2022年 のアーカイブ

SDHF Newsletter No.372J 「慰安婦」と「挺身隊」の区別ができていなかった「挺対協」

「慰安婦」と「挺身隊」の区別ができていなかった「挺対協」

金柄憲 韓国国史教科書研究所長 ソウル慰安婦像前での演説
『赤い水曜日』著者(韓国語版未来社、2021年)
(日本語訳版文芸春秋社、2022年)

金柄憲(韓国国史教科書研究所長)は、『赤い水曜日』の著者です。ソウルの日本大使館前に建てられた慰安婦像の前で、ニセ慰安婦像撤去を訴える記者会見(演説)を毎週開催しています。

今回の演説のポイントは、長年にわたって、毎週水曜に慰安婦像の前で、日本批判を行ってきた「挺対協」(韓国挺身隊問題対策協議会)が、その名前を「正義記憶連帯」と変えましたが、その理由は、彼らが「慰安婦」と「挺身隊」の区別も知らないで、数十年にわたって慰安婦問題を論じてきたことにやっと気が付いたからでした。

しかし、金所長は言います。「正義を記憶しよう」というけれど、「正義」とは正しい歴史を子供に教えることではないか、それなのに慰安婦のウソを相変わらず叫んでいるのは一体どういうことなのか、と。

・日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Kim.pdf
・英訳文: https://www.sdh-fact.com/CL/Kime.pdf

令和4年12月29日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

<回覧大歓迎>

The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan (The Korean Council) were not able to distinguish “comfort women” from “Volunteer Corps”

Speech made in front of the Comfort Woman Statue in Seoul

by Byeong Heon Kim, Representative, Korean History Textbook Research Institute,

Author of Red Wednesday—Lies of Comfort Women Campaign Alive for 30 Years

(Hangul version published by Miresa, 2021)

(Japanese version translation by Bungei Shunju-sha, 2022)

The point of Byeong Heon Kim’s speech is that The Korean Council, which led the campaign accusing Japan for enslaving comfort women and regularly gathered in front of the comfort girl statute in downtown Seoul for 30 years, is so ignorant in not being able to distinguish “comfort women” from members of the “volunteer corps.”

The Council changed its name to the “Korean Council for Justice and Remembrance for the Issue of Military Sexual Slavery by Japan,” perhaps because it finally realized its mistake.

However, Dr. Kim, Representative of the Korean History Textbook Research Institute, asks “What is ‘justice’”? “Justice” is in fact teaching children actual history and to recognize actual history, but the “Council for Justice” teaches children a completely false history of the comfort women.

URL: https://www.sdh-fact.com/essay-article/2004/
PDF: https://www.sdh-fact.com/CL/Kime.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

「慰安婦」と「挺身隊」の区別ができていなかった「挺対協」 (金柄憲)

The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan (The Korean Council) were not able to distinguish “comfort women” from “Volunteer Corps”

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SDHF Newsletter No.371J 大東亜戦争への道 その8 第3章 日露戦争ー1

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲
その8 第三章 第一節 日露戦争:三国干渉の高いツケ

日露戦争に始まり満州事変へと続いてゆく極東の禍乱の第一原因は清国の愚策にあった、と著者は言います。すなわち、三国干渉に頼って日本から遼東半島を奪還した清は、却って莫大な報酬を支払う結果となったからです。
まずロシアは日清戦争の翌年李鴻章に露清密約を提案して成立させ、東支鉄道の建設を実現しました。ドイツは、宣教師の殺害を口実に、膠州湾を占領、膠州湾の99ケ年租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を得ました。これを見てロシアはすかさず艦隊を派遣して遼東半島の旅順と大連湾を占領し、25年間の租借権を獲得しました。フランスはロシアと提携して清を圧迫して、南支の膠州湾99ケ年の租借権を得ました。それに対抗して、イギリスは九竜半島の99ケ年租借権と、さらにロシアの旅順・大連租借に対抗して威海衛の租借権を獲得するといった一連の動きとなったのでした。また、英国は揚子江沿岸、フランスは海南島と広西・雲南了承、日本は台湾対岸の福建省についてそれぞれ不割譲を清に約させ、自己の勢力圏としました。
ある米国の歴史家(トーマス・ベイレイ)は、この列国のすさまじい侵奪を
清国の「生体解剖」と評しましたが、そのそもそもの元は中国の伝統的な「以夷制夷」という政策を目先の利益追求のために清が実行したところにありました。

