‘資料室’ カテゴリーのアーカイブ

資料室

「蒙古襲来」山口修著、光風社出版、1988年6月発行、¥1,200+税(古書あり)

著者は1924年、神奈川県生れの大学教授。一般に蒙古襲来と言われているが、侵攻軍の実態は蒙古人・漢人・高麗人・唐人(蒙古に滅ぼされた宋人)の、シナ大陸と朝鮮半島全域の混成軍である。本書は国内外に残された資料を駆使して蒙古襲来の実態に迫っている。高麗、つまり朝鮮半島は地政学的に日本侵攻の基地にされやすい位置にあり、明治初期、ロシアを始め欧米列強の脅威に対していた日本が、シナ(明・清国)の属国であり、破産状態であった朝鮮半島が独立した強国になってくれなければ、後背地を持たない日本の独立が脅かされると考えたのは当然のことである。それにしても、蒙古軍の侵攻を受けた当時の日本の為政者が毅然としていたのが印象に残る。

「女帝の古代日本」吉村武彦著、岩波書店、2012年11月発行、¥760(+税)

著者は1945年、朝鮮大邱生れ。東京大学文学部卒業、明治大学文学部教授。
日本の歴史上の女帝(女性天皇)、特に古代の女帝についての研究書。古代に女性天皇が出現したのは律令制国家が成立した時期に集中しているのであるが、次期天皇決定の基準が時代に応じて変化していることが分かる。女性天皇出現の背景には、縄文・日霊女(卑弥呼)時代以来の日本の母系制社会の伝統が色濃く残っていたように思われ、男性・女性という性に対するこだわりが後の時代とは異なるように感じられる。同時に、次期天皇が皇室と限られた利害関係者だけで決定されており、時代背景に合せて柔軟に決定できた背景が窺える。
現代の皇位継承についてはさまざまな議論がなされているが、天皇制そのものが半ば公的な制度であるとはいえ、基本的には皇位継承は私的な天皇家の跡継ぎ問題である。次期天皇は、天皇について最も詳しい現天皇が(必要だと思う方々の意見を参考に)自家の後継者として決定するのが最も理に適っているように筆者には思われる。皇位継承を現天皇の意思とは関係なく政府が作成する法律で規定したり、現天皇家と何の関係も無いいわゆる“識者”といわれる人たちが、聞かれもしないのに他家の後継者について偉そうに口を出すのは、これほど不遜なことは無いのではないかと筆者は考えている。
なお、古代天皇家の謎の一つである継体天皇については、「継体天皇とうすずみ桜」(小椋一葉著、河出書房新社、¥1,800)に紹介されている「真澄探當證」にある記述(継体天皇は第23代顕宗天皇の子供)が最も真実に近いのではないか。

「古代日本正史」原田常治著、同志社、1976年9月発行、¥2,470(税込み、古書あり)


