米国のニュース週刊誌『コリアース゛』が総力を挙げて取材・撮影した従軍記録写真集から厳選して編集。日露戦争開戦前夜から日本海海戦までをカバーし、当時のリアルな戦争の実態を伝えていて、資料的価値が非常に高い写真集である。数多くの写真は私たちを往時へとタイムスリッブさせてくれ、歴史を抽象的な観念上の出来事としてではなく、生きた人間の営みだと分からせてくれる。日本海海戦の解説を世界的な海軍戦術の研究家として有名なA・T・マハン(アメリカの軍人で歴史家)が執筆している。
原書となった二冊の本を出版した(1904、1905年)『コリアーズ』(Colliers Weekly: An Illustrated Journal)は、1884年4月にアメリカでピーター・コリアーによって創刊された報道写真誌の先駆。1957年1月まで続いた。翻訳者の小谷まさ代は富山大学文理学部卒業の翻訳家。解説者は常磐大学教授。
「日露戦争は領土をめぐる戦いである。戦端を開くきっかけとなったのは、朝鮮と満州の領有をめぐる外交交渉の決裂だった。しかし対立の根本的な原因は、太平洋に向って氷河のようにじりじりと極東へ勢力を伸ばすロシアの南下政策と、それに危機感をつのらせた日本の防衛政策がぶつかりあったことである」(第1章)。第1章には戦争直前の日露交渉に関する電報が掲載されている。
「開戦当初のロシア軍を不利な立場に追い込んだ最大の理由は、本国の基地から前線までの途方もない距離であった」(第2章)。このことは、大東亜戦争を東亜だけで戦わずに太平洋戦争にしてしまった日本海軍の作戦上の誤ちを示唆している。
「日本軍は開戦から数日のあいだに二つの戦いでロシア艦艇に打撃を与え、さらには陸軍の仁川上陸まで無事に成功させ、実質的に制海権を掌握したのである」(第3章)。
「日本艦隊の攻撃によって旅順艦隊に打撃を受けたロシアは、海戦に力点をおくことができなくなり、満州での陸戦にそなえて兵力と物資の増強に総力を挙げた。・・・日本軍の行動は迅速だった。・・・日本軍が義州の四八キロ以内に迫ると、鴨緑江の南岸に進出していたロシア軍は塹壕を捨てて鴨緑江北岸に退却してしまったのである」(第4章)。
「冬のあいだ、日本の陸軍大部隊が強行軍で通過した道筋には、焼きはらわれた村もなければ、略奪で荒らされた家もなく、逃げまどう農民の姿などまったく見られなかった。軍隊内でも勝手な振舞いや騒動はいっさいなく、部隊が通過した村々に規律を乱した兵士の話は残されていない。長老たちが口をそろえて語るのは、規律厳正に粛々と行軍する兵士の姿である。行軍の途中で調達される補給物資の代金はすべて現地の市場価格できちんと支払われる。・・・いま我々が通過している韓国という国は、この二ヶ月のあいだに実に巧妙に日本化されていった。思いやりのある態度、公正な扱い、世論も個人も巧みに操る手際よさ、そういったもので日本はこの国を征服したのである」(第5章)。
「一九〇四年二月の開戦から数ヶ月間、ロシア軍を最も苦しめたのは、本国の基地から前線までの気の遠くなるような距離であった。ロシアと満州を結ぶ輸送路は単線のシベリア鉄道のみである。しかも当時はバイカル湖の凍結で鉄道は分断された状態だった」(第6章)。
「二日間にわたった鴨緑江畔での戦闘は、開戦以来最初の大規模な陸戦であり、兵力だけでなく機略・戦略においても敵を凌駕した日本軍が圧倒的な勝利を収めた。・・・自信過剰に陥って事態を楽観していたロシア軍は、まるで無為無策に兵を配置していた」、「鴨緑江の戦闘が終わると、日本軍は負傷兵の看護に力を尽くした。・・・日本軍はロシア人負傷兵を自国の兵と同じように看護したばかりか、ロシア軍が敗走するさいに遺棄していった戦死者を埋葬したのである。士官に対してはその階級に即して、日本陸軍士官と同等の扱いで丁重に葬った」(第7章)。
「廣瀬中佐は・・ロシア軍の放った一弾を身に受けて・・一片の肉塊をとどめただけだった。・・・本国到着後は、特別に選抜された将校たちによって東京まで護送され、葬儀の日には無数の熱狂した市民が墓所への沿道を埋め尽くしたという」(第8章)。
「日本軍にとって遼陽の会戦は、鴨緑江の渡河から四ヶ月にわたって進めてきた満州における軍事作戦のゴールともいえる戦闘であった。日露戦争において初めて両軍の主力が対決することとなったこの会戦には、近代戦史上最多の兵力が投入され、すさまじい死闘のすえに日本軍の勝利に終った。参加した将兵の数は日露両軍あわせて四〇万から五〇万、五日間におよぶ大会戦における両軍の死傷者は合計およそ三万人にものぼると推定されている」(第九章)。
「奉天へ退いたロシア軍は・・反撃に出ることを決意し・・沙河の会戦では・・およそ二週間後、日本軍の奮戦によって・・ついにロシア軍は沙河の北への退却を余儀なくされた」(第10章)。