・その8,第3章1節 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road8.pdf
・ 〃  第3章1節 英訳文:http://www.sdh-fact.com/CL/Road8E.pdf

令和4年12月23日
「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸
*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus
(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)
Part 8: Chapter 3: The Russo-Japanese War-1

The author writes that the primary cause of the turmoil in the Far East that commenced with the
Russo-Japanese War and culminated in the Manchurian Incident was monumentally foolish policy
decisions made by the Chinese. When the Japanese retroceded the Liaodong peninsula to China via
the Triple Intervention, instigated by China, the Chinese were now obligated to disburse huge sums
of money.
Russia was the first creditor to demand payment. About one year after the 1st Sino-Japanese War,
Russia approached Li Hongzhang; he agreed to sign the Li-Lobanov secret treaty. According to the treaty, China granted permission for the construction of a railroad crossing Manchuria, with Vladivostok as its terminal, to facilitate the transport of Russian troops.
Once Russia had reaped the rewards of the Triple Intervention, other powers followed suit.
Germany was the first to act; it sent a battleship to Jiaozhou Bay, using the murder of two German
missionaries in Shandong province as a pretext. In the following year Germany extracted a 99-year
lease on Jiazhou Bay from the Chinese, as well as railroad-construction and mining rights in
Shandong. Russia had kept abreast of German activities and, wasting no time, sent troops to the
Liaodong peninsula, occupying Port Arthur and Dalian Bay.
France joined Russia in the scramble for Chinese spoils. It obtained a 99-year lease on Guangzhou Bay in South China. The UK entered the competition, acquiring a 99-year lease on the Kowloon Peninsula; it also acquired a lease on Weihaiwei to counter Russia’s lease on Dalian.
Then, in 1898, the UK extracted a promise from the Chinese not to cede land on the coast of the
Yangzi River, and France agreed to do the same with respect to Hainan Island, Guangxi and Yunnan
provinces, as did Japan with respect to Fujian province, located across from Taiwan, thus embracing
them in the various spheres of influence. An American historian referred to these ghastly usurpations
as the “vivisection of China.”
The Triple Intervention, whereby China had asked Russia and its cohorts to restrain Japan, came at a very high price to China. Additionally, it ended up enmeshing the entire Far East, including Japan, in utter turmoil.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/2001/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road8E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.370J ウクライナ戦争考

ウクライナ戦争考

茂木弘道(「史実を世界に発信する会」 会長)

ロシアのウクライナ侵攻は、ロシア大国主義に基づく大ロシア実現がその根本的な目的であることは2月26日国営ノーボスチ通信の記事からしても明らかなことである。

ロシアの大国主義的なナショナリズムは、小国ウクライナの主権、文化、言語、意志を無視して大ロシア主義を一方的に押し付けようとする、民族主義的なグローバリズムと化している。極めて危険極まりない悪質ナショナリズムでる。

日本の民族主義者の一部には、グローバリズムに反対し、民族主義を支持したいという心情の人達がいて、今回のロシアのウクライナへの全面侵攻を日本の真珠湾攻撃と同類のものと考えて同情するのは、困ったことである。

ウクライナのゼレンスキー大統領も、3月15日に行われた米連邦議会のオンライン演説で、「真珠湾を思い出してほしい。1941年12月7日、あのおぞましい朝のことを。」と訴えている。