著者は1903年、千葉県生れ(~1977年)。出版社編集長などを経て(株)同志社(後、婦人生活社)を創立(故人)。現代の日本人の多くは記紀(古事記と日本書紀)神話に無知か無関心、少数の関心派の一部は記紀成立時の政治的背景を無視し思考停止した記紀原理主義者のような印象を受けるが、天皇制成立の謎とともに日本の古代史に関心のある日本人は多い。戦後、歴史研究のタブーが無くなったことによりさまざまな研究者による説が発表されているが、依然として謎は多い。古代のシナの文献に登場する日本人(倭人)は以下の通りである。①西暦紀元前2~1世紀ころ、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国」(前漢書、地理誌)、②紀元4年、「東夷の王、大海をわたりて国珍を奉じ」(前漢書、王莽伝)、③紀元57年、「東夷の倭奴国王、使いを遣わし奉献す」(後漢書、光武帝紀)、④紀元107年、「冬10月、倭国、使いを遣わし奉献す」(後漢書、安帝紀)、「倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(同上、倭伝)、⑤紀元220年ころ(?)、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王と為す、名を卑弥呼と曰う」(三国志魏書、烏丸鮮卑東夷伝倭人条=魏志倭人伝)、⑥紀元239年、「六月、倭の女王(卑弥呼のこと)、大夫難升米等を遣わし・・京都(洛陽のこと)に詣らしむ。その年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、『・・今汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を・・仮授せしむ』」(魏志倭人伝)、⑦紀元243年、「倭王、また使大夫・・八人を遣わし・・上献す」(魏志倭人伝)、⑧紀元247年~(285年ころ以前)、「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王・・と素より和せず(戦争が始まる)。・・・卑弥呼以って死す。大いなる塚(元字は土偏が無い)を作る。・・・更に男王を立てしも国中服さず・・また卑弥呼の宗女の台与(元字は旧字)、年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」(魏志倭人伝)、⑨紀元413~502年、晋書、宋書、南斉書、梁書に、いわゆる倭の五王(讃、珍、済、興、武)の遣使の記録が見える(ただし、倭人の使者が一字の王名を名乗ったかについては疑問がある)。これらの記述と記紀の内容とを対照すると、記紀に基づいて日本の古代史の真実を追究するのは非常に困難であることが分かる。なお、中国の吉林省集安市の好太王陵の近くにある高句麗の好太王碑(広開土王碑)には、391年から404年にかけて高句麗軍が朝鮮半島で倭軍と戦ったことが記録されている。
著者は本書で、8世紀初頭の記紀成立以前から存在している神社に残された伝承記録を分析することにより、日本の古代史の謎に迫っている。真実に迫るためにはできるだけ先入観のない客観的な立場での研究が必要であり、本書の内容がすべて真実かどうかはともかく、著者の視点は一つの卓見と言えよう。特に、いわゆる「魏志倭人伝」にある邪馬台(ヤマト)国の位置に関する著者の解釈(宮崎県西都市)は、筆者が目にした数多くの解釈の中で最も自然で納得のいくものと言える。
本書の続編として、神武天皇以後応神天皇までの“「上代日本正史」同志社、1977年3月発行、¥1,850(税込み、古書あり)”がある。
なお、類似の結論に達している文献に、「先代旧事本紀」の内容と各地の神社伝承を分析した大野七三(1922年生まれ)の著作(「日本建国神代史」、「日本国始め 饒速日大神の東遷」各2003年、2010年発行、批評社など)がある。大野氏推定の邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートは、不弥国以降が原田氏推定のルートと異なる。
邪馬台国(宮崎県西都市)へのルートについては、最近出版された”「日本古代史を科学する」中田力著、PHP新書、2012年2月発行、¥720+税”に説明されているルート(唐津->小城->佐賀->熊本->八代->人吉->宮崎県西都市)もあり、不弥国(佐賀)までのルートはこれが最も真実に迫っているのではないかと思う。
著者には、“「気温の周期と人間の歴史」(第一巻 温暖化すすむ日本列島、第二巻 世界の九月現地調査)、同志社”という著書もあり、太陽の回帰線が周期的に南北に移動することが北半球と南半球の気候(気温)の変動をもたらし、経済・政治など社会の変動を招いているということを実証的に説明している(実際は、太陽の黒点数の変化などに現れる太陽活動の活発さの変化も気候変動に大きな影響を与えているし、最近では人間の活動による影響もあると言われている)。著者の見解では、回帰線の最南部と最北部の移動周期は約300年であり、2025年頃には最北部に達する。第一巻には、日本敗戦時に中国共産党の林彪が、日本が養成し優秀な日本人将校も入った満州国軍を買取ったのが八路軍の主力となり、これが戦後中国共産党が蒋介石軍を破って中国の内戦に勝利した要因であるとか、日露戦争時の通信秘話なども掲載されている。ただ惜しむらくは、著者の主張の中心的内容となったであろう第三巻(三千年の気温と人間の歴史の周期)が著者逝去のため出版されていないことである。

