‘ニュースレター’ カテゴリーのアーカイブ

SDHF Newsletter No.372J 「慰安婦」と「挺身隊」の区別ができていなかった「挺対協」

2022年12月29日 木曜日

「慰安婦」と「挺身隊」の区別ができていなかった「挺対協」

金柄憲 韓国国史教科書研究所長 ソウル慰安婦像前での演説
『赤い水曜日』著者(韓国語版未来社、2021年)
(日本語訳版文芸春秋社、2022年)

金柄憲(韓国国史教科書研究所長)は、『赤い水曜日』の著者です。ソウルの日本大使館前に建てられた慰安婦像の前で、ニセ慰安婦像撤去を訴える記者会見(演説)を毎週開催しています。

今回の演説のポイントは、長年にわたって、毎週水曜に慰安婦像の前で、日本批判を行ってきた「挺対協」(韓国挺身隊問題対策協議会)が、その名前を「正義記憶連帯」と変えましたが、その理由は、彼らが「慰安婦」と「挺身隊」の区別も知らないで、数十年にわたって慰安婦問題を論じてきたことにやっと気が付いたからでした。

しかし、金所長は言います。「正義を記憶しよう」というけれど、「正義」とは正しい歴史を子供に教えることではないか、それなのに慰安婦のウソを相変わらず叫んでいるのは一体どういうことなのか、と。

・日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Kim.pdf
・英訳文: https://www.sdh-fact.com/CL/Kime.pdf

令和4年12月29日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

<回覧大歓迎>

The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan (The Korean Council) were not able to distinguish “comfort women” from “Volunteer Corps”

Speech made in front of the Comfort Woman Statue in Seoul

by Byeong Heon Kim, Representative, Korean History Textbook Research Institute,

Author of Red Wednesday—Lies of Comfort Women Campaign Alive for 30 Years

(Hangul version published by Miresa, 2021)

(Japanese version translation by Bungei Shunju-sha, 2022)

The point of Byeong Heon Kim’s speech is that The Korean Council, which led the campaign accusing Japan for enslaving comfort women and regularly gathered in front of the comfort girl statute in downtown Seoul for 30 years, is so ignorant in not being able to distinguish “comfort women” from members of the “volunteer corps.”

The Council changed its name to the “Korean Council for Justice and Remembrance for the Issue of Military Sexual Slavery by Japan,” perhaps because it finally realized its mistake.

However, Dr. Kim, Representative of the Korean History Textbook Research Institute, asks “What is ‘justice’”? “Justice” is in fact teaching children actual history and to recognize actual history, but the “Council for Justice” teaches children a completely false history of the comfort women.

URL: https://www.sdh-fact.com/essay-article/2004/
PDF: https://www.sdh-fact.com/CL/Kime.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.371J 大東亜戦争への道 その8 第3章 日露戦争ー1

2022年12月23日 金曜日

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲
その8 第三章 第一節 日露戦争:三国干渉の高いツケ

日露戦争に始まり満州事変へと続いてゆく極東の禍乱の第一原因は清国の愚策にあった、と著者は言います。すなわち、三国干渉に頼って日本から遼東半島を奪還した清は、却って莫大な報酬を支払う結果となったからです。
まずロシアは日清戦争の翌年李鴻章に露清密約を提案して成立させ、東支鉄道の建設を実現しました。ドイツは、宣教師の殺害を口実に、膠州湾を占領、膠州湾の99ケ年租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を得ました。これを見てロシアはすかさず艦隊を派遣して遼東半島の旅順と大連湾を占領し、25年間の租借権を獲得しました。フランスはロシアと提携して清を圧迫して、南支の膠州湾99ケ年の租借権を得ました。それに対抗して、イギリスは九竜半島の99ケ年租借権と、さらにロシアの旅順・大連租借に対抗して威海衛の租借権を獲得するといった一連の動きとなったのでした。また、英国は揚子江沿岸、フランスは海南島と広西・雲南了承、日本は台湾対岸の福建省についてそれぞれ不割譲を清に約させ、自己の勢力圏としました。
ある米国の歴史家(トーマス・ベイレイ)は、この列国のすさまじい侵奪を
清国の「生体解剖」と評しましたが、そのそもそもの元は中国の伝統的な「以夷制夷」という政策を目先の利益追求のために清が実行したところにありました。

・その8,第3章1節 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road8.pdf
・ 〃  第3章1節 英訳文:http://www.sdh-fact.com/CL/Road8E.pdf

令和4年12月23日
「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸
*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus
(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)
Part 8: Chapter 3: The Russo-Japanese War-1

