦日本国大使館に勤務後、外務本省国際情報局分析官としてインテリジェンス業務に従事した経歴を持つ。大川周明は1886年生まれ(~1957年)。満鉄勤務、拓殖大学教授などを経て、五・一五事件などに関与。戦後、東京裁判のA級戦犯容疑者となるが、結局は免訴。日本初の「コーラン」の完全邦訳を刊行した。本書は佐藤優が大川周明の「米英東亜侵略史」を解説した書であるが、本書には同書の全文が掲載されている。
大川周明の「米英東亜侵略史」は、日米戦争開戦後、間もなく、NHKラジオで12日間にわたって放送された内容を翌年1月に書籍として発売したものである。「その内容はきわめて冷静な事実認識・分析で占められている」(第二章より)。特に前半の「米国東亜侵略史」は、ペリー来航以来、日米戦争に至るまでの日米関係を理解する上で有益である。一言で言えば、シナ大陸への進出を目指し、日本を補給基地にしようとしていたアメリカが、日露戦争後の「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)を日本側が一方的に断ったのを契機として、日本がアメリカの東亜進出の障碍であると考え始めたのがその後の反日政策として現れてきたということである。当時の日本は日英軍事同盟を結びロシアと戦ったにも関わらず、幕末以来の経緯もあり、アジア対西欧という見方から抜け出せず、西欧列強間の相違をうまく利用することが出来なかったのではないか。日本の最大の脅威はロシアの南下政策であったはずであり、それに対抗するためには日英同盟だけでなく、具体的にアメリカの力を利用するという視点に欠けていたように思われる。江戸時代を終らせ、明治の開国を迎えたということは、平和な時代から現在にまで続く世界規模の戦国時代に逆戻りしたということなのだが、日本の指導層にその認識がどの程度徹底していたのだろうか。「桂・ハリマン仮協定」(予備覚書)の問題に関しては、大川周明も佐藤優も日本側が一方的に断ったのを当然のこととしているが、筆者は同意できない。やはり明治政府は武の政府で、商の視点を軽視していたように思われる。国際社会には万国公法(国際法)があり、正しい(武の)主張は通るという正義の視点であり、利(商)の視点の蔑視があったのではないか。国際政府の存在しない国際法などというものは弱者を縛るための道具であり、戦国時代にあっては正義ではなく強者が勝つのだということは歴史が証明している。
本書の著者、佐藤優による解説はつまるところ、大川が考えていたと思われる“棲み分け”の思想(共生の思想)を生かして日本の国家体制を強化することが、現代の日本国家と日本人にとって重要であるということに尽きるのだが、解説部分には各所に衒学的な記述が目立ち、大川の「米英東亜侵略史」の部分と比べると、あまり読み易いものではない。
「大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義-」三田村武夫著、自由社、1987年1月復刊、古書有り
初版は1950年春「戦争と共産主義」のタイトルで出版されたが、すぐ占領軍最高司令部(GHQ)民政局の共産主義者により発禁処分にされた書。しかし、そのことが内容の真実性を傍証している。
著者は1899年、岐阜県生まれ。1928年から1935年まで、内務省警保局と拓務省管理局に勤務。1936年から衆議員議員。1943年には言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反容疑で警視庁に逮捕されている。
第二次世界大戦に至るまでの期間にシナやアメリカ政府が共産主義者の浸透を受け、ソ連政府の支配下にあったコミンテルンの世界革命戦略に沿って動かされてきた事実は現在では良く知られるようになってきたが、当時の日本でも同様の事態が進展しており、日本が日支事変から大東亜戦争へと引きずり込まれていった事実を、政府機関勤務や国会議員の経験があるとはいえ、一個人が収集できただけの資料に基づき、戦争終結後わずか5年の1950年に出版できた見識には敬意を表する価値がある。ただし、日本側の事情についてだけ書かれた書であり、アメリカ政府もそれ以上に共産主義者による支配を受けており、早くから対日戦争の準備を整え、戦争行為を開始していたことなどについては「ヒス事件」の疑惑以外、この時点での著者は情報を得ていない。
復刊本に「序」文を寄せている岸信介は、「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。・・・支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と書いている。
内容は本書の以下の目次からおおよそ読み取ることができると思う。
序 説 コムミニストの立場から
第一篇 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
一 裏がへした軍閥戦争
二 コミンテルンの究極目的と敗戦革命
三 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想-尾崎秀實の首記より-
第二篇 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
一 三・一五事件から満州事変へ
二 満州事変から日華事変へ
第三篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
一 敗戦革命への謀略配置
二 日華事変より太平洋戦争へ
三 太平洋戦争より敗戦革命へ
資料篇 一 「コミンテルン秘密機関」-尾崎秀實手記抜粋-
二 日華事変を長期戦に、そして太平洋戦争へと理論的に追ひ込んで来た論文及主張
三 企画院事件の記録
四 対満政治機構改革問題に関する資料
ソ連政府の支配下にあったコミンテルン(国際共産主義組織)は、1935年になって第七回大会でそれまでの非合法闘争方針を転換し、人民戦線戦術で各国の特殊性を認め、1929年にアメリカで発生し全世界を不況のどん底に叩き込んだ世界大恐慌後の状況に合せて、強大な帝国同士を戦わせ、疲弊させて、敗戦から共産主義革命に至る世界革命の戦術を考え出した。その戦術に沿ってアメリカ政府へもスパイや共産主義者を送り込み、シナ大陸では西安事件で蒋介石を脅迫して対日戦争を画策させ、それらと同調するように日本国内では軍部、政治家、学者、文化人などに影響を与えて軍部独裁、戦時体制へと巧妙に誘導していった。日本でその中心にいたのが尾崎秀實を中心とした隠れ共産主義者たちであった。アジアではまず日本と蒋介石軍を戦わせ、さらに蒋介石を支援していたアメリカと日本を戦わせることにより、世界共産主義革命への道が開けるとの戦術である。こうした戦術の多くが成功裏に進行していったのは、大恐慌によりアメリカでも資本主義への信頼が揺らぎ、日本では陸軍の中心の大部分が貧農や勤労階級の子弟によって構成されていて、社会主義思想への共感が得やすい土壌があったという背景がある。こうした困難を克服していく方法は社会福祉政策と自由貿易であったのだろうが、世界的にまだその機が熟していなかった。先述の岸信介の「序」文の続きには、「共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬籠中のものにしたか・・・本来この両者(右翼と左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法->生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している」と書かれている。
共産主義者、尾崎秀實は、当時のいわゆる「天皇制」について次のように書いている。「日本の現支配体制を「天皇制」と規定することは実際と合はないのではないか・・・日本に於ける「天皇制」が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在に於いて、如何に皇室自身が財産家であるとしても直接搾取者であるとの感じを民衆に与へては居ないと云ふ事実によって明瞭であらうと考へます。・・・その意味では「天皇制」を直接打倒の対象とすることは適当でないと思はれます。問題は日本の真実なる支配階級たる軍部資本家的勢力が天皇の名に於て行動する如き仕組に対してこれにどう対処するかの問題であります。・・・世界的共産主義大同社会が出来た時に於て・・所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません」(「コミンテルン秘密機関」尾崎秀實手記抜粋より)。