1941年7月23日、ルーズベルト大統領は、陸海軍長官の連名で(7月18日付)提出された合同委員会の対日攻撃計画書(JB355)にOKのサインをした。10月1日までに、350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地域を爆撃する計画である。中国空軍にやらせる計画であるが、その中国空軍の中枢にいわゆるフライング・タイガーと呼ばれる、偽装ボランティアのアメリカ陸海軍飛行士が派遣されていた。
この7月時点、日米の和解の交渉が行われていたことは誰でも知っている。日本側は、戦争回避のために必死の交渉を行っていたのであるが、何のことはない、アメリカはもうこの時点で対日攻撃を命令していたのである。一般には日本が7月28日に南部仏印進駐を行ったために、アメリカは8月1日、石油などの戦略物資の全面禁輸と日本資産凍結を行った、と言う事になっているが、そんなことは単なる口実であり、そのずっと前に対日戦争を決意、と言うより既に命令していたということである。
このJB355計画は、大統領の許可を得て進行し、順調にいけば9月末あるいは、10月には日本本土爆撃が行われるはずであった。しかし、欧州戦線が急迫し、大型爆撃機をそちらに回さなければならなくなったために、中国への供与が遅れることになり、「結果として」10月日本本土爆撃は実施できなかった。しかし、これは単なる対日戦に備えた戦争計画と言ったものではなく、中国を通じたという形ではあるが、日本本土爆撃命令なのである。
12月8日の真珠湾攻撃を今でもアメリカ人のほとんどは、日本の卑怯な不意打ち攻撃 sneak attack であると信じている。真実は、その約5か月前に、ルーズベルト大統領が陸海軍合同の日本本土攻撃計画にゴーサインを正式に出している。これこそアメリカの一般国民を欺き、そして日本をだまし討ちにした sneak attack plotそのものである。真珠湾攻撃は、正しく自衛権の発動に基づいたアメリカの攻撃に対する反撃戦であったということである。
ところで、このJB355計画は大統領補佐官ロークリン・カリーが中心となって1941年初めから進めていた。カリーは後にソ連の工作員だったことが判明した男である。5月9日にこの計画について大統領に覚書を提出したのに対し、5月15日にはルーズベルトからその具体化を進めるよう指示の書簡が送られている。即ち、ルーズベルトは陸海軍からの提案を単に承認したのではなく、ずっと前からカリーを通じてこの計画を進めさせていたのである。ルーズベルトが対日和解など考えていなかったことはこのことからもはっきり確認できる。
日米戦の戦争責任者の筆頭はルーズベルトであることは明らかである。戦争責任論はそこから始めるべきである。 (2011.7.23)