しかし、これはとんでもない間違った認識である。

何よりも確認すべきことは、ロシアのウクライナ侵略は、自国の存立が危機的な状況下で行われたものであは全くないということである。小国ウクライナへの無法極まりない侵略であり、しかも核の脅し付きという悪質さである。

真珠湾攻撃は先制攻撃であるが、日本は正真正銘の国家存亡の危機に直面していたのである。1939年7月7日にアメリカは一方的に日米通商条約を破棄を宣言した。これはアメリカ史上類例のないことで、「準宣戦布告」と言えるものである。半年後からは、アメリカは日本に対して自由に「輸出制限」ができることになり、これを開始し、ついに1941年8月には石油の全面禁輸を行うに至った。石油の90%を輸入に頼っていた日本は、これにより近代国家として立ち行かない事態に陥ったのである。

「経済封鎖は戦争行為である」とアメリカのケロッグ国務長官は議会で述べているが、アメリカはイギリス、オランダなどと結託して日本に経済封鎖を仕掛けわけである。

すなわち先に戦争行為を仕掛けたのはアメリカなのである。しかも和解のための日米交渉に対するアメリカの最後回答が、ハル・ノートである。日本は、自衛手段を取る以外に道がなくなったのである。すなわち、自衛権の行使として、真珠湾攻撃を行ったのである。自衛戦争には、宣戦布告義務はない。

日本は正当な自衛権行使として真珠湾攻撃を行ったのであり、ロシアの侵略駅なウクライナ攻撃とは似て非なるものである、ということを全世界の人々に認識してもらわなければならない。

・日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Ukraine.pdf
・英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Ukrainee.pdf

令和4年12月9日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

ウクライナ戦争考 (茂木弘道)

On the Ukraine War

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SDHF Newsletter No.369J 大東亜戦争への道 その7 第2章 日清戦争ー4

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その7 第二章 第四節 日清戦争:日清戦争と朝鮮

日清戦争のさなか、日本がそれ以前に朝鮮に提案していたもろもろの改革が親日政権により実施されました。「甲午改革」といいます。208件の改革議案が決議されましたが、その主なものは次の通りです。

1.清暦を廃し、李氏朝鮮開始年号を用いる。
2.貴賤門閥にかかわらず、人材を登用する。
3.人身売買の禁止。
4.平民にも軍国機務処に意見提出を許し、卓見の持ち主は官吏に採用。
5.司法権限によらぬ逮捕や刑罰の禁止。
6.拷問の禁止。
などなど、前近代性からの脱却を目指すものです。

ところが、この改革は改革派と国王・閔妃などの保守派との内訌により、頓挫してしまいます。日本はこれに対して「将来の対韓戦略はなるべく干渉をやめ、朝鮮をして自立せしむる」方針を閣議決定します。(1895年6月4日)

振り返ってみればこの時こそ、朝鮮が近代国家として独立を達成する絶好の機会でした。しかし、朝鮮はこの機会をとらえようとはしなかったのです。日本のこのような方針転換を日本の対露恐怖症の表れとしか見ず、親露政策によって日本を制し、自派の勢力を拡大せんとしたのです。

この新旧抗争をロシアは利用しました。ロシア公使ウェーバーはロシアの強大性を説いて、閔妃一派に接近しました。閔妃を葬れは、在韓日本志士のみならず、反閔妃派の朝鮮政客の叫びでもありました。10月7日、朝鮮政府が訓練隊の解散を通告すると、閔妃排除を深く決意し日本の三浦悟楼公使の指示を受けた訓練隊と日韓の有志は、大院君を擁して王宮に入らんとし、訓練隊は侍衛隊と衝突して王宮は大混乱に陥り、この乱中に閔妃は殺害されました。

この「乙未の変」後、金弘集を首班とする親日派の内閣が組織され、改革を再開しました。しかし、断髪令の強行が民心の離反を招き、その機に乗じてロシア公使ウエーバーが公使館防衛の名目でロシア水兵百名を引き入れ、親露派と謀って国王を王宮から奪取して、ロシア公使館に移しました。(2月11日)この事件を「露館播遷」と言います。