「台湾、朝鮮、満州 日本の植民地の真実」黄文雄著、扶桑社、2003年10月発行、¥2,476+税

著者は外国(台湾)出身であるがゆえに早くから客観的な事実を丁寧に掘り起こし、冷静に日本と中国近現代史の真実を世に問う著作を数多く発表してきているが、本書は日本の「植民地」と言われる戦前の台湾、朝鮮、満州についての集大成としての著作である。「台湾は日本人がつくった」(徳間書店、2001年4月)、「満州国の遺産」(光文社、2001年7月)、「韓国は日本人がつくった」(徳間書店、2002年4月。改訂版、WAC BUNKO、2010年8月)に続いて出版された著作で、著者は本書で西欧諸国による搾取・略奪型植民地とは異なる日本型「植民地」、つまり、日本本土に次ぐ第二、第三の「文明開化、殖産興業」による近代国民国家建設による東アジアの近代化の史実を、膨大な歴史資料に基づき実証的に詳述している。その背景には西洋列強からの日本の独立保全の問題があり、当時、“日本は、常に背水の陣で日本の安全保障の大前提である「アジア保全」(列強からの防衛)の努力を行っていた”のであり、“日本とともに近代化を行って西洋と対抗できる・・・アジア諸国が他になかった”のである。それがついには大東亜戦争を経てアジア諸国の独立につながり、アフリカ植民地の独立をも誘発し、人類史において“白人世界帝国解体への起爆剤となった”世界史的な意義を指摘している。「歴史は巨視的にみるべきだ。台湾と海南島は面積や地理的条件が実に似通っているが、この二つの島を比較すれば、日本の台湾統治の真実が最もよく理解できる。また、衛生環境が悪かった都市といわれたソウルが、なぜ近代的都市になったのか、かって塞外(辺境の意)、封禁(出入禁止の意)の荒野として放置された満洲が、いかにして近代産業国家に一変したのかを考えれば、日本のこれら地域における功績に、もはや説明は要らないはずだ」(“はじめに”より)。「日本人は台湾で匪賊を討伐、平定し、朝鮮では両班の苛斂誅求を停止させた。満洲では軍閥、馬賊を追放し、それによってこれら地域では安定社会が現出し、殖産興業が行われたのである。・・・かって非西欧文明圏の中で、資本蓄積と技術開発をできる国は日本だけであった。・・・日本の「文明開化」の波動を東亜世界に拡散できた背景には、日本の資本と技術の創出とその海外移転の成功があった」(第1章)。日本は台湾、朝鮮、満洲などでいかに良いことばかりをしてきたかを知っておくことは、日本の近現代史を知る上で日本人としての最低限の務めである。
同時に著者は、本来が人類のユートピア(地上の天国、地上の楽園)思想であり、解放思想であった植民地主義と社会主義(ほぼ同時代に崩壊した)を人類史の観点から鳥瞰・比較し、総じて言えば植民地主義はその遺産として各地に近代化をもたらしたが、社会主義がもたらしたものは人々の貧窮と荒廃のみであったと分析している。「かっての中国人は、植民地の悪の象徴だった租界に住むことを夢見ていた。なぜなら租界は中国の中で、唯一生命と財産を保障してくれる天国であり、駆け込み寺だったからだ。それはイギリスの植民地だった香港にもいえることである。・・・日本の植民地だったと非難される満州国にも、年間百万人以上の中国人がなだれ込んでいたという事実があるのだ」(“はじめに”より)。
さまざまな欲望に際限が無く、全体として善よりも悪の要素が勝る現実の人類に地上の楽園(ユートピア)を実現することは本質的に不可能だと思われるが、人類史において繰り返しユートピア思想が現れるのは、いつの時代も人間社会というものが悪と悲惨を抱え込んでいるためだと思われる。しかしそれは教育の普及と共助・共生により漸進的に改善していく以外に方法はなく、人間の本質を無視した安易なユートピア思想には眉にツバをすべきであると筆者は考えている。

「台湾は日本の植民地ではなかった」黄文雄著、ワックBUNKO、2005年12月発売、¥933+税

著者は1938年台湾生まれの高名な評論家。

「台湾は日本人がつくった」黄文雄著、徳間書店、2001年4月発売、¥1,500+税 


著者は1938年台湾生まれの高名な評論家。

「図説 写真で見る満州全史」(ふくろうの本/日本の歴史) 平塚 柾緒他著、 太平洋戦争研究会編、河出書房新社、2010年11月発行、¥1,890(税込み)