The author writes that the primary cause of the turmoil in the Far East that commenced with the
Russo-Japanese War and culminated in the Manchurian Incident was monumentally foolish policy
decisions made by the Chinese. When the Japanese retroceded the Liaodong peninsula to China via
the Triple Intervention, instigated by China, the Chinese were now obligated to disburse huge sums
of money.
Russia was the first creditor to demand payment. About one year after the 1st Sino-Japanese War,
Russia approached Li Hongzhang; he agreed to sign the Li-Lobanov secret treaty. According to the treaty, China granted permission for the construction of a railroad crossing Manchuria, with Vladivostok as its terminal, to facilitate the transport of Russian troops.
Once Russia had reaped the rewards of the Triple Intervention, other powers followed suit.
Germany was the first to act; it sent a battleship to Jiaozhou Bay, using the murder of two German
missionaries in Shandong province as a pretext. In the following year Germany extracted a 99-year
lease on Jiazhou Bay from the Chinese, as well as railroad-construction and mining rights in
Shandong. Russia had kept abreast of German activities and, wasting no time, sent troops to the
Liaodong peninsula, occupying Port Arthur and Dalian Bay.
France joined Russia in the scramble for Chinese spoils. It obtained a 99-year lease on Guangzhou Bay in South China. The UK entered the competition, acquiring a 99-year lease on the Kowloon Peninsula; it also acquired a lease on Weihaiwei to counter Russia’s lease on Dalian.
Then, in 1898, the UK extracted a promise from the Chinese not to cede land on the coast of the
Yangzi River, and France agreed to do the same with respect to Hainan Island, Guangxi and Yunnan
provinces, as did Japan with respect to Fujian province, located across from Taiwan, thus embracing
them in the various spheres of influence. An American historian referred to these ghastly usurpations
as the “vivisection of China.”
The Triple Intervention, whereby China had asked Russia and its cohorts to restrain Japan, came at a very high price to China. Additionally, it ended up enmeshing the entire Far East, including Japan, in utter turmoil.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/2001/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road8E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.370J ウクライナ戦争考

2022年12月9日 金曜日

ウクライナ戦争考

茂木弘道(「史実を世界に発信する会」 会長)

ロシアのウクライナ侵攻は、ロシア大国主義に基づく大ロシア実現がその根本的な目的であることは2月26日国営ノーボスチ通信の記事からしても明らかなことである。

ロシアの大国主義的なナショナリズムは、小国ウクライナの主権、文化、言語、意志を無視して大ロシア主義を一方的に押し付けようとする、民族主義的なグローバリズムと化している。極めて危険極まりない悪質ナショナリズムでる。

日本の民族主義者の一部には、グローバリズムに反対し、民族主義を支持したいという心情の人達がいて、今回のロシアのウクライナへの全面侵攻を日本の真珠湾攻撃と同類のものと考えて同情するのは、困ったことである。

ウクライナのゼレンスキー大統領も、3月15日に行われた米連邦議会のオンライン演説で、「真珠湾を思い出してほしい。1941年12月7日、あのおぞましい朝のことを。」と訴えている。

しかし、これはとんでもない間違った認識である。

何よりも確認すべきことは、ロシアのウクライナ侵略は、自国の存立が危機的な状況下で行われたものであは全くないということである。小国ウクライナへの無法極まりない侵略であり、しかも核の脅し付きという悪質さである。

真珠湾攻撃は先制攻撃であるが、日本は正真正銘の国家存亡の危機に直面していたのである。1939年7月7日にアメリカは一方的に日米通商条約を破棄を宣言した。これはアメリカ史上類例のないことで、「準宣戦布告」と言えるものである。半年後からは、アメリカは日本に対して自由に「輸出制限」ができることになり、これを開始し、ついに1941年8月には石油の全面禁輸を行うに至った。石油の90%を輸入に頼っていた日本は、これにより近代国家として立ち行かない事態に陥ったのである。

「経済封鎖は戦争行為である」とアメリカのケロッグ国務長官は議会で述べているが、アメリカはイギリス、オランダなどと結託して日本に経済封鎖を仕掛けわけである。

すなわち先に戦争行為を仕掛けたのはアメリカなのである。しかも和解のための日米交渉に対するアメリカの最後回答が、ハル・ノートである。日本は、自衛手段を取る以外に道がなくなったのである。すなわち、自衛権の行使として、真珠湾攻撃を行ったのである。自衛戦争には、宣戦布告義務はない。

日本は正当な自衛権行使として真珠湾攻撃を行ったのであり、ロシアの侵略駅なウクライナ攻撃とは似て非なるものである、ということを全世界の人々に認識してもらわなければならない。

・日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Ukraine.pdf
・英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Ukrainee.pdf

令和4年12月9日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

SDHF Newsletter No.369J 大東亜戦争への道 その7 第2章 日清戦争ー4

2022年12月1日 木曜日

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その7 第二章 第四節 日清戦争:日清戦争と朝鮮

日清戦争のさなか、日本がそれ以前に朝鮮に提案していたもろもろの改革が親日政権により実施されました。「甲午改革」といいます。208件の改革議案が決議されましたが、その主なものは次の通りです。

1.清暦を廃し、李氏朝鮮開始年号を用いる。
2.貴賤門閥にかかわらず、人材を登用する。
3.人身売買の禁止。
4.平民にも軍国機務処に意見提出を許し、卓見の持ち主は官吏に採用。
5.司法権限によらぬ逮捕や刑罰の禁止。
6.拷問の禁止。
などなど、前近代性からの脱却を目指すものです。