親日派は虐殺されたり、日本へ亡命したりしました。斯くして、国王はロシア公使館で政務をとるという異常事態となりました。

日本はロシアとの交渉によって異常事態に対処するすることになりましたが、ロシアの強硬姿勢が韓国の反発を招き、ロシアの軍事・財政顧問は韓国から引き上げることになりました。(3月23日)

ロシアは、韓国から撤退すると、南下政策の矛先を満洲に向けました。撤退の4日後の3月27日には清国から旅順・大連を租借したのでした。

・その7,第2章4節 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road7.pdf
・ 〃 第2章4節 英訳文: https://www.sdh-fact.com/CL/Road7E.pdf

令和4年12月1日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus
(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 7: Chapter 2: The 1st Sino-Japanese War-4

Korean domestic reforms proposed by Japan (the Gabo Reforms) were undertaken during the 1st Sino-Japanese War. The 208 reforms decided upon represented Korea’s first attempt at modernization; they included the following:

1. The Chinese calendar was replaced with a Korean calendar that begins in 1392, the year the Joseon dynasty was established
2. Hiring was to be done without regard to social class or lineage
3. Slave trade was banned
4. Common people could now express their opinions to the Deliberative Council; those with significant talent could be hired as government officials
5. Arrest and punishment unsupported by judicial authority were prohibited
6. Torture was prohibited

However, internecine strife in Korea presented a serious obstacle to the reforms. The conflict between the progressives and the conservatives continued to worsen, and ultimately became one between the pro-Japanese and pro-Russian factions.

On June 4 Japan’s Diet passed a resolution concerning Korea policy. Japan would, in the future, avoid interfering in Korean affairs, and allow Korea to achieve autonomy on its own. This would be the best opportunity for Korea to realize true independence and become a modern nation. However,

this policy change was interpreted by Queen Min as a manifestation of Japan’s fear of Russia. She began to attempt to rein Japan in through pro-Russian policies, and to acquire more strength for her faction.

Russia took full advantage of the discord between the progressives and conservatives. Russian Ambassador Weber made overtures to Queen Min and her followers, boasting about Russia’s might.

“Bury the queen!” became the war cry not only of Japanese idealists in Korea, but also of Korean politicians who opposed the queen’s faction. On October 7, 1895 the Korean government announced that the Military Training Division would be disbanded and its weapons confiscated. Early the next morning, the Military Training Division and Japanese and Korean partisans, under orders from Japanese Ambassador Miura Gorō, who had pledged to do away with Queen Min, entered the palace with the Daewongun. During this incident Queen Ming was killed.

Afterwards Kim Hong-jip formed a new pro-Japanese cabinet, and once again began implementing reforms. But some of them, e.g., the Short Hair Act, alienated the Korean people, and in 1896 uprisings cropped up all over the nation. Russian Ambassador Weber took advantage of that situation by bringing 100 Russian sailors into Korea supposedly to protect the Russian legation. Conspiring with pro-Russian Koreans, Weber kidnapped the king on February 11 and escorted him to the Russian legation. The king’s sojourn there is referred to as Gojong’s internal exile. It meant that Korean policy was drafted at the Russian legation, an extraordinary circumstance.

But high-pressure Russian diplomatic tactics backfired when they incurred the enmity of the Korean people. On March 23, 1898, Russian military and financial advisors departed from Korea. The Russians shifted their focus to a new target – a southward advance to Manchuria. On March 27, only four days after its military and financial advisers left Korea, Russia leased Port Arthur and Dalian from China.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1989/
PDF:  https://www.sdh-fact.com/CL/Road7E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

