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「無条件降伏」という国際的な詐欺とそれに騙され続ける日本 「史実を世界に発信する会」 茂木 弘道

2011年8月22日 月曜日

1945年7月26日に米英支が発したポツダム宣言を受諾して日本は降伏した。宣言は、13項目からなるが、第5項で「われらの条件は以下の如し。われらは右条件より離脱すること無かるべし」とあり、以下8項目の条件が掲げられている。明らかに「有条件降伏」であり、その第13項に「全日本国軍隊の無条件降伏」がある。

 「軍隊の無条件降伏」と「国家の無条件降伏」が全く異なることは言うまでもない。国際法の常識である。従って、7月30日に開催されたアメリカ国務省の国務長官スタッフ会議では、それ以前にアメリカが考えていた「国家の無条件降伏」と7月26日の宣言とはどのように違うか、検討された覚書でこの違いについて検討している。

 そこで明確にこう述べている。「この宣言は、日本国および日本国政府に対して降伏条件を提示した文章であって、受諾されれば国際法の一般準則によって解釈さるべき国際協定となるであろう。」更に「この宣言は、無条件降伏が「全日本国軍隊」にのみ適用されると解している。」と当然のことながら書かれているのである。

 マッカーサーですら、このくらいの国際法の常識を持っていたので、送られてきた「降伏後の対日初期方針」に疑問を感じ、9月3日マーシャル参謀長あて手紙を送っている。「特に内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱していると思われるので、小官は所見を貴官に上申しておかなければならないと感じるのである。」

 直ちにトルーマン大統領から、これに答える指令が9月6日付で送られてきた。「我々と日本の関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。」

 要するに、ポツダム宣言以前の無条件降伏でいくのだ、と開き直ったわけである。それは間違っていることを分かっていながら、「軍隊を武装解除」してしまえば、何を言っても通るとばかり、正しく国際的な背信詐欺行為を堂々と行ったのである。

 これを受けて占領軍民間検閲支隊長フーバー大佐は、日本の報道関係者に「マッカーサー元帥は、連合国はいかなる意味でも、日本を対等と見做していないことを明瞭に理解するよう欲している。…最高司令官は日本政府に命令する…交渉するのではない」と強圧的宣言を行い、「言論、宗教及思想の自由は尊重さるべし」と言う宣言の規定を、踏みにじって、徹底的な検閲、さらには史上例を見ない焚書まで行ったのである。

 しかも、憲法まで検閲下で変えさせられたにもかかわらず、「無条件降伏」論にやられてしまった日本人は、これに対するまともな反論を行う事が出来ずにここまで来てしまった。負けたのだから仕方がないといつまでも思っていたのでは駄目だ。「無条件降伏」などということは詐欺であり、不当なことである、と明確な認識なしには、敗戦克服、日本の名誉回復、日本再生はないということである。

ルーズベルトは真珠湾攻撃の5か月前に日本本土爆撃OKを出した 茂木弘道

2011年8月3日 水曜日

 1941年7月23日、ルーズベルト大統領は、陸海軍長官の連名で(7月18日付)提出された合同委員会の対日攻撃計画書(JB355)にOKのサインをした。10月1日までに、350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸、京都、大阪の三角地帯と横浜、東京地区の産業地域を爆撃する計画である。中国空軍にやらせる計画であるが、その中国空軍の中枢にいわゆるフライング・タイガーと呼ばれる、偽装ボランティアのアメリカ陸海軍飛行士が派遣されていた。

 この7月時点、日米の和解の交渉が行われていたことは誰でも知っている。日本側は、戦争回避のために必死の交渉を行っていたのであるが、何のことはない、アメリカはもうこの時点で対日攻撃を命令していたのである。一般には日本が7月28日に南部仏印進駐を行ったために、アメリカは8月1日、石油などの戦略物資の全面禁輸と日本資産凍結を行った、と言う事になっているが、そんなことは単なる口実であり、そのずっと前に対日戦争を決意、と言うより既に命令していたということである。

 このJB355計画は、大統領の許可を得て進行し、順調にいけば9月末あるいは、10月には日本本土爆撃が行われるはずであった。しかし、欧州戦線が急迫し、大型爆撃機をそちらに回さなければならなくなったために、中国への供与が遅れることになり、「結果として」10月日本本土爆撃は実施できなかった。しかし、これは単なる対日戦に備えた戦争計画と言ったものではなく、中国を通じたという形ではあるが、日本本土爆撃命令なのである。

12月8日の真珠湾攻撃を今でもアメリカ人のほとんどは、日本の卑怯な不意打ち攻撃 sneak attack であると信じている。真実は、その約5か月前に、ルーズベルト大統領が陸海軍合同の日本本土攻撃計画にゴーサインを正式に出している。これこそアメリカの一般国民を欺き、そして日本をだまし討ちにした sneak attack plotそのものである。真珠湾攻撃は、正しく自衛権の発動に基づいたアメリカの攻撃に対する反撃戦であったということである。

ところで、このJB355計画は大統領補佐官ロークリン・カリーが中心となって1941年初めから進めていた。カリーは後にソ連の工作員だったことが判明した男である。5月9日にこの計画について大統領に覚書を提出したのに対し、5月15日にはルーズベルトからその具体化を進めるよう指示の書簡が送られている。即ち、ルーズベルトは陸海軍からの提案を単に承認したのではなく、ずっと前からカリーを通じてこの計画を進めさせていたのである。ルーズベルトが対日和解など考えていなかったことはこのことからもはっきり確認できる。

日米戦の戦争責任者の筆頭はルーズベルトであることは明らかである。戦争責任論はそこから始めるべきである。            (2011.7.23)