「一九〇五(明治三八)年一月一日、旅順攻囲戦はようやく終焉を迎えた。半年におよぶ激烈な死闘のすえ、旅順はついに日本軍の手に落ちた・・・日本軍にとって二〇三高地の最大の価値は、旅順港に在泊するロシア艦船が一望できることである」(第11章)。
「投入された兵力、戦域の広さ、死傷者の数、いずれをとっても奉天会戦は近代戦史上最大の会戦であった。・・・総兵力は七五万から八〇万人にのぼり、そのうちロシア軍は三六万一〇〇〇、日本軍は少なくとも四〇万であった。・・・奉天の周囲には防御線が何重にも構築され・・難攻不落と評される強大重厚な要塞だった。対する日本軍は東から西へ五つの軍を配置していた・・迂回包囲作戦である。この作戦は大成功を収めることになる」(第12章)。
「日本海海戦は日本海の制海権を争う日露の激突である。・・・大陸(満州)での陸戦を維持するためには海上輸送路の安全確保が必須であった。・・・連合艦隊は高速で運動して常に敵の全面を圧迫し、先頭部へ集中砲火を浴びせつづけた。・・・海戦初日の五月ニ七日、海上は南西からの強風が吹き荒れ、風浪が高かった。この気象は日本側に味方した。・・・やがて戦場は日没を迎えた。・・連合艦隊は主力による発砲を停止し、駆逐艦や水雷艇による夜戦に切り替えた。・・このとき偶然にも、それまで吹き荒れていた強風が弱まった。・・暗夜での水雷攻撃が容易になったのである。まさに天が日本側に味方したというべきである。・・・日本軍はロシア艦隊を撃滅して制海権を守り、地上戦を支える生命線である海上補給路の安全を確保したのである」(第13章)。
‘ロシア・ソ連関連一般’ カテゴリーのアーカイブ
「米国特派員が撮った日露戦争」『コリアース゛』編集、小谷まさ代訳、波多野勝解説、草思社、2005年4月発行、¥2,940(税込み)
「大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義-」三田村武夫著、自由社、1987年1月復刊、古書有り
初版は1950年春「戦争と共産主義」のタイトルで出版されたが、すぐ占領軍最高司令部(GHQ)民政局の共産主義者により発禁処分にされた書。しかし、そのことが内容の真実性を傍証している。
著者は1899年、岐阜県生まれ。1928年から1935年まで、内務省警保局と拓務省管理局に勤務。1936年から衆議院議員。1943年には言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反容疑で警視庁に逮捕されている。
第二次世界大戦に至るまでの期間にシナやアメリカ政府が共産主義者の浸透を受け、ソ連政府の支配下にあったコミンテルンの世界革命戦略に沿って動かされてきた事実は現在では良く知られるようになってきたが、当時の日本でも同様の事態が進展しており、日本が日支事変から大東亜戦争へと引きずり込まれていった事実を、政府機関勤務や国会議員の経験があるとはいえ、一個人が収集できただけの資料に基づき、戦争終結後わずか5年の1950年に出版できた見識には敬意を表する価値がある。ただし、日本側の事情についてだけ書かれた書であり、アメリカ政府もそれ以上に共産主義者による支配を受けており、早くから対日戦争の準備を整え、戦争行為を開始していたことなどについては「ヒス事件」の疑惑以外、この時点での著者は情報を得ていない。
復刊本に「序」文を寄せている岸信介は、「支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀實であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。・・・支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と書いている。
内容は本書の以下の目次からおおよそ読み取ることができると思う。
序 説 コムミニストの立場から
第一篇 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想とその謀略コースについて
一 裏がへした軍閥戦争
二 コミンテルンの究極目的と敗戦革命
三 第二次世界大戦より世界共産主義革命への構想-尾崎秀實の首記より-
第二篇 軍閥政治を出現せしめた歴史的条件とその思想系列について
一 三・一五事件から満州事変へ
二 満州事変から日華事変へ
第三篇 日華事変を太平洋戦争に追込み、日本を敗戦自滅に導いた共産主義者の秘密謀略活動について
一 敗戦革命への謀略配置
二 日華事変より太平洋戦争へ
三 太平洋戦争より敗戦革命へ
資料篇 一 「コミンテルン秘密機関」-尾崎秀實手記抜粋-