11月の集計

11/1,T.O.様 10,000 個人会員
11/2,K.T.様 10,000 寄付
11/9,N.Y.様 10,000 個人会員
11/10,S.K.様 10,000 個人会員
11/11,N.T.様 10,000 個人会員
11/11,S.K.様 10,000 個人会員
11/14,K.I.様 20,000 寄付
11/18,I.T.様 10,000 個人会員
11/24,K.T.様 10,000 個人会員
11/24,T.A.様 10,000 個人会員
11/24,M.M.様 3,000 寄付
11/24,T.H.様 3,000 寄付
11/25,C.S.様 10,000 寄付
11/25,T.Y.様 10,000 寄付
11/25,M.S.様 10,000 個人会員
11/25,S.T.様 3,000 寄付
11/25,D.S.様 5,000 寄付
11/28,T.K.様 10,000 寄付
11/28,S.M.様 10,000 寄付
11/28,T.様 10,000 寄付
11/28,T.T.様 10,000 寄付
11/28,M.M.様 10,000 寄付
11/29,A.T.様 10,000 寄付
11/29,Y.S.様 10,000 個人会員
11/29,Y.F.様 5,000 寄付
11/30,K.H.様 100,000 寄付
11/30,N.M.様 20,000 寄付
11/30,Y.S.様 3,000 寄付
11/30,N.S.様 3,000 寄付
11/30,U.K.様 10,000 個人会員
11/30,M.T.様 100,000 寄付

合計 465,000 円
誠に有難うございました。

SDHF Newsletter No.367J 『鯨は国を助ける)Kindle, オンデマンド

史実を世界に発信する会」 英訳書を
Kindle、オン・ディマンド(ペーパーバック)で刊行

『鯨(けい)は国を助く』(小泉武夫)(小学館)の英訳書、”Counting the Blessing of Wales”をこのほどKindle、オンデマンド(ペーパーバック)でAmazon より刊行しました。

日本の戦後の食糧難の時に動物たんぱく源の48%を賄ってくれたのが鯨でした。今また、鯨は貴重な食糧源として日本を、そして世界を救う存在になろうとしています。反捕鯨がいかに迷信と偏見に満ちたものであるか、小泉先生の本書は世界の認識を変えてくれる書です。

令和4年10月21日 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

<回覧大歓迎>

<オンデマンド・ぺーパーバック>

Counting the Blessings of Whales:Insights from a Chopsticks-wielding Patriot(English Edition) | Takeo Koizumi |本 | 通販 | Amazon

\664

Amazon.co.jp: Counting the Blessings of Whales: Insights from a Chopsticks-wielding Patriot (English Edition) 電子書籍: Koizumi , Takeo: 洋書

SDHF Newsletter No.368J 大東亜戦争への道 その6 第2章 日清戦争ー3

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その6 第二章 第三節 日清戦争:下関条約と三国干渉

世界の予想を裏切って日本は清に圧勝しました。敗色明らかになった清は遂に講和を申し込んできました。明治28年(1985年)4月17日講和条約が調印されました。条約の骨子は、次の通りでした。

1、清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを承認する。
2、清国は遼東半島、台湾全島および澎湖諸島を永遠に日本に割与する。
3、清国は軍費賠償金2億両(テール)を支払う。

ところが、この直後日本は青天の霹靂に見舞われることになりました。条約に対する列国の干渉です。
清は伝統的外交政策である「夷を以て夷を制する」を用いて、ロシアに介入を働きかけたわけです。ロシアは遼東半島領有を国家的野望としていたので、これに乗り、フランス、ドイツを誘って、遼東半島を放棄せよと勧告して来たのです。
清国内では、湖広総督で有力者である張之洞は「英露独諸国に利益を与えて実力援助を乞うべし」さらには「露には新疆あるいは天山南路か北路の数城を与え、英にはチベットを与えるべし」とまで言う有様でした。その後の東亜の禍根を予言する状況が3国干渉でした。
日本の朝野は激発しました。明治天皇が、遼東還付の詔勅を出し、隠忍自重を諭しましたので暴発は起こりませんでした。
この後6月、議会では尾崎行雄や犬養毅らが、1)日本の光栄を回復するために速やかに軍備を拡張すること、2)政府は遼東還付の責任を明らかにすること、3)朝鮮における日本の地位と勢力を維持すること、の3項目について臨時議会開催を要求しています。
福沢諭吉が主筆として論陣を張る時事新報さえ、「今日の無事は明日の安心を証するに足らず。無事平和の時に於いても軍備の不完全はいかにも危険の至りにして、あたかも厳冬のまさにきたらんとして綿衣の未だならざるに同じく、はなはだ心細き次第なり。」と書いています。
軍備拡張を唱えたのは国民であり、議会政治家であり、言論人であったというのが、現実でした。「臥薪嘗胆」が国民的なスローガンとなりました。