ところが、この改革は改革派と国王・閔妃などの保守派との内訌により、頓挫してしまいます。日本はこれに対して「将来の対韓戦略はなるべく干渉をやめ、朝鮮をして自立せしむる」方針を閣議決定します。(1895年6月4日)

振り返ってみればこの時こそ、朝鮮が近代国家として独立を達成する絶好の機会でした。しかし、朝鮮はこの機会をとらえようとはしなかったのです。日本のこのような方針転換を日本の対露恐怖症の表れとしか見ず、親露政策によって日本を制し、自派の勢力を拡大せんとしたのです。

この新旧抗争をロシアは利用しました。ロシア公使ウェーバーはロシアの強大性を説いて、閔妃一派に接近しました。閔妃を葬れは、在韓日本志士のみならず、反閔妃派の朝鮮政客の叫びでもありました。10月7日、朝鮮政府が訓練隊の解散を通告すると、閔妃排除を深く決意し日本の三浦悟楼公使の指示を受けた訓練隊と日韓の有志は、大院君を擁して王宮に入らんとし、訓練隊は侍衛隊と衝突して王宮は大混乱に陥り、この乱中に閔妃は殺害されました。

この「乙未の変」後、金弘集を首班とする親日派の内閣が組織され、改革を再開しました。しかし、断髪令の強行が民心の離反を招き、その機に乗じてロシア公使ウエーバーが公使館防衛の名目でロシア水兵百名を引き入れ、親露派と謀って国王を王宮から奪取して、ロシア公使館に移しました。(2月11日)この事件を「露館播遷」と言います。

親日派は虐殺されたり、日本へ亡命したりしました。斯くして、国王はロシア公使館で政務をとるという異常事態となりました。

日本はロシアとの交渉によって異常事態に対処するすることになりましたが、ロシアの強硬姿勢が韓国の反発を招き、ロシアの軍事・財政顧問は韓国から引き上げることになりました。(3月23日)

ロシアは、韓国から撤退すると、南下政策の矛先を満洲に向けました。撤退の4日後の3月27日には清国から旅順・大連を租借したのでした。

・その7,第2章4節 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road7.pdf
・ 〃 第2章4節 英訳文: https://www.sdh-fact.com/CL/Road7E.pdf

令和4年12月1日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus
(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 7: Chapter 2: The 1st Sino-Japanese War-4

Korean domestic reforms proposed by Japan (the Gabo Reforms) were undertaken during the 1st Sino-Japanese War. The 208 reforms decided upon represented Korea’s first attempt at modernization; they included the following:

1. The Chinese calendar was replaced with a Korean calendar that begins in 1392, the year the Joseon dynasty was established
2. Hiring was to be done without regard to social class or lineage
3. Slave trade was banned
4. Common people could now express their opinions to the Deliberative Council; those with significant talent could be hired as government officials
5. Arrest and punishment unsupported by judicial authority were prohibited
6. Torture was prohibited

However, internecine strife in Korea presented a serious obstacle to the reforms. The conflict between the progressives and the conservatives continued to worsen, and ultimately became one between the pro-Japanese and pro-Russian factions.

On June 4 Japan’s Diet passed a resolution concerning Korea policy. Japan would, in the future, avoid interfering in Korean affairs, and allow Korea to achieve autonomy on its own. This would be the best opportunity for Korea to realize true independence and become a modern nation. However,

this policy change was interpreted by Queen Min as a manifestation of Japan’s fear of Russia. She began to attempt to rein Japan in through pro-Russian policies, and to acquire more strength for her faction.

Russia took full advantage of the discord between the progressives and conservatives. Russian Ambassador Weber made overtures to Queen Min and her followers, boasting about Russia’s might.

“Bury the queen!” became the war cry not only of Japanese idealists in Korea, but also of Korean politicians who opposed the queen’s faction. On October 7, 1895 the Korean government announced that the Military Training Division would be disbanded and its weapons confiscated. Early the next morning, the Military Training Division and Japanese and Korean partisans, under orders from Japanese Ambassador Miura Gorō, who had pledged to do away with Queen Min, entered the palace with the Daewongun. During this incident Queen Ming was killed.

Afterwards Kim Hong-jip formed a new pro-Japanese cabinet, and once again began implementing reforms. But some of them, e.g., the Short Hair Act, alienated the Korean people, and in 1896 uprisings cropped up all over the nation. Russian Ambassador Weber took advantage of that situation by bringing 100 Russian sailors into Korea supposedly to protect the Russian legation. Conspiring with pro-Russian Koreans, Weber kidnapped the king on February 11 and escorted him to the Russian legation. The king’s sojourn there is referred to as Gojong’s internal exile. It meant that Korean policy was drafted at the Russian legation, an extraordinary circumstance.