7月7日は中国共産党の戦争犯罪記念日である 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

2011年7月7日 木曜日

 今から74年前の1937年7月7日夜10時40分ころ、盧溝橋付近の河川敷で演習を終了した日本軍駐屯軍第8中隊に対して、数発の実弾が撃ち込まれた。これが、いわゆる盧溝橋事件であり、日中戦争のきっかけとなった事件である。

 これを偶発説とするのが現在の歴史学会の定説のようであるが、とんでもない話である。
中国共産党は、1932年4月26日瑞金の中華ソビエト共和国の名で対日宣戦布告を行って以来一貫して、反日(武装闘争)を中心政策として掲げてきた。1936年12月西安事件により、蒋介石に反日共同戦線を強要させたのであるが、蒋介石は共産党に次々に高いハードルを突き付け、翌年6月には、次のような状況に陥っていた。
「共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることになり、…1937年6月には、蒋介石は、…再度紅軍の行手を塞ごうとしていた。…共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲せん滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた。」(エドガー・スノー『中共雑記』)
 
 この窮状を打開するとともに、国民党と日本を戦わせるという本来の目的のために打って出た謀略的な攻撃こそが、盧溝橋での銃撃であった。国民党29軍には、副参謀長をはじめとして、大量の共産党員を潜伏させていたことは、現在では中国側の資料により、詳細な人名まで明らかとなっている。潜伏共産党員兵士は部隊内で日本軍が攻撃してくるという扇動をしておいて、発砲事件を起こし、そしてその拡大が成功した、と言うのがことの実態であった。

 支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」(成功した)と3回連続反復送信していた。」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)と述べている。その時はどう意味かわからなかったというが、今でははっきりしている。謀略攻撃が成功したことを知らせていたのである。

 日本軍が、反撃を開始したのは、最初の発砲から7時間後の8日の5時半である。にもかかわらず、8日には延安の共産党中央から長文の電報が、蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府機関、軍隊団体などに対して大量に送られているのである。事前に筋書きを作り準備していなかったなら、当時の通信事情などからして、8日の朝日本軍が反撃した後、このような詳しい長文の電報を作成し、中央委員会の決済を経て全国に発信するなど絶対に不可能である。謀略が成功したのである。

 日中戦争は、日本が起こしたかのように言われているのは、途方もない歴史偽造である。もしこの戦争が非難さるべきものであるとすれば、その戦争犯罪人は明らかに中国共産党なのである。

ペルリ来寇から今日までを論ず  加瀬英明  その3  万世一系の御皇統を崇める

2011年7月7日 木曜日

わが御皇室が姓をお持ちにならないのに対して、中国の王朝は天命を授かって民衆のなかから興って、時の王朝を倒して皇位を纂奪したから、姓がある。だから一族が中心にあって、天下を自分たち一族の私物だとみなした。漢王朝は劉が姓であり、唐王朝の姓は李だった。元王朝を倒して、明朝を開いた朱元璋(しょう)は、貧農の出身だった。二十代で軍に入ってから頭角を現わし、ついには洪武帝元璋となった。

中国では天命によって易姓革命が行なわれるというものの、強者が覇者になるというだけのことだった。皇帝が徳――権力の独占者だった。歴代の王朝は、人民の膏血を絞れるだけ絞って、贅のかぎりを尽した。どの王朝も、天下を私物化した。中国では「君臣」といっても、皇帝とその使用人だけを指していた。民は「生民」とか、「小民」とか、「草民」と呼ばれた。草民は刈れば、また、いくらでも生えてくるという意味だった。

中国では王朝と人民とは、つねに対立関係にあった。人民は王朝を信頼することがなかった。中国でも朝鮮でも、人々は専(もっぱ)ら自分自身と、自分の一族を守ることに努めなければならなかった。今日の中華人民共和国も、易姓革命によって出現した中華王朝であることに、まったく変わりがない。中国にはいまだに公の概念がない。

日本と中国は、対照的であってきた。今上陛下が百二十五代に当たられるが、百二十五人の天皇のなかで、お一人として贅を尽された方は、おいでにならない。つねに質素を旨とされ、「天皇に私(わたくし)なし」といわれるが、国民を想われて、神事に真摯に取り組まれてこられた。有難いことである。もし、万世一系の御皇室がなかったとしたら、日本は中国や、朝鮮と変らないような国となっていたはずである。

天皇と国民はつねに利害を同じくして、苦楽を分かち合い、歴史を通じて、相互の信頼と敬愛によって結ばれてきた。天皇と国民のこのような絆(きずな)が、日本の政治文化と生活文化を律してきた。ここから、和の精神が培われてきた。今日でも、日本では子どもを育てる時に、「みんなと仲よくしなさい」というのに対して、中国では「ひとに騙されないように」という。(これは、あるとき黄文雄先生にたずねたら、そう教えられた。)

私は多少、朝鮮語ができるが、韓国ではいまでも、子どもに「一番(イル)に(トウンイ)なりなさい(・テオラ!)」「負けないで(チジマ!)」と、いい聞かせて育てる。日本は和の社会であってきたから、たとえスポーツ競技でビリになったとしても、最善をつくして頑張ったら、評価されるが、韓国では勝たなければ、軽蔑される。

皇(こう)極(ぎょく)四(六四五年)年に、女帝であられた皇極天皇のもとで、大化改新が断行された。それまで、日本では豪族が日本を分けて支配していたのを、大化改新によって、天皇が全国を直接治めるように改めた。明治の廃藩置県と、同じことを行ったのだった。
皇極天皇は大化改新に当たって、「今始(はじ)めて万国(くにぐに)を治めんとす」「万民宰(おさ)むるは独り制(おさ)むべからず、要(かなら)ず民の翼(たすけ)を須(ま)つ」という、勅(みことのり)を発されている。これは、聖徳太子がその四十一年前に、十七条憲法を制定して、「和ヲ以(もつ)テ貴(とうと)シトナス」と諭されたのと、同じ線上にある。第十七条目は、大切なことはみんなでよく相談して決めなさい、全員で話し合って決定したことは正しいと、定めている。これは、世界最古の民主憲法であって、大いに誇るべきことだ。日本の国号として、大和(やまと)があるが、和によって結ばれてきた。日本は二千年以上にわたって、万世一系の天皇を尊ぶことによって、一つにまとまってきた。