タイトルから分かるように、本書は写真集に解説を施したものである。解説は総じて通説と著者の理解(推測)に基づいて書かれており、必ずしも同意できない箇所も散見されるが、数多くの写真により満州国が存在した当時の時代が視覚的によく分かる。
歴史を書物の文章だけで理解しようとすると、どうしても観念的、抽象的な客体として対することになり、現代に生きている私たちの感覚や価値観に影響されて歴史の真実に迫ることが困難であるが、写真(フェイクは論外)があれば一目瞭然。生身の人間が生きて苦闘していた当時へと私たちの感覚を誘ってくれる。そうした意味で、本書は私たちの満州国理解に有益な書物である。

「全文リットン報告書」渡部昇一編集、ビジネス社、2006年11月発行、¥2,415(税込み)


本書は有名な「リットン報告書」(国際連盟日支紛争調査委員会報告書:Report of the Commission of enquiry into the Sino-Japanese Dispute)の全訳で、原文(英文)も添付されている。編者である渡部昇一上智大学名誉教授の解説が最初に付されており、その部分だけを読めば大体の内容が分かる仕組みになっている。解説内容を参考に、以下、大略の紹介をしておく。
報告書を一読して最初に気がつくのは、満洲族(女真族)の王朝である清朝と、満洲族を排して漢民族により樹立された中華民国を同じシナとして調査団が理解し、満洲は古来シナ(中華民国)の一部であったとしていることである。アジアの歴史に対する無知から来るのか意図的かは分からないが、報告書は基本的に誤った認識(前提)に立って書かれている。そのことに対して解説者は、国際連盟特別総会での報告書の同意確認裁決後の松岡洋右の「国際連盟脱退」の演説について、「彼はあくまでも「満洲は清朝固有の領土」という歴史的事実を説くべきだった」と、「リットン報告書に対する(当時の日本の)拙劣な対応が、日本の悲劇に連なった」ことを指摘している。解説者はまた、「秦の始皇帝以前も以後も、シナの王朝が満洲を実効支配した事実はないのである」と解説している。古代からシナ本土(万里の長城内部の漢民族の居住地)を支配した王朝はシナ本土に居住していた漢民族によるものだけでなく、周辺の異民族(蛮族)によるものがいくつもあった。シナ大陸の歴史はさまざまな地域や民族による興亡(争奪)の歴史で、一つの中国という国家(地域)が昔から存在していたわけでないことはアジアの歴史を知るものには常識である。
しかも満洲は清朝の時代に一度は事実上ロシア領になっていたのである。一八九九年の北清事変後、ロシアは満洲に兵を送り、全満洲を実質的に占領し、「日露戦争間近の時期には、清朝の官吏が満洲に入るにもロシアの役人の許可が必要であった」(解説より)。しかるに、清朝は領土回復の努力を何もせず、日露戦争に勝利した日本が南満洲鉄道などの権限を除いて、満洲の土地を清に返還しているのである。当時の時代背景を考えれば、誠実というよりはお人よしというしかない。多大の犠牲を払って満洲からロシアの勢力を駆逐した日本が、そのまま満洲を支配していたら、後の満州事変も起こらなかったであろうし、まったく別の歴史が展開したものと思う。
解説者も述べているように、報告書は単純に「日本の侵略」を非難したものではなく、むしろ相当に日本の主張に理解を示している。「満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う」(第三章)。「この紛争は・・・他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない」、「単なる原状回復が問題の解決にならないことは・・・明らかだろう」(第九章)として、調査団としての提議で締めくくっているのであるが、提議の内容は満洲に多くの日本の権益を認める前提でシナ(中華民国)の主権を認め、日本を含めた外国人顧問のもとで特別行政組織(自治政府)を設置するというものであった。
国際連盟で報告書が採択されても、日本にとっては二つの選択肢があったはずである。一つは報告書の提議を受け入れ、できるだけ日本に有利な条件を勝ち取ること。いま一つは報告書の提議を拒否して、国際連盟にとどまりながら満洲国の承認国家を増やす努力を続けていくこと。当時のシナ大陸では多くの政府が乱立・抗争し、すでに一つの中華民国といえる状況ではなかったし、過去の経緯からして日本には後者の選択肢しかなかったとしても、「国際連盟脱退」よりも、いま少し狡猾なやり方があったのではないか。
「満洲が満洲民族の正統の皇帝を首長に戴く独立国にすでになっていることを強調して、調査団の報告自体が無用になっていることも主張すべきであった。「独立」という既成事実は調査報告などより千倍も万倍も重いのである・・・。その上で万一、調査団が採択されても、日本は連盟に留まっているべきであった・・・。そうしてもめているうちに、満洲帝国の既成事実は確乎としたものとなり、それを承認する国々も出たはずである」(解説より)。現在の国際連合における北朝鮮のやり方を見ればよい。拉致問題、核兵器、ミサイル開発など、国連でどのような声明や決議がなされても、彼らはその都度、適当な反論を繰り返し、平然と国連に居座っている。日本人はあまりにもバカ正直というか、外交べたというか、異民族に対しても日本人に対すると同じような対応をして、狡猾で独善的な諸外国に翻弄されてきた。現在もそのことは大して変わっていないように思われる。満洲国を承認する国家は少しずつ増加し、最終的には日本や南京政府(王兆銘政府)を含む20カ国以上に承認されており、その中にはドイツ、イタリアや北欧・東欧諸国だけでなく、バチカン政府(ローマ教皇庁)も含まれていたのである。ソ連でさえ、国内に満洲国領事館の設置を認めるなど、事実上、満洲国を承認していた。