But high-pressure Russian diplomatic tactics backfired when they incurred the enmity of the Korean people. On March 23, 1898, Russian military and financial advisors departed from Korea. The Russians shifted their focus to a new target – a southward advance to Manchuria. On March 27, only four days after its military and financial advisers left Korea, Russia leased Port Arthur and Dalian from China.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1989/
PDF:  https://www.sdh-fact.com/CL/Road7E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.367J 『鯨は国を助ける)Kindle, オンデマンド

2022年11月21日 月曜日

史実を世界に発信する会」 英訳書を
Kindle、オン・ディマンド(ペーパーバック)で刊行

『鯨(けい)は国を助く』(小泉武夫)(小学館)の英訳書、”Counting the Blessing of Wales”をこのほどKindle、オンデマンド(ペーパーバック)でAmazon より刊行しました。

日本の戦後の食糧難の時に動物たんぱく源の48%を賄ってくれたのが鯨でした。今また、鯨は貴重な食糧源として日本を、そして世界を救う存在になろうとしています。反捕鯨がいかに迷信と偏見に満ちたものであるか、小泉先生の本書は世界の認識を変えてくれる書です。

令和4年10月21日 「史実を世界に発信する会」 茂木弘道

<回覧大歓迎>

<オンデマンド・ぺーパーバック>

Counting the Blessings of Whales:Insights from a Chopsticks-wielding Patriot(English Edition) | Takeo Koizumi |本 | 通販 | Amazon

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Amazon.co.jp: Counting the Blessings of Whales: Insights from a Chopsticks-wielding Patriot (English Edition) 電子書籍: Koizumi , Takeo: 洋書

SDHF Newsletter No.368J 大東亜戦争への道 その6 第2章 日清戦争ー3

2022年11月10日 木曜日

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その6 第二章 第三節 日清戦争:下関条約と三国干渉

世界の予想を裏切って日本は清に圧勝しました。敗色明らかになった清は遂に講和を申し込んできました。明治28年(1985年)4月17日講和条約が調印されました。条約の骨子は、次の通りでした。

1、清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを承認する。
2、清国は遼東半島、台湾全島および澎湖諸島を永遠に日本に割与する。
3、清国は軍費賠償金2億両(テール)を支払う。

ところが、この直後日本は青天の霹靂に見舞われることになりました。条約に対する列国の干渉です。
清は伝統的外交政策である「夷を以て夷を制する」を用いて、ロシアに介入を働きかけたわけです。ロシアは遼東半島領有を国家的野望としていたので、これに乗り、フランス、ドイツを誘って、遼東半島を放棄せよと勧告して来たのです。
清国内では、湖広総督で有力者である張之洞は「英露独諸国に利益を与えて実力援助を乞うべし」さらには「露には新疆あるいは天山南路か北路の数城を与え、英にはチベットを与えるべし」とまで言う有様でした。その後の東亜の禍根を予言する状況が3国干渉でした。
日本の朝野は激発しました。明治天皇が、遼東還付の詔勅を出し、隠忍自重を諭しましたので暴発は起こりませんでした。
この後6月、議会では尾崎行雄や犬養毅らが、1)日本の光栄を回復するために速やかに軍備を拡張すること、2)政府は遼東還付の責任を明らかにすること、3)朝鮮における日本の地位と勢力を維持すること、の3項目について臨時議会開催を要求しています。
福沢諭吉が主筆として論陣を張る時事新報さえ、「今日の無事は明日の安心を証するに足らず。無事平和の時に於いても軍備の不完全はいかにも危険の至りにして、あたかも厳冬のまさにきたらんとして綿衣の未だならざるに同じく、はなはだ心細き次第なり。」と書いています。
軍備拡張を唱えたのは国民であり、議会政治家であり、言論人であったというのが、現実でした。「臥薪嘗胆」が国民的なスローガンとなりました。

・その6,第2章3節 日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road6.pdf
・ 〃 第2章3節 英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Road6E.pdf

令和4年11月10日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus

(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 6: Chapter 2: The 1st Sino-Japanese War-3
Defying the world’s expectations, the Japanese handed China a resounding defeat. The Chinese petitioned for peace talks, which took place at the Shunpanro, a hotel in Shimonoseki. The resulting agreement was signed on April 17, 1895. The framework of what became the treaty of Shimonoseki follows:

1. China recognizes the full and complete independence and autonomy of Korea.
2. China cedes to Japan in perpetuity the Liaodong peninsula, Formosa (Taiwan) and all appertaining islands, and the Pescadores Islands.
3. China agrees to pay to Japan as a war indemnity 200 million taels (ca. \300 million).

Unfortunately, no sooner had the treaty been concluded than Japan was confronted by a bolt from the blue in the form of interference from Western powers. There is a traditional Chinese diplomatic stratagem that involves pitting one barbarian tribe or state against another to gain the upper hand. In employing this maneuver, the Chinese sought Russian cooperation. Since Russia was eager to acquire territory on the Manchuria-Korea border and the Liaodong peninsula, it readily agreed, joined by France and Germany.
The Triple Intervention took place on April 23. Russia, France and Germany “advised” Japan to retrocede the Liaodong peninsula, which Japan had rightfully won.
In China Zhang Zhidong, then the viceroy of Hubei and Hunan provinces, conveyed a mind- boggling opinion to the Qing court: “Waste no time in requesting assistance from the UK, Russia, and Germany, offering concessions in return.” He went so far as to suggest, “After we have intimidated the barbarians by abrogating the treaty, we should cede Xinjiang or the Southern (or Northern) Silk Road to Russia, and Tibet to the UK.” This type of thinking on the part of the Chinese triggered the tribulations that plagued East Asia for the next 50 years.
The Japanese people could not possibly accept the shameful Triple Intervention. Emperor Meiji issued a rescript in which he counseled his subjects to exercise patience and restraint.
But some Lower-House Diet members, among them Ozaki Yukio and Inugai Tsuyoshi, launched a campaign in June 1896 seeking an extraordinary Diet session to discuss the following three points.

