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7月7日は中国共産党の戦争犯罪記念日である 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

2011年7月7日 木曜日

 今から74年前の1937年7月7日夜10時40分ころ、盧溝橋付近の河川敷で演習を終了した日本軍駐屯軍第8中隊に対して、数発の実弾が撃ち込まれた。これが、いわゆる盧溝橋事件であり、日中戦争のきっかけとなった事件である。

 これを偶発説とするのが現在の歴史学会の定説のようであるが、とんでもない話である。
中国共産党は、1932年4月26日瑞金の中華ソビエト共和国の名で対日宣戦布告を行って以来一貫して、反日(武装闘争)を中心政策として掲げてきた。1936年12月西安事件により、蒋介石に反日共同戦線を強要させたのであるが、蒋介石は共産党に次々に高いハードルを突き付け、翌年6月には、次のような状況に陥っていた。
「共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることになり、…1937年6月には、蒋介石は、…再度紅軍の行手を塞ごうとしていた。…共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲せん滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた。」(エドガー・スノー『中共雑記』)
 
 この窮状を打開するとともに、国民党と日本を戦わせるという本来の目的のために打って出た謀略的な攻撃こそが、盧溝橋での銃撃であった。国民党29軍には、副参謀長をはじめとして、大量の共産党員を潜伏させていたことは、現在では中国側の資料により、詳細な人名まで明らかとなっている。潜伏共産党員兵士は部隊内で日本軍が攻撃してくるという扇動をしておいて、発砲事件を起こし、そしてその拡大が成功した、と言うのがことの実態であった。

 支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた。」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)と述べている。その時はどう意味かわからなかったというが、今でははっきりしている。謀略攻撃が成功したことを知らせていたのである。

 日本軍が、反撃を開始したのは、最初の発砲から7時間後の8日の5時半である。にもかかわらず、8日には延安の共産党中央から長文の電報が、蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府機関、軍隊団体などに対して大量に送られているのである。事前に筋書きを作り準備していなかったなら、当時の通信事情などからして、8日の朝日本軍が反撃した後、このような詳しい長文の電報を作成し、中央委員会の決済を経て全国に発信するなど絶対に不可能である。謀略が成功したのである。

 日中戦争は、日本が起こしたかのように言われているのは、途方もない歴史偽造である。もしこの戦争が非難さるべきものであるとすれば、その戦争犯罪人は明らかに中国共産党なのである。

ペルリ来寇から今日までを論ず  加瀬英明  その3  万世一系の御皇統を崇める

2011年7月7日 木曜日

わが御皇室が姓をお持ちにならないのに対して、中国の王朝は天命を授かって民衆のなかから興って、時の王朝を倒して皇位を纂奪したから、姓がある。だから一族が中心にあって、天下を自分たち一族の私物だとみなした。漢王朝は劉が姓であり、唐王朝の姓は李だった。元王朝を倒して、明朝を開いた朱元璋(しょう)は、貧農の出身だった。二十代で軍に入ってから頭角を現わし、ついには洪武帝元璋となった。

中国では天命によって易姓革命が行なわれるというものの、強者が覇者になるというだけのことだった。皇帝が徳――権力の独占者だった。歴代の王朝は、人民の膏血を絞れるだけ絞って、贅のかぎりを尽した。どの王朝も、天下を私物化した。中国では「君臣」といっても、皇帝とその使用人だけを指していた。民は「生民」とか、「小民」とか、「草民」と呼ばれた。草民は刈れば、また、いくらでも生えてくるという意味だった。

中国では王朝と人民とは、つねに対立関係にあった。人民は王朝を信頼することがなかった。中国でも朝鮮でも、人々は専(もっぱ)ら自分自身と、自分の一族を守ることに努めなければならなかった。今日の中華人民共和国も、易姓革命によって出現した中華王朝であることに、まったく変わりがない。中国にはいまだに公の概念がない。

日本と中国は、対照的であってきた。今上陛下が百二十五代に当たられるが、百二十五人の天皇のなかで、お一人として贅を尽された方は、おいでにならない。つねに質素を旨とされ、「天皇に私(わたくし)なし」といわれるが、国民を想われて、神事に真摯に取り組まれてこられた。有難いことである。もし、万世一系の御皇室がなかったとしたら、日本は中国や、朝鮮と変らないような国となっていたはずである。

天皇と国民はつねに利害を同じくして、苦楽を分かち合い、歴史を通じて、相互の信頼と敬愛によって結ばれてきた。天皇と国民のこのような絆(きずな)が、日本の政治文化と生活文化を律してきた。ここから、和の精神が培われてきた。今日でも、日本では子どもを育てる時に、「みんなと仲よくしなさい」というのに対して、中国では「ひとに騙されないように」という。(これは、あるとき黄文雄先生にたずねたら、そう教えられた。)

