著者は1938年岡山県生れの作家。幕末維新で時代や制度が変わる中で、社会に取り残された人々の実情が良く伝えられている。歴史を理解するということはその時代に身を置いて考えるということであり、当時世界一の規模と文化を誇った江戸の町の直後の状況ですらこういう実情であったのだから、同時代のシナ大陸や清国の属国であった朝鮮半島の内情がどれほど悲惨であったか、容易に推察できるというものである。現代の中国人や韓国・朝鮮人が偏頗なイデオロギーなどによっていかに自国の歴史を捏造したり美化したりしようとも、当時、彼の国を訪れた西洋人の書き残した書籍などに目を通せば、真実の一端を窺うことは可能である。
2010年3月 のアーカイブ
「幕末下級武士のリストラ戦記」安藤優一郎著、文春新書、2009年1月発行、¥730+税
著者は1965年千葉県生れの歴史家(文学博士)。幕末から明治への転換期に生きた下級幕臣の残した自伝を基に、この時代の雰囲気を良く伝えている。歴史を作っていくのは政治家や知識人だけでなく、ただひたすら生きていくことに精一杯の多くの庶民だということが伝わってくる書物である。
「幕末維新 消された歴史」安藤優一郎著、日本経済新聞出版社、2009年10月発行、¥1,800+税
著者は1965年千葉県生まれ。歴史家(文学博士)。多くの一次資料を駆使しながら、幕末の歴史について広く世間に喧伝されている「事実」についての解明を試みている。日本の近代化の始まる前夜について、歴史の勝者による多くの「勝てば官軍」的な歪曲がなされていることに気づかされる良書である。
「蒙古襲来」山口修著、光風社出版、1988年6月発行、¥1,200+税(古書あり)
著者は1924年、神奈川県生れの大学教授。一般に蒙古襲来と言われているが、侵攻軍の実態は蒙古人・漢人・高麗人・唐人(蒙古に滅ぼされた宋人)の、シナ大陸と朝鮮半島全域の混成軍である。本書は国内外に残された資料を駆使して蒙古襲来の実態に迫っている。高麗、つまり朝鮮半島は地政学的に日本侵攻の基地にされやすい位置にあり、明治初期、ロシアを始め欧米列強の脅威に対していた日本が、シナ(明・清国)の属国であり、破産状態であった朝鮮半島が独立した強国になってくれなければ、後背地を持たない日本の独立が脅かされると考えたのは当然のことである。それにしても、蒙古軍の侵攻を受けた当時の日本の為政者が毅然としていたのが印象に残る。
「女帝の古代日本」吉村武彦著、岩波書店、2012年11月発行、¥760(+税)
著者は1945年、朝鮮大邱生れ。東京大学文学部卒業、明治大学文学部教授。
日本の歴史上の女帝(女性天皇)、特に古代の女帝についての研究書。古代に女性天皇が出現したのは律令制国家が成立した時期に集中しているのであるが、次期天皇決定の基準が時代に応じて変化していることが分かる。女性天皇出現の背景には、縄文・日霊女(卑弥呼)時代以来の日本の母系制社会の伝統が色濃く残っていたように思われ、男性・女性という性に対するこだわりが後の時代とは異なるように感じられる。同時に、次期天皇が皇室と限られた利害関係者だけで決定されており、時代背景に合せて柔軟に決定できた背景が窺える。
現代の皇位継承についてはさまざまな議論がなされているが、天皇制そのものが半ば公的な制度であるとはいえ、基本的には皇位継承は私的な天皇家の跡継ぎ問題である。次期天皇は、天皇について最も詳しい現天皇が(必要だと思う方々の意見を参考に)自家の後継者として決定するのが最も理に適っているように筆者には思われる。皇位継承を現天皇の意思とは関係なく政府が作成する法律で規定したり、現天皇家と何の関係も無いいわゆる“識者”といわれる人たちが、聞かれもしないのに他家の後継者について偉そうに口を出すのは、これほど不遜なことは無いのではないかと筆者は考えている。
なお、古代天皇家の謎の一つである継体天皇については、「継体天皇とうすずみ桜」(小椋一葉著、河出書房新社、¥1,800)に紹介されている「真澄探當證」にある記述(継体天皇は第23代顕宗天皇の子供)が最も真実に近いのではないか。
「古代日本正史」原田常治著、同志社、1976年9月発行、¥2,470(税込み、古書あり)