明治維新は日本の内にあった思想から、発した。古代から胍々として伝わってきた尊皇精神によって、成し遂げられた。今年は中国の辛亥革命の百周年に当たるが、孫文の三民主義は西洋から借りてきた物だった。もっとも、辛亥革命の主役は、袁世凱だった。孫文は「近代中国の父」といわれているものの、脇役でしかなかった。辛亥革命は武昌蜂起によってもたらされたが、孫文はそのあいだ、アメリカとヨーロッパに遊んでおり、武昌蜂起の三ヶ月後になって、ようやく帰国している。

孫文が中国人は「一盤散(いちばんさん)砂(しゃ)」――まるで大きな皿に盛った、砂の山のようで、すぐに散り散ってしまうと嘆いたことは、よく知られている。中国が不信のうえに築かれた社会であるのに対して、日本は和によって束ねられてきた。

日本の国歌『君が代』は、古今集からとったものである。「君が代は千代に八千代に
さざれ石の巖(いわお)となりて苔(こけ)のむすまで」という歌詞は、日本の国歌としてもっともふさわしいものだ。細(こまか)い石である「さざれ石」が集まって、一つの「巖(いわお)」となるから、中国と正反対の国柄である。

私は天皇陛下が生き神であられることを、信じている。
ラフカディオ・ハーンーー小泉八雲の作品にし『生神』があるが、徳川期に浜口五兵衛という圧屋がいて、その徳行のために、村民が堂をたてて、生きながら浜口大明神として祭られたという事実にもとずいている。日本では倣(おご)る神が存在せず、神と人のあいだの境界がはっきりとしていない。

私は海外で日本文化について講演することがあるが、日本の神々は山や森にましまして、鎮まっていられるという時に、外国諸語に神が「鎮まっている」という言葉がないので、長く説明しなければならない。ユダヤ・キリスト・イスラム教の唯一神は能動的で、人々の生活の細かいところまで干渉する。

西洋の王や、為政者は、長いあいだその神のように専制者だった。今日の中国も絶対権力を正当化する儒教国家であることに、変わりがない。
天皇陛下は、杜のなかに鎮まっていられる。国民は天皇にご心配をおかけしないように、身を律して生きることを求められている。世界に類(たぐい)ない、君臣一体の国柄である。

ペルリ来寇から今日までを論ず  加瀬英明  その2、 桜田門外の変

2011年7月6日 水曜日

安政七(一八六〇)年に江戸城桜田門外において、攘夷を奉じた、水戸、薩摩藩の十八人の脱藩浪士が、白雪を血に朱く染めて、時の大老の井伊直弼を惨殺した。

井伊大老はペルリが来寇すると、幕閣に開国を進言して、勇断をもって日米和親条約と、安政五ヶ国条約の調印を断行し、開国に反対する尊攘派を圧迫して、安政の大獄をもたらした。暗殺者のうち十七人が、水戸藩の浪人だった。

井伊大老は、行年四十六歳だった。私はいまでも桜田門の前を通るたびに、救国の大恩人だった井伊大老の霊に、胸のなかで合掌して、感謝の誠を捧げている。
もし、無謀な攘夷派が国政を握ったとすれば、西洋列強が圧倒的な武力をもって、日本列島を侵略したことだろう。そうなれば、日本は焦土と化して、西洋列強によって分割され、清の二の舞となったことは疑いない。井伊直弼は、天皇への尊崇の念が篤かった。彦根の藩侯の庶子として生まれたために、三十六歳で藩主となるまで不遇だったが、二十代から本居宣長の『古事記伝』『玉(たま)勝間(かつま)』を繰り返し熟読するなど、国学と古道に傾倒した。「吾(わが)皇国の古事知らずてはかなはず」と、認(したた)めている。直弼は「儒教外道、神道正道」と、説いた。居合道の新心流に打ち込み、藩主となった後に、自らの流派として新心新流を立てた。禅を十三歳から修行し、当時の日本で一、二を争う高僧だった二十三世仙英禅師から、悟道の允許である印可証明を与えられ、袈裟血脈を授けられている。そのかたわら、歌道と茶道をきわめた教養人だった。藩主として徳政を行なった、名君だった。

井伊大老の勇断なしには、日本が亡びたことだった。今日でも、井伊大老を残殺した不逞浪人を、志士と呼んで称える人たちがいるが、とんでもないことだ。襲撃した浪人たちは、怯懦だった。大老が剣道の達人であることを知っていたから、まず駕籠へ向けて短筒を発射して、大老の腰を貫いた。もし武士の矜持があったら、大老と斬り結ぶべきだった。
大老を警護する藩士たちが、雪が降っていたために、刀を柄袋に入れていたが、鞘(さや)に払う暇(いとま)を与えなかった。武士の風上に置けない振る舞いだった。

幕府は文政八(一八二五)年に、安政令として知られる、異国船無二(むに)念(ねん)打払令を発している。異国船打払令として知られる。しかし、その十七年後に、西洋の軍艦の火砲の威力に怖(おじ)気(け)て、天保薪水令によって代えて、捕鯨船をはじめとする黒船に、水や薪を供給してもよいこととしていた。日米和親条約は幕閣が忍び難きを忍んで、結んだものだった。ペルリ艦隊が襲来すると、瓦版(かわらばん)に載った狂歌の「アメリカが来ても日本はつつがなし」のように、洋夷の圧倒的な武力に対抗する術(すべ)がなかった。この戯(ざ)れ歌は「恙無(つつがな)い」と、「筒(つつ)(大砲)」をかけている。