(1) Expand the military immediately to restore Japan’s honor
(2) Compel the government to accept responsibility for the retrocession of Liaodong
(3) Maintain Japanese authority and status in Korea
It is important to realize that it was not only Diet representatives and journalists who called for military expansion, but also the citizens of Japan.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1984/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road6E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.366J 大東亜戦争への道 その5 第2章 日清戦争ー2

2022年10月24日 月曜日

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その5 第二章 第二節 日清戦争:清国軍の暴状

すでに国内法の近代化を進め、条約改正も進捗していた日本は、明治27年7月、日清戦争の開戦直前に、まず英国との間で治外法権撤廃に成功していました。国際法についても、天皇の宣戦の詔勅で「いやしくも国際法にもとらざる限り」一切の手段を尽くすべし、と述べられているように国際法尊重を強く将兵に求めていました。

国際法順守を主張するのは普通、弱国か敗戦国で、強国や戦勝国は国際法を平然と無視するのが通例ですが、わが国は違っていました。日本は終始、圧倒的な戦勝者でありながら国際法を忠実に守ったのでした。フランスの国際法学者フォーシーユは次のように述べています。

事実は日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにもかかわらず、自らはこれを尊重した。

一方清国兵の暴虐は旧態依然たるものでした。フィガロ紙の記者カレスコーとイリュストラシオンは従軍記に次のように述べています。

ひるがえって清軍を見よ。日本軍卒の一度彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰を以てこれを苦しむるにあらずや。あるいは手足を立ち、或いは首を切り、睾を抜く。その無常、実に野蛮人にあらざればよくすべき業にあらず。

ところがこうした実状にもかかわらず、日本軍の暴行という誇大虚偽報道が、この時すでに出現しているのです。南京虐殺報道の先駆者です。アメリカの『ワールド』紙は、「旅順陥落の翌日から4日間、非戦闘員、婦女子、幼児など6万人を殺害し」と書いているのです。後年旅順に新市街ができたときの人口が1万5千に過ぎなかったことを考えると、誇大が過ぎています。南京は陥落時、安全区に20万人がいたが、1か月後に25万になっているのに南京30万虐殺を主張しているのと軌を一にしています。

・その5,第2章2節 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road5.pdf

・ 〃 第2章2節 英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Road5E.pdf

令和4年10月24日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道
協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR

Nakamura Akira, Dokkyo University Professor Emeritus

(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 5: Chapter 2: The 1st Sino-Japanese War -2

After inaugurating the Meiji Renovation, the Japanese proceeded to modernize domestic law, using Western legal systems as their models. As a result, they were able to make some progress with treaty revision. In July 1894, not long before the commencement of the 1st Sino-Japanese War, they succeeded in removing the extraterritoriality clause from their treaty with the UK.

Thus, even before the 1st Sino-Japanese War commenced, Japan had demonstrated its respect for international laws and regulations. Emperor Meiji, in his imperial rescript declaring war on China wrote that “We command each and all of our competent authorities … to carry on hostilities by sea and land against China, with all the means at their disposal, consistently with the Law of Nations.”

Ordinarily it is weak or defeated nations that advocate strict observance of international law. Powerful or victorious nations tend to blithely disregard it. But the behavior of Japanese military personnel during the 1st Sino-Japanese War was different. Throughout the conflict the Japanese won victory after victory, yet they adhered faithfully to the principles of international law, and won the praise of at least one French legal scholar, Paul Fauchille, for having done so.

Facts have demonstrated that the Japanese government knows how to apply the principles of the civilization it has embraced. (…) During the Sino-Japanese War, the Japanese faithfully adhered to the principles of international law, despite the fact that their enemy did not.

On the contrary, the Chinese Army resorted to long-established sadistic acts. Two war correspondents, Messrs. Ganesco and Lalo, who wrote for the French newspapers Le Figaro and L’Illustration, respectively, wrote:

Once the Chinese capture a Japanese soldier, they will use every means available to them to punish him and cause him to suffer. They will cut off his arms and legs, or decapitate him, or slash off his genitals. Only savages could behave with such cruelty.

However, strangely enough, articles appeared in some foreign periodicals reporting that the Japanese army committed atrocities in Port Arthur. They could be described as precursors to subsequent descriptions of the Nanjing Incident. According to the New York World, the Japanese murdered approximately 60,000 noncombatants, including women and children. Considering that later, when a new city sprang up in Port Arthur, there were only about 14,000 Manchurians living there, we can assume that the 60,000 figure is simply a gross exaggeration. When Nanjing fell, there were 200,000 civilians in the Safety Zone, and the population increased to 250,000. But the so-called Nanjing Massacre mythmakers insist that 300,000 people were massacred. The contentions that massacres took place in Port Arthur and Nanjing share a common central theme.