二 日華事変を長期戦に、そして太平洋戦争へと理論的に追ひ込んで来た論文及主張
三 企画院事件の記録
四 対満政治機構改革問題に関する資料
ソ連政府の支配下にあったコミンテルン(国際共産主義組織)は、1935年になって第七回大会でそれまでの非合法闘争方針を転換し、人民戦線戦術で各国の特殊性を認め、1929年にアメリカで発生し全世界を不況のどん底に叩き込んだ世界大恐慌後の状況に合せて、強大な帝国同士を戦わせ、疲弊させて、敗戦から共産主義革命に至る世界革命の戦術を考え出した。その戦術に沿ってアメリカ政府へもスパイや共産主義者を送り込み、シナ大陸では西安事件で蒋介石を脅迫して対日戦争を画策させ、それらと同調するように日本国内では軍部、政治家、学者、文化人などに影響を与えて軍部独裁、戦時体制へと巧妙に誘導していった。日本でその中心にいたのが尾崎秀實を中心とした隠れ共産主義者たちであった。アジアではまず日本と蒋介石軍を戦わせ、さらに蒋介石を支援していたアメリカと日本を戦わせることにより、世界共産主義革命への道が開けるとの戦術である。こうした戦術の多くが成功裏に進行していったのは、大恐慌によりアメリカでも資本主義への信頼が揺らぎ、日本では陸軍の中心の大部分が貧農や勤労階級の子弟によって構成されていて、社会主義思想への共感が得やすい土壌があったという背景がある。こうした困難を克服していく方法は社会福祉政策と自由貿易であったのだろうが、世界的にまだその機が熟していなかった。先述の岸信介の「序」文の続きには、「共産主義が如何に右翼・軍部を自家薬籠中のものにしたか・・・本来この両者(右翼と左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当時、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法->生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している」と書かれている。
共産主義者、尾崎秀實は、当時のいわゆる「天皇制」について次のように書いている。「日本の現支配体制を「天皇制」と規定することは実際と合はないのではないか・・・日本に於ける「天皇制」が歴史的に見て直接民衆の抑圧者でもなかったし、現在に於いて、如何に皇室自身が財産家であるとしても直接搾取者であるとの感じを民衆に与へては居ないと云ふ事実によって明瞭であらうと考へます。・・・その意味では「天皇制」を直接打倒の対象とすることは適当でないと思はれます。問題は日本の真実なる支配階級たる軍部資本家的勢力が天皇の名に於て行動する如き仕組に対してこれにどう対処するかの問題であります。・・・世界的共産主義大同社会が出来た時に於て・・所謂天皇制が制度として否定され解体されることは当然であります。しかしながら日本民族のうちに最も古き家としての天皇家が何等かの形をもって残ることを否定せんとするものではありません」(「コミンテルン秘密機関」尾崎秀實手記抜粋より)。
「交渉術」佐藤優著、文春文庫、2011年6月発行、¥705+税
著者は1960年生まれ。外交官を経て、現在、文筆家。在ロシア連邦日本国大使館に勤務後、外務本省国際情報局分析官としてインテリジェンス業務に従事した経歴を持つ。
筆者に本書の内容を評する知識も能力もないが、とにかく面白い。本書は読者に国際政治の最前線の一部を垣間見させてくれるだけでなく、人間社会の現実を鋭く描いており、過去の史実を理解する上で有効だと考え、資料室に掲載する。
著者は本書のあとがきで、ソ連崩壊のシナリオを描いたというロシアの高官、ブルブリス氏の言として、「過去の歴史をよく勉強しろ。現在、起きていること、また、近未来に起きることは、必ず過去によく似た歴史のひな形がある。それを押えておけば、情勢分析を誤ることはない」という言葉と、「人間研究を怠るな。その人間の心理をよく観察せよ。特に、嫉妬、私怨についての調査を怠るな」という言葉を紹介している。
なお著者には、“「国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて」新潮文庫、2007年10月発行、¥740(税込み)”、
“「自壊する帝国」新潮文庫、2008年10月発行、¥820(税込み)”、
“「国家論-日本社会をどう強化するか」NHK BOOKS、2007年12月発行、¥1,160+税”、
“「日本国家の神髄-禁書『国体の本義』を読み解く」扶桑社、2009年12月発行、¥1,785(税込み)“、
“「インテリジェンス人間論」新潮文庫、2010年10月発行、¥740(税込み)”など、多数の著書がある。