もちろん、井伊大老のほかにも、会津の松平容(かた)保(もり)藩主や、阿部正弘老中首座をはじめとして、開国が日本の存立を全うするために避けられないと判断して、避戦論を唱えた具眼の士も少なくなかった。尊攘派は情の激するところ時局を乱(みだ)して、大道を誤まっていた。ところが、水戸藩主の徳川斉昭公は来冦する黒船に対して、幕府につぎのように献策した。
「此度渡来ノアメリカ夷、重キ御制禁ヲ心得ナガラ 共驕傲無礼――始末 言語道断ニテ実ニ開闢以来之国耻(恥の俗字)。(略)夷賊ヲ御退治無之而ノミナラズ、万々一願之趣御聞済ニ相成候様ニテハ 乍憚 御国体ニ於テ相済申間敷 是決テ不可和ノ一ヶ条ニ候。(略)
槍劒手結ノ勝負ハ神国之所長ニ候、 槍劒 アラバ戦艦銃砲モ終ニ恐ルルニ足ラズ」
「アメリカの砲なぞ、恐れることはない。神国の長技である、槍と刀でかならず勝てる」というものだ。

ペルリ艦隊が嘉永六年に来襲し、翌年春に戻ると宣言して退去したあとで、阿部老中が諸大名だけでなく、開国か、攘夷か、百姓、町民まで対象にして、意見書を提出するように求めた。斉昭公は尊攘論の急先鋒だった。この時、井伊大老も意見書を提出して、「兵船を自負して恐嚇之姿無恥蛮夷之常態とハ乍(もうし)甲(ながら)実ニ可悪(にくむべき)之至ニ候」と述べ、二回目の意見書では、「暫(しばら)く兵端を不開(ひらかず)、年月を経て必勝万全を得る之術計ニ出可申哉」と、献策している。

井伊大老は明治の日本をつくった、先駆者だった。

私は昭和四十九年から翌年にかけて、昭和二十年元日からマッカーサー元帥が離日するまで、昭和天皇を中心としたノンフィクションを、『週刊新潮』に五十回にわたって連載した。昭和天皇の終戦へ向けた御懊悩について書きながら、日本国民の一人として、胸が強く締めつけられる想いがしたものだった。軍は「神州護持」「一億総突撃」「一億玉砕」を呼号して、本土決戦を準備していた。昭和二十年七月二十五日に、東京において第一総軍が幕僚副長会同を催した。この席上、第一総軍参謀長の須藤栄之助中将が、敵軍を水際で撃滅すべきことを強調したうえで、佐官の幕僚があらかじめ出席者に配布された軍通達を、読みあげた。
「決戦思想 攻勢ニ徹ス。(略)死ヌマデ攻勢ヲトル。(略)敵ヲツブシテシマフマデ一兵残ルマデ攻勢ヲトル」
しかし、九十九里浜の海岸陣地を守る「貼り付け師団」は、三、四十歳以上の中年の召集兵からなり、師団によっては小銃が十人に一挺しか渡っていなかった。第三十六軍は総軍に「自隊作成兵器」数について報告しているが、そのなかに「槍(やり)一五〇〇本」と記載されていた。

昭和天皇は陸軍侍従武官から、九十九里浜の本土決戦部隊に、小銃すら渡っていないという報告を聞かれて、国民を救う決断をされた。私は「槍一五〇〇本」と、暗然として書きながら、徳川斉昭公の百二十年以上前の意見書を思い出した。軍人に尊攘派の妖霊が乗り移っていた。愛国心と無知が結びつくと、おぞましい。二・二六事件の青年将校は、ロシア革命思想によって、誑(たぶら)かされていた。大元帥陛下が親しく統率される兵を私(わたくし)することによって、皇軍の光輝ある歴史に大きな汚点をのこした。宸襟(しんきん)を悩まし奉った罪は、あまりにも大きい。

これらの陸軍青年将校は、五・一五事件の海軍士官とともに、「革新将校」と呼ばれた。第二次大戦後に、ソ連によって操られていた左翼勢力が、「革新陣営」と呼ばれたのと同じことだった。二・二六事件の無知をきわめた青年将校は意識しなかったが、戦後の左翼と同じ穴に巣くう狢(むじな)だった。

天皇と中国の歴代の皇帝は、神を祭り、天と地のあいだをつなぐ祭祀王の役割を果すことでも、共通している。私は一九七九年に中国の招きによって、はじめて訪中した時に、北京で故宮に案内されて、天壇を参観した。辛亥革命によって清朝が崩壊した時に、北京に滞在していたフランスの学者は、こう記した。
「(フランス)領事館の年老いた中国人女中の心をもっぱら奪っている。『どういうことになるんでございましようかねえ?』と、彼女はド・ラ・バテイー夫人に向かって言ったものである。『雨乞いをなさる皇帝がもう北京にいなさらんとなりますとねえ』」(『辛亥革命見聞記』、ファルジュネル著、石川湧など訳、昭和四十五年、東洋文庫)

慶応三(一八六七)年に、大政奉還の大号令が発せられることによって、尊攘派による混乱が終熄して、神州に正気が戻った。東海の朝が明けたのだった。翌年三月に、明治天皇が天つ神と国つ神に誓われて、『五箇条の御誓文』を国民に下賜されることによって、明治新政府の大方針を示された。このなかで、「万機(ばんき)(すべて)公論(こうろん)ニ決スヘシ」「上下(しようか)心ヲ一ニシテ」と、宣布された。
『五箇条の御誓文』は、歴代の中国の皇帝と、日本の天皇がまったく異っていることを、示している。日本では天皇と国民が一つに、固く結ばれてきた。天皇から末端の国民まで、上下心が一つに結ばれている。