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1978/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road5E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.365J 台湾の法的地位未定論新論

2022年10月13日 木曜日

台湾の法的地位未定新論

—中国は台湾領有の法的資格を有せず—
国際歴史論戦研究所上席研究員 河原昌一郎

第二次大戦後日本は台湾及び澎湖島の領有権は放棄しましたが、その帰属先告げていませんので、現在でも領有権の所在が確定しておらず、所在を確定するためには改めて国際会議開催等の何らかの手続きが必要です。

1943年11月27日のカイロ宣言では、「満洲、台湾及び澎湖諸島のように日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還する」とあり、ポツダム宣言では「カイロ宣言の条項は履行さるべきである」と規定されています。しかし、国際法上の権利の移転は、その条約に政府代表者が署名したうえで、議会が批准しなければ効果は生じません。ポツダム宣言の受諾はあくまでも同宣言の内容の履行義務を負ったということであって、領有権移転の法的効果が生じたということではありません。

もし移転が法的に行われていたなら、サンフランシスコ条約の第2条b項の規定は意味がないことになります。

2条b項では、日本による台湾及び澎湖島の領有権の放棄を規定していますが、放棄された地は無主地となります。領有権を放棄された無主地について国際法上認められている法理が先占の法理です。無主地は、他の国家に先んじて支配を及ぼすことによって自国の領土とすることができるわけです。

台湾及び澎湖諸島が無主地になった時この地を占有していたのは中華民国(台湾政府)です。ただし、中華人民共和国(中国政府)がこの地の領有を主張していますので、平穏に台湾政府が「支配を及ぼす」状況にあったとはいいがたいので、台湾政府がこの地を領有したとするには疑義があるのです。

一方で、中国政府は、この地に「支配を及ぼす」前提となる占有すら行っていません。先占の法理からすれば中国政府には台湾を領有する法的資格は全くないものと言わざるを得ないのです。

さらなる議論については本文をお読みください。

・日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Legal.pdf
・英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Legale.pdf

令和4年10月13日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

<回覧大歓迎>

A New View on the “Legal Status of Taiwan is Undetermined” Argument

– China Does Not Have a Legal Right of Possession of Taiwan –

Kawahara Shoichi

Senior Researcher, International Research Institute of Controversial Histories

After World War II, Japan renounced its possession of Taiwan and Pescadores Islands but only renounced its right of possession and did not specify territorial jurisdiction. Even now, determination of who holds the right of possession of Taiwan and Pescadores Island is pending, which necessitates certain procedures, such as holding an international conference to determine who bears the right of possession.

The Cairo declaration, issued on December 1, 1943, states “all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the Pescadores, shall be restored to Republic of China” and the Potsdam Declaration, issued on July 26, 1945, in its Article 8 stated “The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.” However this does not immediately evoke legal transfer of right of possession of Taiwan and Pescadores Islands. Transfer of a right, based on international law, does not come into effect unless a treaty is signed by government representatives and ratified by its council. Acceptance of the Potsdam Declaration merely obligated Japan to carry out the obligations in it and does not evoke a legal transfer of the right of possession.

If acceptance of the Potsdam Declaration induced transfer of the right of possession, the relevant provision in the San Francisco Peace Treaty would have been pointless and the provision should not have been made.

The San Francisco Peace Treaty Article 2 Section b provided that Japan renounces the right of possession of Taiwan and Pescadores Island and the land of which the right of possession was renounced becomes terra nullius. The principle of law based on international law concerning terra nullius is occupatio, which means that a nation can acquire ownership of terra nullius as its territory by exercising control over it before other nations do. What “exercising control” means is arguable but let us say that it refers to the state in which sovereignty is peacefully and continuously exercised over terra nullius without objection from other nations.

These lands were occupied by the Republic of China (the Government of Taiwan) when they became terra nullius. However, the People’s Republic of China (the Government of China) claims to possesses the lands. The current situation can hardly be said to be peaceful “exercising of control” and there is doubt of whether the Government of Taiwan possesses Taiwan and the Pescadores Islands.

At the same time, the Government of China does not even occupy Taiwan and the Pescadores Islands; the Government of China is not “exercising control” over Taiwan and the Pescadores Islands. Based on occupatio, the Government of China has no legal right of possession of Taiwan.