私は多少、朝鮮語ができるが、韓国ではいまでも、子どもに「一番(イル)に(トウンイ)なりなさい(・テオラ!)」「負けないで(チジマ!)」と、いい聞かせて育てる。日本は和の社会であってきたから、たとえスポーツ競技でビリになったとしても、最善をつくして頑張ったら、評価されるが、韓国では勝たなければ、軽蔑される。

皇(こう)極(ぎょく)四(六四五年)年に、女帝であられた皇極天皇のもとで、大化改新が断行された。それまで、日本では豪族が日本を分けて支配していたのを、大化改新によって、天皇が全国を直接治めるように改めた。明治の廃藩置県と、同じことを行ったのだった。
皇極天皇は大化改新に当たって、「今始(はじ)めて万国(くにぐに)を治めんとす」「万民宰(おさ)むるは独り制(おさ)むべからず、要(かなら)ず民の翼(たすけ)を須(ま)つ」という、勅(みことのり)を発されている。これは、聖徳太子がその四十一年前に、十七条憲法を制定して、「和ヲ以(もつ)テ貴(とうと)シトナス」と諭されたのと、同じ線上にある。第十七条目は、大切なことはみんなでよく相談して決めなさい、全員で話し合って決定したことは正しいと、定めている。これは、世界最古の民主憲法であって、大いに誇るべきことだ。日本の国号として、大和(やまと)があるが、和によって結ばれてきた。日本は二千年以上にわたって、万世一系の天皇を尊ぶことによって、一つにまとまってきた。

明治維新は日本の内にあった思想から、発した。古代から胍々として伝わってきた尊皇精神によって、成し遂げられた。今年は中国の辛亥革命の百周年に当たるが、孫文の三民主義は西洋から借りてきた物だった。もっとも、辛亥革命の主役は、袁世凱だった。孫文は「近代中国の父」といわれているものの、脇役でしかなかった。辛亥革命は武昌蜂起によってもたらされたが、孫文はそのあいだ、アメリカとヨーロッパに遊んでおり、武昌蜂起の三ヶ月後になって、ようやく帰国している。

孫文が中国人は「一盤散(いちばんさん)砂(しゃ)」――まるで大きな皿に盛った、砂の山のようで、すぐに散り散ってしまうと嘆いたことは、よく知られている。中国が不信のうえに築かれた社会であるのに対して、日本は和によって束ねられてきた。

日本の国歌『君が代』は、古今集からとったものである。「君が代は千代に八千代に
さざれ石の巖(いわお)となりて苔(こけ)のむすまで」という歌詞は、日本の国歌としてもっともふさわしいものだ。細(こまか)い石である「さざれ石」が集まって、一つの「巖(いわお)」となるから、中国と正反対の国柄である。

私は天皇陛下が生き神であられることを、信じている。
ラフカディオ・ハーンーー小泉八雲の作品にし『生神』があるが、徳川期に浜口五兵衛という圧屋がいて、その徳行のために、村民が堂をたてて、生きながら浜口大明神として祭られたという事実にもとずいている。日本では倣(おご)る神が存在せず、神と人のあいだの境界がはっきりとしていない。

私は海外で日本文化について講演することがあるが、日本の神々は山や森にましまして、鎮まっていられるという時に、外国諸語に神が「鎮まっている」という言葉がないので、長く説明しなければならない。ユダヤ・キリスト・イスラム教の唯一神は能動的で、人々の生活の細かいところまで干渉する。

西洋の王や、為政者は、長いあいだその神のように専制者だった。今日の中国も絶対権力を正当化する儒教国家であることに、変わりがない。
天皇陛下は、杜のなかに鎮まっていられる。国民は天皇にご心配をおかけしないように、身を律して生きることを求められている。世界に類(たぐい)ない、君臣一体の国柄である。

ペルリ来寇から今日までを論ず  加瀬英明  その2、 桜田門外の変

2011年7月6日 水曜日

安政七(一八六〇)年に江戸城桜田門外において、攘夷を奉じた、水戸、薩摩藩の十八人の脱藩浪士が、白雪を血に朱く染めて、時の大老の井伊直弼を惨殺した。

井伊大老はペルリが来寇すると、幕閣に開国を進言して、勇断をもって日米和親条約と、安政五ヶ国条約の調印を断行し、開国に反対する尊攘派を圧迫して、安政の大獄をもたらした。暗殺者のうち十七人が、水戸藩の浪人だった。