「謎解き「張作霖爆殺事件」」加藤康男著、PHP研究所、2011年5月発行、¥756(税込み)

「完訳 紫禁城の黄昏(上)(下)」RFジョンストン著、中山修訳、渡部昇一監修、祥伝社黄金文庫、2008年10月発行、各¥840(税込み)

著者(1874~1938年)はスコットランドのエディンバラ生れ(生涯独身)。1919年、清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師に就任(~1925年)。清朝末期の実情を内側からつぶさに観察したイギリス人による貴重な歴史の証言。皇帝について、紫禁城の内幕、満洲問題と日本との関係などを述べており、極東軍事裁判で何が何でも日本を悪者に仕立て上げたい連合軍が証拠書類として取り上げることを拒否した著作。原著は1934年刊行。
話は、康有為の政治的意見を入れた光緒帝(徳宗、清朝最後の皇帝・溥儀の伯父)が立て続けに改革の詔勅を公布した時期(一八九八年の「百日間」)に始まる。袁世凱の裏切りにより、康有為と光緒帝の改革計画が保守派(反動派)をバックにした西太后(光緒帝の伯父・文宗の妻)のクーデター(戊戌の政変)で頓挫し、以後、光緒帝と西太后が亡くなる一九〇八年まで西太后と保守派が清朝の政治を支配した。一八九九年には義和団事件(北清事変)が起こり、宮廷は義和団の排外運動を支持して列強に宣戦布告をするが、一九〇〇年には連合軍が北京入城を果たし、紫禁城を制圧した。その結果、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。西太后は光緒帝を同行させ、西安へ数ヶ月間、逃避した。講和後の一九〇一年に北京へ戻った西太后は過去の反動政策を転換し、さまざまな改革計画に着手するが、遅すぎた。西太后と光緒帝がほぼ同時に亡くなると、一九〇六年生まれの溥儀が皇帝の地位につき(宣統帝)、実父である醇親王が摂政となる。その後は摂政王と新皇太后(光緒帝夫人)とが並立する形の統治であったため、清朝政府の力は急速に衰えていき、一九一一年末から革命派との間に講和会議が開かれた。この時点で満洲王朝(清朝)がシナを放棄して故地、満洲へ退いていたならその後の世界史の展開は変わっていたであろうが、現実の歴史はそうはならなかった。皇帝が自ら退位して共和政体を樹立し、共和国は皇帝が尊称を保持して諸種の特権を維持するための年金を与える(清室優待条件)ということで妥協が成立する。一九一二年二月には皇帝の退位と共和国樹立を告げる詔勅が発布された(辛亥革命)。こうして満洲王朝である清朝政府は中華民国政府に変わるのである。王朝を裏切り中華民国政府の大総統に就任した袁世凱は共和制をも裏切って自身が新王朝の初代皇帝になることを画策するが失敗(一九一六年に死去)。総人口約4億人のうち90%が文盲であった当時のシナ人の多くは君主制を支持していたが、袁世凱を支持してはいなかった。一九一七年には張勲将軍を中心とした君主制支持派により宣統帝(溥儀)が復帰するが、直後に共和国側の段祺瑞との戦争に敗れて溥儀は再び隠棲した。その後、段祺瑞が国務総理になって北京に新議会が招集されたが、広東では孫文が独立政府を維持していた。一九一八年になり北部勢力に押された孫文は日本へ亡命するが、南北間では内戦が続き、全国を統治する中央政府は存在しないことになる。北京の新議会では徐世昌が大総統に選出された。一九一九年五月には、第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本の利権に対するシナ側の要求が拒否され、段祺瑞が日本の二十一ヶ条の確認に同意したことが暴露されると五・四運動が起こり、暴徒化する。