明治十五年には、『軍人勅諭』が下された。「朕ト一心ニナリテ力ヲ国家ノ保護ニ尽サハ我国ノ蒼生(そうせい)(国民)ハ永ク太平ノ福ヲ受ケ我国ノ威烈(いれつ)(威光)ハ大ニ世界ノ光華(こうか)トナリヌヘシ」と諭されたが、天皇と国民がこの国を一緒になって守ろうと、訴えている。

明治二十三年には、『教育勅語』が発せられた。やはり「朕(ちん)爾(なんじ)臣民(しんみん)ト倶(とも)ニ拳(けん)拳(けん)服膺(ふくよう)(謹んでよく守る)シテ咸(みな)(あまねく)其(その)徳ヲ一(いつ)ニセンコトヲ庶幾(こいねが)フ」とあり、天皇と国民が「徳ヲ一」つにしようと、呼びかけている。

このようなことは、中国ではまったく考えることができない。日本と違って、皇帝と国民は一体ではない。中国の属国として、〃ミニ中国〃であった朝鮮でも、同じことだった。
中国では、万世一系の皇統を戴くわが国と違って、易姓革命によって、王朝がしばしば交替した。

ペルリ来寇から今日までを論ず 加瀬英明  その1 ペルリ来寇と曲彔

2011年6月30日 木曜日

私はイギリスの著名なジャーナリストを共著者として、英文でペルリ来寇から今日までを論じた本を、執筆中である。ニューヨークの一流出版社が、刊行することになっている。
ペルリは西洋が世界を征覇した力を誇示して、傍若無人に振舞った。日本に開国と不平等条約を強いることによって、神州を穢した。江戸時代の日本は庶民にいたるまで、世界で徳性がもっとも高い国家を形成していた。(拙著〈『徳の国富論』、平成二十一年、自由社〉を、お読み頂きたい。)

ペルリは先の戦争までは、白禍と呼んだ西洋帝国主義の尖兵として、日本を屈伏させて引き揚げていった。
私はペルリに同行した画家が、久里浜で幕吏と談判する模様を描いた銅版画をアメリカの古美術店で手に入れて、所蔵している。

幕府が造った急拵えの接待所で、日米両側が曲彔(きよくろく)に腰掛けて対峙している。あの時代の日本には椅子がまったくなかったから、幕府が町役人と村役人に命じて、周辺の寺から仏僧が葬儀にあたって腰掛ける曲彔を、かき集めたのだった。ペルリ来寇は幕藩体制に終止符を打って、古い日本を葬ったから、曲彔はふさわしかった。だが、ペルリは曲彔に座って、幕吏を睥睨しながら、まさか、自分が西洋帝国主義を葬り去ることになるとは、夢にも想わなかったはずである。

私は共著者と、ペルリは日本に対して勝閧をあげたが、「パンドラの箱」をあけてしまったという筋書きにそって書くことで、合意している。この「パンドラの箱」は、ギリシア神話にでてくる。ゼウスがあらゆる災いを封じ込めた箱を、パンドラに命じて人間界まで持たせ、箱を開くとあらゆる不幸が飛び出してしまったが、一つだけ希望が残ったというものだ。ペルリは日本を強引に開国させて、穢れを撒き散らした。だが、日本が近代化することに成功し、日露戦争に勝ったことによって、西洋の苛酷な支配のもとで数世紀にわたって呻吟していたアジア・アフリカの民に、日本という希望をもたらした。

ペルリ艦隊が嘉永六(一八五三)年に浦賀沖に姿を現わしてから九十三年たった後に、日本国民が第二次大戦を戦ったことによって、アジアを解放し、その高波がアフリカも洗って、西洋による覇権を覆したから、ペルリはまさに「パンドラの箱」を開けたのだった。日本は国家としては敗れたが、民族として勝ったのだった。日本の力によって人類史において人種平等の世界が、はじめて招き寄せられた。大戦後しばらくして、白禍が一掃された。

ところが、共著者とのあいだで歴史認識が異なるために、そのたびに議論を応酬することになる。
日本がアジアを解放した結果として、今日の中国の興隆がもたらされた、というところまではよいが、阿片戦争に敗れたことが、中国に日本にとってのペルリ来冦と同じ深い屈辱をもたらしたと、書いて送ってきた。そこで、孫文をはじめ漢民族は、満族の清朝がイギリスに対して阿片戦争に敗れたのに歓喜したから、日本の場合とまったく異ると、反論した。すると、その翌週にイギリスの権威ある週刊『エコノミスト』誌(二〇一一年二月十九日号)が、私の言い分を裏書きしてくれた。中国を論じた近刊の書評のなかで、清は異民族による王朝だったので、孫逸仙(孫文のこと)は中国を半植民地化していた西洋の列強や、満州を略取したロシアや、台湾を奪った日本よりも、清朝のほうをはるかに強く憎んでいたが、中国共産党政権が満族を中華民族――中国人に含めることによって、歴史を捩じ曲げたと述べていた。

孫文たち革命派は「滅満興漢」「駆逐韃靼(だったん)」を掲げて、中華を再建することを目指した。韃靼は元(げん)のモンゴル人を指した言葉だったが、清時代には満族を意味した。
私は二〇〇二年に、アメリカの親しい軍事史の作家を共著者として、神風特攻隊を顕彰する著作『日本の特攻の神々Japan’s Suicide Gods』を、イギリス最大の出版社であるロングマン社から刊行した。ウィンストン・チャーチルが、最初の著書をだした出版社として知られる。私は本書を通じて日本の気高い文化と、歴史を伝えたかった。だが、日本人だけが著者であると、外国人に日本の宣伝だという誤解を招くので、アメリカ人の共著者を求めた。