井伊大老は、行年四十六歳だった。私はいまでも桜田門の前を通るたびに、救国の大恩人だった井伊大老の霊に、胸のなかで合掌して、感謝の誠を捧げている。
もし、無謀な攘夷派が国政を握ったとすれば、西洋列強が圧倒的な武力をもって、日本列島を侵略したことだろう。そうなれば、日本は焦土と化して、西洋列強によって分割され、清の二の舞となったことは疑いない。井伊直弼は、天皇への尊崇の念が篤かった。彦根の藩侯の庶子として生まれたために、三十六歳で藩主となるまで不遇だったが、二十代から本居宣長の『古事記伝』『玉(たま)勝間(かつま)』を繰り返し熟読するなど、国学と古道に傾倒した。「吾(わが)皇国の古事知らずてはかなはず」と、認(したた)めている。直弼は「儒教外道、神道正道」と、説いた。居合道の新心流に打ち込み、藩主となった後に、自らの流派として新心新流を立てた。禅を十三歳から修行し、当時の日本で一、二を争う高僧だった二十三世仙英禅師から、悟道の允許である印可証明を与えられ、袈裟血脈を授けられている。そのかたわら、歌道と茶道をきわめた教養人だった。藩主として徳政を行なった、名君だった。

井伊大老の勇断なしには、日本が亡びたことだった。今日でも、井伊大老を残殺した不逞浪人を、志士と呼んで称える人たちがいるが、とんでもないことだ。襲撃した浪人たちは、怯懦だった。大老が剣道の達人であることを知っていたから、まず駕籠へ向けて短筒を発射して、大老の腰を貫いた。もし武士の矜持があったら、大老と斬り結ぶべきだった。
大老を警護する藩士たちが、雪が降っていたために、刀を柄袋に入れていたが、鞘(さや)に払う暇(いとま)を与えなかった。武士の風上に置けない振る舞いだった。

幕府は文政八(一八二五)年に、安政令として知られる、異国船無二(むに)念(ねん)打払令を発している。異国船打払令として知られる。しかし、その十七年後に、西洋の軍艦の火砲の威力に怖(おじ)気(け)て、天保薪水令によって代えて、捕鯨船をはじめとする黒船に、水や薪を供給してもよいこととしていた。日米和親条約は幕閣が忍び難きを忍んで、結んだものだった。ペルリ艦隊が襲来すると、瓦版(かわらばん)に載った狂歌の「アメリカが来ても日本はつつがなし」のように、洋夷の圧倒的な武力に対抗する術(すべ)がなかった。この戯(ざ)れ歌は「恙無(つつがな)い」と、「筒(つつ)(大砲)」をかけている。

もちろん、井伊大老のほかにも、会津の松平容(かた)保(もり)藩主や、阿部正弘老中首座をはじめとして、開国が日本の存立を全うするために避けられないと判断して、避戦論を唱えた具眼の士も少なくなかった。尊攘派は情の激するところ時局を乱(みだ)して、大道を誤まっていた。ところが、水戸藩主の徳川斉昭公は来冦する黒船に対して、幕府につぎのように献策した。
「此度渡来ノアメリカ夷、重キ御制禁ヲ心得ナガラ 共驕傲無礼――始末 言語道断ニテ実ニ開闢以来之国耻(恥の俗字)。(略)夷賊ヲ御退治無之而ノミナラズ、万々一願之趣御聞済ニ相成候様ニテハ 乍憚 御国体ニ於テ相済申間敷 是決テ不可和ノ一ヶ条ニ候。(略)
槍劒手結ノ勝負ハ神国之所長ニ候、 槍劒 アラバ戦艦銃砲モ終ニ恐ルルニ足ラズ」
「アメリカの砲なぞ、恐れることはない。神国の長技である、槍と刀でかならず勝てる」というものだ。

ペルリ艦隊が嘉永六年に来襲し、翌年春に戻ると宣言して退去したあとで、阿部老中が諸大名だけでなく、開国か、攘夷か、百姓、町民まで対象にして、意見書を提出するように求めた。斉昭公は尊攘論の急先鋒だった。この時、井伊大老も意見書を提出して、「兵船を自負して恐嚇之姿無恥蛮夷之常態とハ乍(もうし)甲(ながら)実ニ可悪(にくむべき)之至ニ候」と述べ、二回目の意見書では、「暫(しばら)く兵端を不開(ひらかず)、年月を経て必勝万全を得る之術計ニ出可申哉」と、献策している。