URL: https://www.sdh-fact.com/essay-article/1973/
PDF: http://www.sdh-fact.com/CL/Legale.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.363J 大東亜戦争への道 その3 第1章 近代日韓関係の始まり

2022年9月12日 月曜日

『大東亜戦争への道』(展転社)
中村 粲

その3 第一章 近代日韓関係の始まり

日本が明治維新によって開国・近代化を進めるうえで、隣国の中国(清)・朝鮮との国交を正常化することが、必須の課題でした。というのは、両国とはそれまで正式の外交関係が結ばれていなかったからです。

清国との交渉は最初は拒絶されましたが、清国の開明派の努力もあり、明治4年には日清修好条規18条が調印されました。この条約で重要なことは、日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合う平等条約となっていることです。

さて、では朝鮮との国交はどうだったでしょうか。維新政府は明治元年に各国政府に王政復古の旨を通告しましたが、朝鮮は我が国の修好の提議の受理を拒否したのです。その理由は書簡に「皇室」「勅」「朝廷」などの文字が使われているというのです。中国のみが属国に対して使う文字だというのです。中国に対する属国意識、事大主義丸出しの言い分ですが、こんなことを理由に、日本からの修好要求を拒否したことから、近代日本と朝鮮の関係が始まったわけです。

しかも、日本側からはその文字にはこだわらない書簡を出しても、極めて無礼な対応が続くので、日本では「征韓論」が持ち上がってきます。西郷隆盛は、「征韓論」というより、自分が全権代表として、誠意を尽くした対応、説得しようと提議したのですが、「樺太に露国との紛争頻発する現状では遣韓使節をはするのは時期尚早」との理由で受け入れらませんでした。

清との間ですら、明治4年に修好条約が結ばれているのに、朝鮮は旧套墨守を続け、明治9年、江華島事件がきっかけなり、ようやく「日朝修好条規」が結ばれることになります。

改革を求める朴泳孝、金玉均らの独立派が日本との協力による近代化を図ろうとして、明治17年クーデターを起こし、改革政権を樹立します。しかし、事大党は清国の出兵を要請し優勢な清兵によってクーデターは鎮圧され、日本公使館が焼き払われます。朴泳孝、金玉均らは日本に亡命します。

この事変の後、伊藤博文と李鴻章との間で、天津条約が結ばれ、両軍の撤退と、将来出兵する場合は互いに通告し合うことが決められました。しかし、清 が朝鮮の実効支配を強める中、今度はロシアという勢力が朝鮮に進出してきます。

朝鮮の近代化支援に情熱を燃やして来た福沢諭吉が、「脱亜論」を書いたのは、このような状況下でした。「今日の謀をなすに、わが国は隣国の開明を待ちて共に亜細亜を起こすの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、・・・・」。

・その3,第1章 日本語原文: http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Road3.pdf
・ 〃 第1章 英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Road3E.pdf

令和4年9月12日

「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

協力者代表:神奈川大学教授 小山和伸

*拡散大歓迎

THE ROAD TO THE GREATER EAST ASIAN WAR
Nakamura Akira, Professor Emeritus of Dokkyo University

(English Translation: Society for the Dissemination of Historical Fact)

Part 3: Chapter 1 Beginnings of Modern Japan-Korean Relation

Japan started Meiji-Renovation for opening up policy and modernization in 1872. To resume a new formal relation with Qing China and Korea was of utmost importance.

Qing refused Japanese request for the first time, but because of recognition of some progressive bureaucrats of the court, the Sino-Japanese Friendship and trade Treaty was concluded in 1871.

An important aspect of the 1871 treaty was the acknowledgement of mutual extraterritoriality and consular jurisdiction, which made it in an equal treaty.

Then, how did the relation with Korea progress? In January 1868 the new government sent notifications to some nations announcing the restoration of imperial rule. However, Koreans received to accept the message. The reason given for their refusal was that the message from So contained several Chinese characters that did not appear in previous missives of that sort. They were the characters representing Imperial House of Japan, imperial decree, and imperial court. Since Korea was a tributary state of China, in the minds of the Koreans, the Chinese characters to which they took offense could be used only when referring to China. This was the start of Japan Korea modern relations.

Even if Japan changed the expression characters, Korean stance did not change but became more arrogant. So, advocate of sending a punitive expedition against Korea intensified in Japan. Councillor Saigo Takamori volunteered himself as envoy plenipotentiary, and said that he would not be accompanied by military personnel, not even one soldier. However, Saigo’s proposal to launch a punitive expedition against Korea was declined; “Dispatching an emissary to Korea would be premature, there are frequent disputes with Russia over Karafuto (Sakhalin).

Even though the Sino-Japanese Friendship and trade Treaty was concluded in 1871, Korea continued to stick to old tradition until 187, when Japan-Korea Treaty was concluded by the effect of

The Ganghwa Island Incident.

In December 1884, the Enlightenment Party, Kim-Ok-gyn and Pak Yong-hyo as leader, made a coup d’état with the support of from Japan. The Conservative Party asked China to send Troops to Korea. The coup was reversed. Kim Ok-gyun, Pak Yong-hyo, and other key members of the Enlightenment Party sought refuge in Japan.

After this incident, the Convention of Tsientsin was concluded between Japan and Korea agreeing that both military in Kore be withdrawn and if Japan or China were to send troops due to unrest in Korea, the nation sending troops was obliged to notify the other before the fact. China dominated its position in Korea but Russia increased its control in Korea.