著者は1903年、千葉県生れ(~1977年)。出版社編集長などを経て(株)同志社(後、婦人生活社)を創立(故人)。現代の日本人の多くは記紀(古事記と日本書紀)神話に無知か無関心、少数の関心派の一部は記紀成立時の政治的背景を無視し思考停止した記紀原理主義者のような印象を受けるが、天皇制成立の謎とともに日本の古代史に関心のある日本人は多い。戦後、歴史研究のタブーが無くなったことによりさまざまな研究者による説が発表されているが、依然として謎は多い。古代のシナの文献に登場する日本人(倭人)は以下の通りである。①西暦紀元前2~1世紀ころ、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国」(前漢書、地理誌)、②紀元4年、「東夷の王、大海をわたりて国珍を奉じ」(前漢書、王莽伝)、③紀元57年、「東夷の倭奴国王、使いを遣わし奉献す」(後漢書、光武帝紀)、④紀元107年、「冬10月、倭国、使いを遣わし奉献す」(後漢書、安帝紀)、「倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(同上、倭伝)、⑤紀元220年ころ(?)、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と曰う」(三国志魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条=魏志倭人伝)、⑥紀元239年、「六月、倭の女王(卑弥呼のこと)、大夫難升米等を遣わし・・京都(洛陽のこと)に詣らしむ。その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、『・・今汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を・・仮授せしむ』」(魏志倭人伝)、⑦紀元243年、「倭王、また使大夫・・八人を遣わし・・上献す」(魏志倭人伝)、⑧紀元247年~(285年ころ以前)、「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王・・と素より和せず(戦争が始まる)。・・・卑弥呼以って死す。大いなる塚(元字は土偏が無い)を作る。・・・更に男王を立てしも国中服さず・・また卑弥呼の宗女の台与(元字は旧字)、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」(魏志倭人伝)、⑨紀元413~502年、晋書、宋書、南斉書、梁書に、いわゆる倭の五王(讃、珍、済、興、武)の遣使の記録が見える(ただし、倭人の使者が一字の王名を名乗ったかについては疑問がある)。これらの記述と記紀の内容とを対照すると、記紀に基づいて日本の古代史の真実を追究するのは非常に困難であることが分かる。なお、中国の吉林省集安市の好太王陵の近くにある高句麗の好太王碑(広開土王碑)には、391年から404年にかけて高句麗軍が朝鮮半島で倭軍と戦ったことが記録されている。
著者は本書で、8世紀初頭の記紀成立以前から存在している神社に残された伝承記録を分析することにより、日本の古代史の謎に迫っている。真実に迫るためにはできるだけ先入観のない客観的な立場での研究が必要であり、本書の内容がすべて真実かどうかはともかく、著者の視点は一つの卓見と言えよう。特に、いわゆる「魏志倭人伝」にある邪馬台(ヤマト)国の位置に関する著者の解釈(宮崎県西都市)は、筆者が目にした数多くの解釈の中で最も自然で納得のいくものと言える。
本書の続編として、神武天皇以後応神天皇までの“「上代日本正史」同志社、1977年3月発行、¥1,850(税込み、古書あり)”がある。
なお、類似の結論に達している文献に、「先代旧事本紀」の内容と各地の神社伝承を分析した大野七三(1922年生まれ)の著作(「日本建国神代史」、「日本国始め 饒速日大神の東遷」各2003年、2010年発行、批評社など)がある。大野氏推定の邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートは、不弥国以降が原田氏推定のルートと異なる。
邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートについては、最近出版された”「日本古代史を科学する」中田力著、PHP新書、2012年2月発行、¥720+税”に説明されているルート(唐津->小城->佐賀->熊本->八代->人吉->宮崎県西都市)もあり、不弥国(佐賀)までのルートはこれが最も真実に迫っているのではないかと思う。