一九二二年には皇帝・溥儀の結婚式が執り行われた(皇帝も皇后も十六歳)が、帝室の私有財産であるはずの皇帝と皇后への婚礼献上品がすべて共和国側に押収された。同時期、北方の政治グループ(安福派、奉天派、直隷派)間の対立が激化し、安直戦争、奉直戦争などが起こっている。一九二四年には満州の将軍、張作リン(リンは雨冠に林)とシナ北部の呉ハイフ(ハイは人偏に凧、フは浮の旁)の間に内戦が勃発し、呉ハイフの部下であるヒョウ玉祥(ヒョウは二水扁に馬)がクーデターを起こして(十月)清室優待条件を一方的に修正して宣統帝を紫禁城から追放し、実父、醇親王の邸宅(北府)に軟禁する(十一月)。同年十一月下旬には満洲王朝と宣統帝に同情を寄せていた張作リンが大総統に指名した段祺瑞と北京入りし、一時的にヒョウ玉祥の勢力が後退する。そのわずかな期間に宣統帝は著者などの支援で公使館区域へ脱出し、日本公使館に保護されることになる。「北府」に残された皇后も日本公使(芳澤謙吉)の断固たる努力で日本公使館へ脱出する。皇帝は一九二五年二月二十三日までの三ヶ月間ほどの間、日本公使館の賓客であった。その後、皇帝は天津の日本租界内で一九三一年十一月までの七年近くを過ごした。それまでどのような陰謀にも荷担していなかった皇帝・溥儀が変貌するのは、一九二八年七月に神聖な帝室の御陵が国民党の軍閥によって破壊され、埋葬品を掠奪・冒涜された(東陵事件)からである。同年、張作リン爆殺事件が起こり、一九三一年九月には奉天郊外で柳條湖事件(満州事変)が起こった。同年十一月、皇帝は天津を去り、満州に向った。翌一九三二年の満州国建国に伴い、皇帝は満州国の執政に就任。一九三四年の満州国帝政実施で満州国皇帝となった。
満洲や君主制、満洲と日本との関わりについては、本書に以下のような記述がある。
「一八九八年当時、満洲に住んでいた英国の商人たちは、「まさに目の前で現実のものとなってゆくロシアの実質的な満洲併合」について語っている。・・・シナの人々は、満洲の領土からロシア勢力を駆逐するために、いかなる種類の行動をも、まったく取ろうとはしなかった。もし日本が、一九〇四年から一九〇五年にかけての日露戦争で、ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東半島のみならず、満洲全土も、そしてその名前までも、今日のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地のない事実である。」(第一章)、「日本は・・日露戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益や特権は保持したものの、・・満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎ取られた政府(註:満洲王朝の政府、清朝)の手に返してやったのである。」(第四章)
「満洲は清室の古い故郷であった。・・・満洲地方には、漢人、蒙古人、満洲人、そして数多くの混血民族など、王朝に忠誠を尽くす人々がすこぶる大勢いた。だからこそ満洲は、革命で積極的な役割を全く演じなかったのである。・・・外蒙古は、一九一一年まで自国が「シナに従属」するのではなく、「大清国」に従属するものだと見なしていたということだ。・・・シナはすでに満洲人を異民族、すなわち「夷族」であると宣言し、その根拠にもとづいて、満洲人を王座から追放したではないか」、「(すでに一九一九年から張作リンなどが皇帝を帝位に就かせ、日本の保護下で君主制を復活させて満洲を独立させる計画だというウワサや報道が出ていたので)次のリットン報告書の一節は説明しがたく思われた。・・・満洲の独立運動について「一九三一年九月以前、満洲内地ではまったく耳にもしなかった」と説明されていることである。」、「君主制の復古を歓迎するだろうと見る私たちの考えが正しいのなら・・・共和制が悲惨な失敗に終ったからである。(シナの)国民大衆が望んでいるのは、立派な政府である。」(第十六章)