・その6,第2章3節 日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road6.pdf
・ 〃 第2章3節 英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Road6E.pdf

令和4年11月10日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus

(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 6: Chapter 2: The 1st Sino-Japanese War-3
Defying the world’s expectations, the Japanese handed China a resounding defeat. The Chinese petitioned for peace talks, which took place at the Shunpanro, a hotel in Shimonoseki. The resulting agreement was signed on April 17, 1895. The framework of what became the treaty of Shimonoseki follows:

1. China recognizes the full and complete independence and autonomy of Korea.
2. China cedes to Japan in perpetuity the Liaodong peninsula, Formosa (Taiwan) and all appertaining islands, and the Pescadores Islands.
3. China agrees to pay to Japan as a war indemnity 200 million taels (ca. \300 million).

Unfortunately, no sooner had the treaty been concluded than Japan was confronted by a bolt from the blue in the form of interference from Western powers. There is a traditional Chinese diplomatic stratagem that involves pitting one barbarian tribe or state against another to gain the upper hand. In employing this maneuver, the Chinese sought Russian cooperation. Since Russia was eager to acquire territory on the Manchuria-Korea border and the Liaodong peninsula, it readily agreed, joined by France and Germany.
The Triple Intervention took place on April 23. Russia, France and Germany “advised” Japan to retrocede the Liaodong peninsula, which Japan had rightfully won.
In China Zhang Zhidong, then the viceroy of Hubei and Hunan provinces, conveyed a mind- boggling opinion to the Qing court: “Waste no time in requesting assistance from the UK, Russia, and Germany, offering concessions in return.” He went so far as to suggest, “After we have intimidated the barbarians by abrogating the treaty, we should cede Xinjiang or the Southern (or Northern) Silk Road to Russia, and Tibet to the UK.” This type of thinking on the part of the Chinese triggered the tribulations that plagued East Asia for the next 50 years.
The Japanese people could not possibly accept the shameful Triple Intervention. Emperor Meiji issued a rescript in which he counseled his subjects to exercise patience and restraint.
But some Lower-House Diet members, among them Ozaki Yukio and Inugai Tsuyoshi, launched a campaign in June 1896 seeking an extraordinary Diet session to discuss the following three points.

(1) Expand the military immediately to restore Japan’s honor
(2) Compel the government to accept responsibility for the retrocession of Liaodong
(3) Maintain Japanese authority and status in Korea
It is important to realize that it was not only Diet representatives and journalists who called for military expansion, but also the citizens of Japan.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1984/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road6E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

10月の集計

10/3,Y.A.様 10,000 個人会員
10/6,K.T.様 10,000 個人会員
10/3,M.T.様 100,000 寄付
10/7,K.F.様 10,000 個人会員
10/7,S.K.様 10,000 個人会員
10/8,N.J.様 10,000 個人会員
10/9,Y.K.様 10,000 寄付
10/12,I.H.様 10,000 個人会員
10/12,A.Y.様 10,000 個人会員
10/14,T.Y.様 10,000 個人会員
10/20,M.M.様 10,000 個人会員
10/24,N.M.様 10,000 個人会員
10/26,K.I.様 20,000 寄付
10/26,I.K.様 10,000 寄付
10/27,O.T.様 20,000 個人会員
10/31,K.T.様 10,000 個人会員

合計 270,000 円
誠に有難うございました。

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