著者には、“「気温の周期と人間の歴史」(第一巻 温暖化すすむ日本列島、第二巻 世界の九月現地調査)、同志社”という著書もあり、太陽の回帰線が周期的に南北に移動することが北半球と南半球の気候(気温)の変動をもたらし、経済・政治など社会の変動を招いているということを実証的に説明している(実際は、太陽の黒点数の変化などに現れる太陽活動の活発さの変化も気候変動に大きな影響を与えているし、最近では人間の活動による影響もあると言われている)。著者の見解では、回帰線の最南部と最北部の移動周期は約300年であり、2025年頃には最北部に達する。第一巻には、日本敗戦時に中国共産党の林彪が、日本が養成し優秀な日本人将校も入った満州国軍を買取ったのが八路軍の主力となり、これが戦後中国共産党が蒋介石軍を破って中国の内戦に勝利した要因であるとか、日露戦争時の通信秘話なども掲載されている。ただ惜しむらくは、著者の主張の中心的内容となったであろう第三巻(三千年の気温と人間の歴史の周期)が著者逝去のため出版されていないことである。
日中戦争は中国が起こした ― 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道
一、 日中戦争は日本の侵略戦争である、と思い込んでいる人が日本でも非常に多いようである。しかしこれは歴史事実に反する迷信であるといわねばならない。その理由は以下の通りである。
二、 まず第一に、日中戦争のきっかけといわれている盧溝橋事件は、一九〇一年に結ばれた北京議定書と呼ばれる条約に基づいて日本人居留民を守るために駐屯していた日本軍に中国軍が違法な発砲をしたことから起こった。一九三七年七月七日に事件は起こったが、その四日後の七月一一日には、現地停戦協定が結ばれた。三項目からなる停戦協定の第一項で「(中国)第二九軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、且つ責任者を処分し、将来責任を以て再びかくのごとき事件の惹起を防止することを声明す。」と書かれている。疑いの余地なく中国側が仕掛けたのである。その後の研究で、これは二九軍に大量に潜り込んでいた共産党員が仕掛けたことも判明している。
三、 そして本格戦争になったのは上海事変からである。八月一三日中国正規軍3万が租界に住む3万の日本人居留民を守るために条約に基づき駐屯していた海軍陸戦隊4千に対して、総攻撃をかけてきたのである。反日的で中国に同情的な論調であったニュー・ヨークタイムスでさえ、これは中国の一方的な攻撃であったと、次のように報じている。
「上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我 慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理や り追い込まれてしまったのである。」(1937年8月31日・ハレット・アーベント記者)
四、 中国の領土内で戦ったのだから侵略に決まっていると考えるのは、国際法を知らない人と云うべきである。条約に基づき駐屯している軍に違法に攻撃を仕掛けると、それは自国内であっても侵略行為となる。日本国内に駐屯するアメリカ軍に自衛隊が一方的に攻撃を仕掛けたとすると、それは侵略行為となるのである。それと同じく中国の領土内であっても中国軍が違法攻撃を行えば中国の侵略なのである。
五、 中国軍の攻撃によって戦争が始まったが、日本は何回も和平案を提出している。しかし8月9日の船津和平工作、11月、12月のドイツ駐華大使トラウトマン仲介による和平提案等は残念ながら中国側から拒否された。和平条件で日本は一片の領土要求、利権要求をしていないにもかかわらずである。その後も近衛首相は、近衛3原則「善隣友好・共同防共・経済提携」を提起した。このどこに侵略性があるというのか。ソ連・そして米英の支援を頼って日本の和平提案を拒絶した蒋介石のために戦争は泥沼化したのである。
(10.3)
2月の集計
2月に頂いたご支援の集計です。
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2/24 S .M様 10,000 寄付
2/25 Y .S様 100,000 賛助会員
2/25 K .T様 10,000 個人会員
合計 368,000 円
誠に有難うございました。