このように外国の共著者と本を書くことができるようになったのは、eメイルのおかげである。この本はその後、エストニア語、スペイン語、ポーランド語、フインランド語に訳出されている。ペルリ来襲から始まる新著も、日本の正しい姿を世界にひろく知らせたいという願いを、こめている。黒船が日本の沿岸に現われて、はじめて狼耤を働いたのが、蝦夷ヶ島(当時、北海道、樺太、千島をそう呼んだ)の北辺の択捉(エトロフ)島だった。文化四(一八〇七)年に、ロシア軍艦が択捉島のシャナ沖に現われて、兵を上陸させ、南部藩、津軽藩の守備隊と交戦して、武士たちを潰走させた。シャナ戦争として記憶される。
南蛮船は和船と異って、木造の船体の腐蝕と水漏れを防ぐために、コールタールを塗っていたから黒かった。アメリカの捕鯨船が日本沿岸で、常時、数百艭も操業して、鯨を乱獲していたが、黒船と呼ばれていた。
シャナ戦争を皮切りにして、米欧や、ロシアの軍艦が、日本の水域を頻繁に侵すようになった。武士が全国にわたって、夷狄から神州を護るために、「尊皇攘夷」を合い言葉として、沸き立った。
もっとも、尊皇攘夷は中国から千数百年以上も前に借りてきた、漢語である。「尊王(ツンワン)攘夷(ザンウエイ)」という言葉は、中国の春秋時代(紀元前四〇三年~前四五三年)に、中原の覇者だった斉と晋に発している。もちろん、夷も漢語である。

日本は古代から中国を、模倣した。歴代の天皇は明治の御代が明けるまで、即位式に当たって、黄龍の縫い取りが施された中国服を召された。明治以後、中国が西洋に代わったものの、明治天皇、大正天皇、昭和天皇が胡服である洋式軍装を召されたのと、同じことだった。

竹島は「天地がひっくりかえっても」日本領である 「史実を世界に発信する会」茂木弘道

2011年4月11日 月曜日

韓国の李明博大統領は去る4月1日の記者会見で、「(竹島は)天地がひっくり返っても、われわれの領土だ」と述べたという。

韓国が竹島を固有領土と主張する根拠は、『三国史記』という古代朝鮮のことを書いた歴史書(1145年成立)に鬱陵島の隣にある于山島が新羅の領土と書かれているというところに帰着する。その後の史書にもそれと大同小異のことが書かれている。4~5世紀から韓国領だったというのである。ところが、古地図では于山島は鬱陵島の西に近接している。竹島は南東92キロにあるのだから、于山島が竹島であるはずがない。

こんな分かりきった事実があるのに、何故韓国の人々が于山島は竹島だと主張するのか。その理由の一つは、竹島と鬱陵島の周辺の小島の呼称がいろいろに変わってきたためである。現在の竹島は以前松島と呼ばれ、またリャンコ島と呼ばれたりした。また鬱陵島の近辺には、竹島(竹嶼)など小さな島が存在している。これが于山島であったものと考えられる。

李氏朝鮮時代の地図には、鬱陵島より90キロも先の島のことなどただの一度も登場したことはないのだ。それどころか1889年の『大韓地誌』にも、鬱陵島より東は地図にでていない。考えてみれば当然のことだ。李氏朝鮮時代には鬱陵島すら空島政策によって居住が禁じられていたのだ。それよりはるか先の島のことなど彼らの関心の外、認識外のことであったのだ。日本では徳川幕府から大谷、村上両家に鬱陵島への渡航許可が与えられ、漁採が行なわれていた。ことを紛らわしくしているのは、鬱陵島のことを当時日本側では竹島と呼んでいたことである。しかし、竹島への行程の途中に松島が、「現在の竹島」の位置にでてくるので間違いはない。単に呼称の問題である。 

歴史的な事実は以上の通りであるから、韓国の主張は全く根拠がない。従って、1954年9月25日に日本政府は、この問題を国際司法裁判所に付託することを提議したが、韓国政府は応じていない。「天地がひっくり返っても、われわれの領土だ」というなら何故国際司法裁判所に堂々と出ないのだ。
実はサンフランシスコ条約で、日本の領土が規定される前の、1951年に韓国はアメリカ政府に対して、日本が放棄した領土には竹島(独島)が含まれるべきであるという要求を正式にしているのである。ところが、この要求に対してラスク国務次官補は1951年8月10日付の梁韓国大使宛書簡で、はっきりと次のように答えている。

「独島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、われわれの情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことは決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島はかつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。」

これは大変だとばかり、サンフランシスコ条約が発効する1952年4月28日の3カ月ほど前の1月18日、急遽李承晩ラインなるものを強引に設定して竹島を韓国の支配下に編入した、というのが「天地がひっくりかえっても変わらない」歴史事実である。
(2003・4・11)

あらためて、日本を誇りたい  加瀬英明

2011年4月1日 金曜日

 巨大地震による犠牲者を悼むとともに、被災者を救援するために、できるだけ努め
たい。

 今回の天災は国家的な試練であるが、日本国民の精神性がきわめて高いことを、世
界へ向って示した。

 未曽有の天災であったのにもかかわらず、日本国民がいささかも規律や礼節を失な
うことなく、沈着に行動していることに、中国や、韓国も含めて驚嘆し、称賛してい
る。

 他国であれば、人々が平常心を失って、商店を襲って略奪が頻発するなど、治安が
大きく乱れるものである。

 私は今回の巨大地震によって、日本人が古来から受け継いできた、和の精神を失う
ことなく、保ち続けていることに、そのような精神文化をつくってくれた先祖に、あ
らためて感謝した。

 この和の心は、独特なものだ。そこから規律が発し、自制心、克己心、利他心、同
胞愛が生まれる。和の心は世界のなかで、日本人だけが持っている。

 日本人の高貴な精神は、先人たちの贈物である。日本国民は六十六年前に敗戦によ
る廃墟から雄々しく立ち上がって、短期間で復興を成し遂げて、世界第二位の大国の
地位を獲得した。私は今回も天災を乗り越えて、この国を見事に再建することを、確
信している。  