「日本公使は、私本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域に到着することを何も知らなかった・・・私本人が熱心に懇願したからこそ、公使は皇帝を日本公使館内で手厚く保護することに同意したのである。・・・日本の「帝国主義」は「龍の飛翔」とは何の関係もなかったのである。」(第二十五章)、「皇帝が誘拐されて満洲に連れ去られる危険から逃れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に乗り込めばよいだけの話である。・・・皇帝は本人の自由意志で天津を去り満洲へ向ったのであり・・・皇帝は、シナの国民から拒絶され、追放された今、満洲の先祖が、シナと満洲の合一の際に持ってきた持参金の「正統な世襲財産」を再び取り戻したまでのことだ。」(終章)
大東亜戦争での日本の敗戦後、崩壊した満州国から日本への亡命の途次でソ連軍の捕虜となった皇帝は、東京裁判でソ連から言われた通りの偽証を繰り返し、「満州事変当時、溥儀が陸相南次郎大将に宛てた親書の中で、満洲国皇帝として復位し、龍座に座することを希望すると書いていたという事実を突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと言って撥ねつけたのだった」(訳者あとがき)。コミンテルンに支配された戦勝国によるリンチにしか過ぎない場で、偽証しなければ命の保障が無かったのだろうが、異民族との戦争に負けるということの意味を溥儀は日本人以上に痛切に捉えていたのかも知れない。
元帝国は漢民族にとっての異民族であるモンゴルが拡張してシナを征服・支配した王朝であり、大清国も異民族である満州(女真)族がシナを征服・支配した王朝であったが、現在ではそのモンゴルの一部と満洲は逆にシナの共産党独裁王朝(政権)によって征服・支配されているのである。
本書は満洲問題だけでなく、中国の近代史に関心を持つ方にとっては必読の書物であると思うが、内容も非常に興味深い。
溥儀には、自伝とされる“「わが半生―「満州国」皇帝の自伝」(ちくま文庫)<上>、<下>、小野 忍、新島 淳良、野原 四郎、丸山 昇共訳、筑摩書房、1992年12月発行、各¥1,260、¥1,050(税込み)”があるが、これは溥儀を戦犯として裁き、思想改造を強いた中国共産党(中華人民共和国)の下で発表されたものであり、参考にはなっても歴史資料としての価値はジョンストンの著書にははるかに及ばない。
映画「ラストエンペラー(The Last Emperor)」は皇帝・溥儀の人生をもとに製作した物語である。製作に中華人民共和国(共産中国)が参加していてさりげなく共産中国の主張(捏造)が盛り込まれていたり、脚色されたりしているが、同時にプロレタリアートという無知で無教養な愚者が武力で権力を握ったときの怖さ、中国共産党独裁政権の恐怖がにじみ出ているのも皮肉な話である。

ページ 15 of 18« 先頭...10...1314151617...最後 »