井伊大老は明治の日本をつくった、先駆者だった。

私は昭和四十九年から翌年にかけて、昭和二十年元日からマッカーサー元帥が離日するまで、昭和天皇を中心としたノンフィクションを、『週刊新潮』に五十回にわたって連載した。昭和天皇の終戦へ向けた御懊悩について書きながら、日本国民の一人として、胸が強く締めつけられる想いがしたものだった。軍は「神州護持」「一億総突撃」「一億玉砕」を呼号して、本土決戦を準備していた。昭和二十年七月二十五日に、東京において第一総軍が幕僚副長会同を催した。この席上、第一総軍参謀長の須藤栄之助中将が、敵軍を水際で撃滅すべきことを強調したうえで、佐官の幕僚があらかじめ出席者に配布された軍通達を、読みあげた。
「決戦思想 攻勢ニ徹ス。(略)死ヌマデ攻勢ヲトル。(略)敵ヲツブシテシマフマデ一兵残ルマデ攻勢ヲトル」
しかし、九十九里浜の海岸陣地を守る「貼り付け師団」は、三、四十歳以上の中年の召集兵からなり、師団によっては小銃が十人に一挺しか渡っていなかった。第三十六軍は総軍に「自隊作成兵器」数について報告しているが、そのなかに「槍(やり)一五〇〇本」と記載されていた。

昭和天皇は陸軍侍従武官から、九十九里浜の本土決戦部隊に、小銃すら渡っていないという報告を聞かれて、国民を救う決断をされた。私は「槍一五〇〇本」と、暗然として書きながら、徳川斉昭公の百二十年以上前の意見書を思い出した。軍人に尊攘派の妖霊が乗り移っていた。愛国心と無知が結びつくと、おぞましい。二・二六事件の青年将校は、ロシア革命思想によって、誑(たぶら)かされていた。大元帥陛下が親しく統率される兵を私(わたくし)することによって、皇軍の光輝ある歴史に大きな汚点をのこした。宸襟(しんきん)を悩まし奉った罪は、あまりにも大きい。

これらの陸軍青年将校は、五・一五事件の海軍士官とともに、「革新将校」と呼ばれた。第二次大戦後に、ソ連によって操られていた左翼勢力が、「革新陣営」と呼ばれたのと同じことだった。二・二六事件の無知をきわめた青年将校は意識しなかったが、戦後の左翼と同じ穴に巣くう狢(むじな)だった。

天皇と中国の歴代の皇帝は、神を祭り、天と地のあいだをつなぐ祭祀王の役割を果すことでも、共通している。私は一九七九年に中国の招きによって、はじめて訪中した時に、北京で故宮に案内されて、天壇を参観した。辛亥革命によって清朝が崩壊した時に、北京に滞在していたフランスの学者は、こう記した。
「(フランス)領事館の年老いた中国人女中の心をもっぱら奪っている。『どういうことになるんでございましようかねえ?』と、彼女はド・ラ・バテイー夫人に向かって言ったものである。『雨乞いをなさる皇帝がもう北京にいなさらんとなりますとねえ』」(『辛亥革命見聞記』、ファルジュネル著、石川湧など訳、昭和四十五年、東洋文庫)

慶応三(一八六七)年に、大政奉還の大号令が発せられることによって、尊攘派による混乱が終熄して、神州に正気が戻った。東海の朝が明けたのだった。翌年三月に、明治天皇が天つ神と国つ神に誓われて、『五箇条の御誓文』を国民に下賜されることによって、明治新政府の大方針を示された。このなかで、「万機(ばんき)(すべて)公論(こうろん)ニ決スヘシ」「上下(しようか)心ヲ一ニシテ」と、宣布された。
『五箇条の御誓文』は、歴代の中国の皇帝と、日本の天皇がまったく異っていることを、示している。日本では天皇と国民が一つに、固く結ばれてきた。天皇から末端の国民まで、上下心が一つに結ばれている。

明治十五年には、『軍人勅諭』が下された。「朕ト一心ニナリテ力ヲ国家ノ保護ニ尽サハ我国ノ蒼生(そうせい)(国民)ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我国ノ威烈(いれつ)(威光)ハ大ニ世界ノ光華(こうか)トナリヌヘシ」と諭されたが、天皇と国民がこの国を一緒になって守ろうと、訴えている。

明治二十三年には、『教育勅語』が発せられた。やはり「朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳(けん)拳(けん)服膺(ふくよう)(謹んでよく守る)シテ咸(みな)(あまねく)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」とあり、天皇と国民が「徳ヲ一」つにしようと、呼びかけている。

このようなことは、中国ではまったく考えることができない。日本と違って、皇帝と国民は一体ではない。中国の属国として、〃ミニ中国〃であった朝鮮でも、同じことだった。
中国では、万世一系の皇統を戴くわが国と違って、易姓革命によって、王朝がしばしば交替した。