 私は今回の巨大な震災が、日本に対する天の鞭ではないかと思った。

 あのような巨大な地震に遭遇した時には、人は自分しか頼れない。日本国民の大多
数が公共のサービスや、福祉や、公的なさまざまな援助に依存してきた。国民が国に
対して過剰な依頼心を、もつようになっていた。

 そのなかで、日本国民の依存症がもっとも目に余るのは、国防をアメリカに委ねて
いることだ。一国の運命を、外国人に預けてはならない。日本は自立心を欠いた擬似
国家だ。

 菅首相ははじめ五万人の自衛隊員を投入することを決めたが、十万人に増した。自
民党政権時代から防衛予算と自衛隊の定員を削減してきたから、今日では陸海空自衛
隊を合わせて、実質二十四万人しかいない。自衛隊の本来の任務は、国防に任じるこ
とにある。十万人も災害派遣に投じたら、国防が成り立たない。

 巨大地震によって目を奪われているが、中国の脅威が減じることはない。羅災地の
復興に必要な資金を投じるのとともに、防衛予算を大幅に増額するべきだ。

西太后ニセ詔書まで持ち出す中国の尖閣領有根拠 「史実を世界に発信する会」茂木弘道

2011年3月19日 土曜日

 中国政府の尖閣領有は李登輝元総統の言葉を借りれば、「美人を見たら自分の妻だと主張する」のに似たものである。何しろ、1953年1月8日の『人民日報』で尖閣は琉球列島を構成する七組の島々の一つと書き、1960年北京市地図出版社発行の『世界地図集』で尖閣を日本領としていたのが、1968年に国連極東経済委員会(ECAFE)が尖閣海域に石油・ガスなどの地下資源が存在する可能性ありとの報告したとたんに、自国領だと言いだしたのである。あきれ果てた恥ずべき国である。
 
このならずもの並の領有権主張は全く根拠がなく、これに対して日本の領有は100%国際法によって裏づけられていることは『中国はなぜ尖閣を取りに来るのか』(藤岡信勝・加瀬英明編/自由社)の中で詳細に説明しておいた。この全文を目下英訳中で、近々「史実を世界に発信する会」の英文サイトに掲載するとともに、ニューヨーク・タイムズの元日本支社長ニコラス・クリストフのように「中国の主張に分がある」などと虚言をいう連中に送りつけるつもりである。

 古文書などを持ち出して理由づけようとしているがどれもこれも、領有権とは全く無関係であるが、「西太后詔書」なる偽造文書まで持ち出すありさまである。これは光緒19年(1893年)清朝の大官盛宣懐が釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼の三島へ薬草の海芙蓉を採取に赴き、その錠剤を西太后に進呈したところ、その薬効から、西太后がこの三島をその者に与えると書かれた詔書と称するものである。
 
この詔書なるものは、偽造されたニセモノであることが明らかとなっている。
まず、1893年といえば魚釣島、黄尾嶼(久場島)には古賀辰四郎が上陸して開拓に着手してから10年近くたっており、ここに見知らぬ中国人が上陸してくればすぐにわかるはずである。そのようなことはどこにも記録されていないし、伝えられてもいない。また、赤尾嶼は草一本生えない岩山なのに薬草取りをしたとは、ウソ話作りも杜撰である。三島に海扶桑なる薬草が生えていたことはない。
 

そもそもこの詔書は10月と書かれているだけで日付がない。詔書には必ず日付があるし、又玉璽も本物とは異なっている。決定的なのは、盛宣懐を「太常寺正卿」としているのであるが、光緒19年当時その役職には就いていないことが明らかとなっていることだ。ウソにぼろが出てしまったということだ。領地を与えるという重用事なのに当時の清の公文書のどこにもでていない、という事を見ても全くの作り事であることがよくわかる。
 
こんな子供っぽいウソを中国政府は領有権の根拠として正式に主張している。しかし、これを馬鹿にしているだけでは済まない。アメリカ議会調査局報告書ではこれを「無意味」と一掃するのではなく、一つの根拠として列記している。田中上奏文というニセ文書が実に大きな害を日本に与えた事例を思い起こすべきである。ニセ詔書であることを内外に徹底的にPRしていくべきである。(2011.3.18)

日本は独立自尊の国 (加瀬英明)

2011年2月22日 火曜日

 今日から、1403年前になる。推古天皇16(608)年に、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として長安の都に派遣して、隋の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という国書を、献じた。

 皇帝の煬帝がこれを見て、終日、機嫌を損ねていたと、『隋書』が記録している。

 あの時の日本は、中国を刺激することを、恐れなかった。
日本は毅然とそうすることによって、中国を囲む国々がすべて中華帝国に臣従したのにもかかわらず、唯一つ中国と対等な関係を結ぶ国家となった。日本史における最大の快挙だった。

 いったい、日本はいつから中国を刺激することを、恐れるようになったのか。

 アメリカや、ドイツや、インドを刺激してはならないと、いわない。中国、ロシア、韓国、北朝鮮についてのみ、いうことだ。きっと、日本国民がこれらの国々が、〃やくざ並みの国〃であることを、知っているからだろう。怯懦な民となって、よいものか。

 2010年9月7日に、中国漁船が尖閣諸島周辺の領海を侵犯した。海上保安庁の巡視船「よなくに」「みづき」に二回も体当りして、破損させたために、船長を逮捕、漁船を拿捕して、十四人の船員を参考人として拘留した。

 ところが、政府のその後の対応のために、日本の主権と威信を揺るがす重大事件なった。いつの時代にあっても、国威を保つことが必要だ。

 中国漁船が海上民兵に所属して、中央の指令によって尖閣周辺の領海を侵犯した疑いが濃かったのに、船員を十分に取り調べることなく、13日に帰国させて、漁船も中国に返還した。