Under such circumstances, Fukuzawa Yukichi, who made efforts to modernize Korea, wrote an article in Jiji shinpo: “Argument in Favor of Abandoning Asia”

When our thoughts turn to Japan’s foreign policy, we must realize that Japan does not have the time to wait for China and Korea to acquire modern civilization to the extent where Japan can join with them in encouraging the growth of Asia. Instead, Japan should separate itself from its declining neighbors and cast its fate with the enlightened nations of the West. …

URL:  https://www.sdh-fact.com/book-article/1963/
PDF:  http://www.sdh-fact.com/CL/Road3E.pdf

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

SDHF Newsletter No.362J アイヌ問題を放置していると北海道は第二のウクライナになる

2022年8月3日 水曜日

アイヌ問題を放置していると北海道は第2のウクライナになる

澤田健一(日本アイヌ研究会代表)

澤田健一氏は掲記の意見書を10月に開催予定の国連自由権規約委員会に提出し、委員会の公式サイトに掲載されました。国際歴史論戦研究所のメンバーとともに、ジュネーブに出かけ、意見を開陳する計画です。

・自由権規約委員会への意見書:  https://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CCPR/Shared%20Documents/JPN/INT_CCPR_CSS_JPN_49219_E.pdf

・意見書の日本語原文:https://www.sdh-fact.com/CL/CCPR136.pdf

意見書で述べられている通り、ロシアはアイヌ問題を通して、北海道への領土的野心を主張し始めています。これに乗じて日本国内から、ロシアがアイヌ自治州を設立して北海道の一部を管轄下においてほしいとする要望するとんでもない要望書が、プーチン大統領あてに提出されています。まさにウクライナのドンバス地方で起こっていることが、北海道で起こらないとは言えない状況になっています。

これというのも、日本政府がアイヌを日本民族ではないかのような曖昧な認識を示していることが根本的な原因です。

最近の科学的な研究結果は、アイヌは日本民族の一員であることを明確に示しています。

2019年5月13日、国立科学博物館、国立遺伝学研究所、東京大学などの共同研究の結果、「アイヌは縄文人のDNAを70パーセント受け継いでいる」と発表しています。最近よく言われるアイヌが中世以降に北海道に入ってきたという説はこうした科学的な根拠からはずれた間違った見解です。

さらに、2020年8月25日に公表された、東京大学、東京大大学院、金沢大学による「縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史」には、『本州縄文人であるIK002(愛知県伊川津貝塚遺跡出土の縄文人骨)は、アイヌのクラスターに含まれた。この結果は北海道縄文人の全ゲノム解析と一致し、アイヌ民族が日本列島の住人としてもっとも古い系統であると同時に東ユーラシア人の創始集団の直接の子孫である可能性が高いことを示している』と書かれています。すなわち、アイヌが縄文日本人の系統であるだけではなく、東ユーラシア人の始祖となった可能性まで指摘しています。つまり、アイヌが北方から入ってきたのではなく、逆にシベリアに進出していたということです。

こうした事実に基づいた見解を国連自由権委員会は、日本政府、ロシア政府に勧告するよう意見書は求めています。

令和4年8月3日 「史実を世界に発信する会」 会長 茂木弘道

Leaving the Ainu Issue Unaddressed Will Make Another Ukraine
Sawada Kenichi,

Japan Society for Ainu Studies

Mr. Sawada Kenichi sent the above-mentioned statement to the CCPR-International Covenant on Civil and Political Rights, whose 136 Session is scheduled 10 October 2022 – 04 November 2022. His statement is uploaded on the official site as stated bellow:

Mr. Sawada’s statement: https://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CCPR/Shared%20Documents/JPN/INT_CCPR_CSS_JPN_49219_E.pdf

As mentioned in his statement, the Russian Federation is beginning to express its

territorial ambitions toward Hokkaido through the Ainu issue. A written request that Russia should establish an Ainu autonomous province to place part of Hokkaido under its control has been submitted to President Putin from within Japan. Claims such as “Ainu are of the Russian origin” and “Russia has all rights to Hokkaido” are completely wrong. These claims made in Japan and overseas that encourage the division of Hokkaido are caused by the obscure document of the Japanese government that recognized the Ainu. Leaving such a situation unaddressed is very dangerous. We should not give Russia a pretext for invading Hokkaido.

However, recent scientific DNA research shows that the Ainu are undoubtedly descendants of the Jomon Japanese people. On May 13, 2019, Japan’s leading research institutions, including the National Museum of Nature and Science, National Institution of Genetics and the University of Tokyo, announced the joint research result that the Ainu inherit 70% of the DNA of the Jomon people. The Ainu continuously inhabited Hokkaido at least since the Jomon period (more than 10,000 years ago).

Furthermore, the “Research content” of the article “Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations” by the University of Tokyo, the University of Tokyo Graduate School and Kanazawa University, released on August 25, 2020, says that ‘IK002 (note: bone of a Jomon individual excavated from the Ikawazu shell-mound site in Aichi Prefecture), a mainland Jomon individual, was found to cluster with the Ainu.’ This result coincides with the whole-genome sequencing of the Hokkaido Jomon people, which indicates that the Ainu people are the oldest lineage of inhabitants of the Japanese archipelago, and, at the same time, they are likely to be one of the direct descendants of the founding population of East Eurasians.

MOTEKI Hiromichi, Chairman
Society for the Dissemination of Historical Fact

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