 9月の中国漁船による侵犯事件は偶発的なものではなく、中国の中枢が中国の海洋戦略にそって、日本側の対応がどうなるか、験すために試みた、威力偵察だった可能性が高い。

 2010年4月から5月にかけて、寧波(ニンポー)基地から東海艦隊の駆逐艦、潜水艦各二隻、フリゲート、支援艦各三隻を含む十隻編成の戦隊が、沖縄本島と宮古島のあいだを通過して、太平洋に進出した。沖ノ鳥島のまわりを巡った後に、引き揚げた。これは中華人民共和国が成立してから、中国海軍による最大で、画期的な機動演習だった。

 政府は中国が中国本土にいたフジタ社員四人の身柄を拘束し、レアアースの日本への輸出を止めるなど、露骨な恫喝を加えられると、膝を屈した。那覇地方次席検事が判断したといって、24日に船長の取調べを中断して、釈放を決め、翌日、帰国させた。船長は帰国すると、英雄として歓迎された。

 菅政権は、中国に船長以下15人の乗組員と漁船を、朝貢したのだった。
政府の措置は日本を辱(はずか)しめ、聖徳太子が隋に1403年前に、国書を送って以来の日本の独立を損ねるものだった。鳩山・菅両政権は「日出づる国」の気概を、欠いている。

 政府は中国に阿(おも)ねて、わが巡視船が撮影したビデオを、秘匿することをはかった。ビデオはようやく11月1日になって、六分あまりに圧縮編集したものが、衆参両院予算委員会に所属する一部の議員に対してのみ、限定して公開された。 

 だが、国民に対しては公開することを、拒み続けた。
巡視船上から撮影した映像は、ありのままの事実をとらえており、国家の機密を損なうものではまったくなかった。政府は国民に目隠ししようとして、国民の「知る権利」を踏み躙(にじ)った。日本が民主主義国であるか、疑わせるものだった。政府は国民を信頼していなかったのだ。

 11月4日に、中国漁船が巡視船に体当たりする44分にわたる犯行の映像が、神戸海上保安部に所属する一色正春海上保安官によって、ユーチューブに投稿されると、全国から膨大なアクセスが、すぐに集中した。

 多くの国民が中国漁船による暴挙を知ることができたことを、喝采するのをよそに、政府は映像を流出させた行為が、あたかも凶悪犯罪であるかのようにきめつけて、犯人探しに現(うつつ)を抜かした。なぜ、政府は中国漁船による暴挙を、隠蔽しようとしたのか。

 ほどなく、一色主任航海士が名乗りでて、「一人でも多くの人に遠く離れた日本の海で起っている出来事を見てもらい、一人ひとりが考え判断し、そして行動して欲しかった」と、述べた。

 映像を流出させたことによって、国民の真実を知る権利を擁護しただけでなく、世界に中国の暴挙を認識させることによって、国益を大きく増進した。

 共同通信が11月12日、13日に行った世論調査は、83%の人が映像が表にでたことが「よかった」、映像が「国家の秘密に当たるか」という問いに対して、「当たらない」という回答が、81%にのぼった。

 政府は中国漁船の船長を釈放した時にも、腰が据わっていなかった。その後、一色海上保安官を罰することができないでいる。

 NHKをはじめ民放テレビがこぞって、一色海上保安官が流出させた映像を、繰り返えし放映した。もし、映像が国益を損ねるものであったとすれば、政府はどうして流出した映像を放映した大手マスコミを、非難しなかったのだろうか。

 11月1日にロシアのメドベジェフ大統領がわが北方領土の国後島を訪れて、北方領土がロシアの固有の領土だと主張した。

 メドベジェフ大統領がこのように不法に振る舞ったのは、日本が中国にだけ謟うのを見て、中国に対する嫉妬心に駆られたものだった。

 もし、日本政府が先の中国漁船による暴挙に対して、毅然たる措置をとっていたとしたら、北方領土に闖入することがなかったはずだった。

 11月23日に、北朝鮮が突如、黄海の韓国領の延坪島に砲撃を加えた。菅首相は第一報を知ってから一時間以上にもわたって、「情報収集に全力をあげる」と、無爲に繰り返した。自衛隊、海上保安庁、警察にただちに厳戒態勢に入るように指示したと、いうべきだった。北朝鮮が万一、日本に攻撃を加えてくるとしたら、そのような余裕がなかった。

 菅首相は翌日になって、はじめて北朝鮮を非難した。かつて村山富一首相が阪神淡路大震災にあたって、対応が大きく遅れたことを批判されて、「何せ、初めてのことじゃったから」と率直に弁明したのを、思い出させた。

 2011年が明ける。中国とロシアの挟み撃ちにあい、日本国民は菅政権の腑甲斐無い対応を目のあたりにして、日本がサンフランシスコ講和条約によって独立を回復してから、はじめて民族の生存本能に目覚めた。

 民主党政権のもとの日本は、危険な幻想に憑かれていた。
一昨年9月に、民主党政権が発足すると、鳩山首相は胡錦涛首席と会談して、得々として、東シナ海を「友愛の海」にしたいと申し入れた。鳩山首相は日本と米中の二国を等距離に置くべきだという、「日米中正三角形」論を唱えた。

 これは、幻想というよりも、妄想だった。爲政者は日米関係は〃魂(しこ)の御(み)楯(たて)〃であり、中国は敵性国家であることを、理解しているべきである。日米同盟を輕んじたのは、由々しいことだった。

 だが、天は日本を見離さなかった。中国とロシアが狼藉を働いたというのに、菅政権が爲すべきことを知らなかったために、隋眠を貪っていた国民が目を覚した。今年から、国民は幻想を払って、現実と取り組むことになる。いや、強いられることとなろう。

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